1の雪 すれ違う視線

「またバカやって来たのか!」


仕事から帰ってくるなり、俺が耳にしたのは聞き慣れた怒声が飛んできた。

食堂の方では、メルクの説教時間がもう始まっていたらしい。


「……メルク姉さん、悪いと思ってるよ。けど、これには訳があって」

「へえ……、洗ったばかりの服をボロボロにしてまで何をしてきたってわけ?」


足を忍ばせて食堂を覗き込んだら、案の定仁王立ちになっているメルクの背中と、その前で正座をさせられている子供達が数名。

一様に縮こまっている少年少女の真っ白な服には、あちこちに破れた跡や土汚れが離れた場所からでもよく見えた。


「……その、次のお手伝いの日って、オルフェウスさんの喫茶店でしょ? 僕達、オルフェウスさんにプレゼントをしようと思って色々探してたんだ」

「それで?」

「ほら、オルフェウスさんの喫茶店”アルゴの笛吹”って1か月後にコンサートがあるんでしょ? その時にプレゼントで花をあげようかなって……」


仕事場から持ち帰った資料を抱えているからこのまま部屋に立ち去ろうとしたが、言い訳をするパーシアスの隣に座っているエステルの姿を見つけてしまった。


収穫期の麦畑のような金色の髪は、ボサボサになって見る影もない。絹に似たきめ細やかな肌は、所々土で汚れている。


(こりゃ、後でシャワーを浴びなきゃ駄目だな)


フッと笑いそうになったが、俺の姿に気が付いたエステルの青色の瞳が俺を捉えた。

助けを求める視線を投げかけて、俺はしばらく様子を見ることに。


「それで色々探していたら、時間が経つのを忘れちゃって……」

「成程、成程……」


パーシアスの弁明が終わり、メルクがコクコクと頷く。アルニやエステル達、正座で待機している子供たちが固唾を呑んで見守っていたが、


「アホンダラッ!! 日が落ちるまで花探しをしている奴がいるかっ!」

「ゲフッ!」


メルクの手刀が、パーシアスの脳天に振り下ろされた。軽く悲鳴を上げるエステル達だったが、怒気を上げているメルクは気にしない。


「先週レダから言われたことを、もう忘れたんか。最近盗賊の襲撃が多いから、陽が落ちるまでには孤児院に戻りましょうって」

「でも、それってここから帝都の反対側で起きている話でしょ。ここまで盗賊が来るなんでっ!」

「それが油断だっていうの! いつ、ここを狙ってくるか分からないでしょうが!」


口答えをするパーシアスの脳天に再び手刀が炸裂。


「それに、私がいつも言ってるだろ。約束はきちんと守って、さもなきゃ」


後ろに引きそうなエステル達に前のめりになって、ズイッと人差し指を突き出す。




「ドッペルゲンガーに喰われるよ」




扉の影に隠れていた俺は、軽い溜め息を吐く。

(あんたにとっては、盗賊よりも伝説の方が怖いのか)


ドッペルゲンガー。

俺達が暮らす神聖スフィア帝国の住人なら知らない者はいない、伝説の怪物。

自分自身の姿形はもちろん、声も、記憶さえも瓜二つ。

けれど、力―技術、知識はもちろん、メンタル面での強さに至るまで―は本物を上回り、存在を霞ませてしまう。

ドッペルゲンガーにまつわる伝承は、帝国建国以前からあるものの、どの伝承もたった一つの結末で幕を閉じる。


曰く、「ドッペルゲンガーが本物の人間に成り代わり、本物の人間は姿を消す」

理由は簡単。力が上の者ドッペルゲンガーの方が生き残って当然だから。


故に、ドッペルゲンガーは帝国の人間から怖れられている。

自分をこの世界から消してしまう、鏡写しのバケモノとして。


とはいっても、所詮は伝説だ。空想を見る子供相手なら効果ありだが、現実を知っている大人は惑わされない。実際、15年間生きた俺でさえも、ドッペルゲンガーの噂なんて聞いたこともないし、自分のドッペルゲンガーに出会ったこともない。

けれど、俺と同い年のメルクは何故かドッペルゲンガーの話を事あるごとに持ち出している。話に割り込もうものなら、子供達共々最後まで説教されるのがオチだ。


エステル達には悪いが、ここでメルクに巻き込まれるのは御免だ。

(ごめん)

片手で平謝りをしながら、そそくさと食堂の入り口を去る。悲し気な眼差しを投げかけるエステルを、視界の隅に捉えながら、


「それに、この話はアタシよりもっと言ってるでしょうが。そうよね……、アル!」


食堂から消える間際、唐突に大声で掛けられて、心臓が跳ね上がった。

その衝撃で右手の力が緩んで、抱えていた書類の束が音を立てて床に散らばる。


「い、いきなりなんだよ! 急に声をかけるな、心臓に悪いだろ!」

「さっきから後ろでコソコソ見ておいて、よく言うよ。こっちは、背中にあんたの視線感じて、イライラしてんだよ!」


振り返ったメルクが、吊り上がった両目で俺を睨んだ。

肩まで伸ばした白銀の髪を振りまき、いつもはミルクのなめらかさを保った肌は怒りで真っ赤、エメラルドの瞳に至っては視線が凶器だったら即死してしまいそうな睨みを利かせている。

相変わらず怒り出したら、見境がない。深々と溜め息をつきながら、メルクのにらみを正面から受け取める。


「メルク……、少しエステル達のことを考えたらどうなんだ? エステル達も、別に怒られたくて泥まみれになったわけじゃないだろ?」

「アタシがこの子らにどんな性癖を仕込んでいるように見えるんだ、あんたの目には。それに、アタシが怒ってるのは、こんな時期に外を出歩いてること。まだ盗賊がウロウロしているときに出歩くなんて、論外だろうが」

「そうならないように、教えるのが先だって言ってんだ。頭ごなしにギャアギャア怒鳴って、少し黙ったらどうなんだ!」

「それが甘いから先に怒るのが先だろうが、あんたが黙れ!」


メルクの後ろでエステルがおろおろしているが、今はこの分からず屋を黙らせることが先決だ。

文字通り目と鼻の先まで近づいたメルクは、ジロリと白い目で見上げている。俺の頭二つ分も身長差があるというのに、全く怯みもしない。

むしろ、気を抜けば、俺が突き飛ばされそうになる。


物心ついた時から毎日と言っていいほど顔を合わせている、腐れ縁を通りこしてもはや双子の兄弟のような少女だ。

昔から何かとちょっかいを出すことの多かったけど、最近になってやたらと攻撃的になってきている。もっとも、盗賊の件も含めて就職先の仕事が詰まっているから、ストレスが溜まっているのは仕方ないが。


けれど、それ以上に必要以上に俺の前に立ちはだかることが多い。

まるで、ここより先に行かせはしない意志で塞いでいるような。


「ア、アルにい、メルねえ! この辺にして……!」


とうとう見かねたエステルが、間に入ってくる。けれど、12歳の少女の力では、15歳の俺とメルクの身体を動かすことができない。

メルクの後ろから、パーシアス達が浮足立つ気配が伝わってくる。このまま、食堂中が針のムシロに似た空気が流れて、


「あんたらが黙れ! 一番うるさいのよ!」


突然俺の腰辺りに飛んできた怒鳴り声と強烈な衝撃に、前のめりになってしまう。

割り込んでいたエステルは、2回りも背丈がある俺の身体と自分と同じぐらいのメルクに挟み込まれる。

おかげでそれ以上くっつくことはなかったけど、目と鼻の先にあったメルクとの距離が一気に狭まった。いつも見ているはずなのに、端整な顔立ちが間近に近づくと心臓の鼓動がわずかに跳ね上がる。


けれど、それも一瞬。メルクの目が大きく見開いた途端、身体を突き放した。後ろによろけて、背中に何かが当たった感触がしたのと、メルクが思い切り白い目を向けたのは同時だった。


「近いだろうが!」

「俺のせいじゃねえ、文句ならこっちに言えよ。……つか、いきなり後ろからドつくな、ステラ!」


手を後ろに回して、背中にぶつかったステラを前に引っ張り出す。

メルク程ではないが、ステラもまた仏頂面で俺達を睨み上げる。

肩より流れ落ちる長い髪は、レモンに似た金色。けれど、それ以上に目を見張るのが、目の前に立つエステルとよく似た風貌だ。

青色の瞳、金色の髪、そして鏡写しのような端整な顔立ち。首根っこを押さえている方がステラだと分からなければ、俺でもエステルとの区別をつきにくい。


違いがあるとすれば、瞳の微妙な色違いぐらいだろう。

エステルの瞳は、快晴の昼のような空色。

ステラの瞳は、満月の夜のような藍色。


「ド突いてようやく後ろに気付く兄さんの方こそ、大声で迷惑してんじゃないの。というか、兄さんの仕事道具を早く片付けて。アストレイア達に拾わせる気?」


ステラが指さした方を見れば、いつもステラと一緒にいる3人の少女たちが、床に散らばった書類を拾っている。

慌ててステラから手を離し、書類を拾う少女達に駆け寄る。既にほとんどの書類が少女達に拾われて、俺は頭を下げながら書類を集める。その時、足元に置かれていた数冊の分厚い本を目にする。


「悪い、帝都の図書館から帰って来たばかりだよな。こんなバカ騒ぎに巻き込んじゃって」

「いえいえ、これぐらい大丈夫ですって。ステラ?」


帝都の図書館の印が押されている本を持ち上げた少女の一人アストレイアが呼ぶと、ステラが振り返って大股で食堂の出口に向かってくる。

眉間に皺を寄せ、瞳にはわずかに苛立ちを滲ませていた。


「……ステラ、次の日曜日って空いてる?」


俺とすれ違う間際、メルクの前に立ったエステルが問いかける。ステラが立ち止まり、横顔が俺の真下で地面を睨む。


「ほら、次の日曜日って図書館の休館日でしょ。ステラって、ずっと図書館でアストレイア達と一緒に勉強してるじゃない。たまに息抜きで、みんなと一緒に劇場に行かない? 最近、旅一座の演芸があるし、一緒に見に行こうよ」


一歩前に踏み出して、笑顔を浮かべて手を差し出すエステル。

じっとステラを見つめるメルクの後ろでは、子供達がエステルとステラを交互に見守る。中でも、パーシアスはギュッと唇を噛みしめていた。


目を下に向ければ、ステラが俯き顔で考え込み、藍よりも暗い瞳がステラの髪の間から覗かせている。

ステラの言う通り、このところ図書館で何か調べ物をしているのは知っていた。それも、12歳の子供には早すぎるような難解な論文や文献にも手を出していた。

何かを知りたかったこと、その気持ちを止めることはできないと思い、俺も今日まで見守っていた。けれど、最近は閉館時間まで籠ることが多かったし、就寝時間間際まで机に向かっていることもあった。


少し羽を伸ばした方がいいかもしれない。エステルの言葉に動かされるように、ステラの肩に手を掛けようとする。

視界に映ったステラの横顔が、一瞬だけ唇を噛んだように見えて、


「……バカバカしい、そんなことに私の時間を上げたくない」


振り返り際に、ステラの肩が俺の手を払った。

言葉を失ったエステルは、エステルの睨みを正面から受け止めて動けずにいた。


「エステルも、後3年で孤児院を出るんでしょ? それまでにどこかに行く伝手を探さないと。私は、あんたを助けたりしないから」


言い捨てるなり、ステラは背中を向けて食堂を後にする。入り口近くで置いてけぼりにされたステラのアストレイア達が追いかけ、ステラの背中は廊下の影に消えた。

ここで何か言い留めた方がよかったかもしれない。けれど、ステラの身体に払われた手の甲が妙に痛くて、口から言葉が出なかった。


「ステラのバカ……」


エステルの独り言が、広い食堂に響く。パーシアスが落胆して目を落とす。

子供達にかける言葉が見つからず、溜め息を吐きそうになった。

けれど、顔を上げたときにメルクを見た瞬間、背筋をヒヤリとしたものが走った。


怒りの表情に変わりはない。変わっていたのは、その視線。

まるで獲物を狩ろうとする捕食者のような、人が持っているはずの何かが欠如した視線が、ステラが消えた入り口にじっと向けられていた。






もし、この時の違和感を知っていれば、未来は変わっていたのかもしれない。

妙なざわめきを残したままにしておかかなければ、フィラデルフィア孤児院にいた俺達の運命が、大きく動き出すことはなかったのだから。

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