終章 叶ったものは

 一時間目終わりの休み時間、ある男子生徒は、顔面のかさぶたに触れて、それに少しだけ誇りを持った。

 昼休み、ある女子生徒は、年間行事に書かれた「卒業式」の文字を見て、思わず涙を流し、その涙の流れたことに驚いた。

 放課後、ある女子生徒は家に帰ると、今日こそは変えないと、と勇気を振り絞って、家族に本音を打ち明けた。彼女の声は、自分が思っているよりも、ずっと大きく響いた。



 ──同じころ、三人の男女が、とあるチェーンのカフェにて、一堂に会していた。心療内科帰りの海瀬が、ゆうこに相談を持ち掛けたのと同じ場所だ。

「っていうわけで、ちゃんと説明してもらいましょうか」

 夢向瑳来が珍しく疲弊した様子で言った。隣の海瀬一颯も同じように、疲れた顔をしている。二人にとっては、べらぼうに長い一日だったのだから、無理もない。

「うーん、どっから話したらいい……?」

 説明責任を求められたゆうこは、途方に暮れて頬を掻いた。海瀬はホットのブレンドコーヒーをずるずる口に含んでいたが、それを一息に呑み込んで言う。

「結局、ゆうこさんが、俺の頭の中に棲みついてた『声』だったってことで、良いんですよね……」

「うん」

「その……俺が見たこと聞いたこと思ったこと、全部知ってるってことですか」

「もちろん」

 海瀬の血相が山の天気のようにさっと変わった。

「い、いぃぃ……! ぜ、絶対、なる早で忘れてください!」

「えぇ……何を忘れろって?」

「いや、色々話したでしょ! 修学旅行の消灯後みたいに!」

 話に入りようのない夢向が、ウゥン、と咳払いのつもりなのか変な声を出す。

「海瀬のプライベートなんてどうでもよくて、八時五十五分より前にも、ゆうこさんは全然いたでしょ、ってことを、私は問いただしたいんですよ!」

「何なら、俺、声と会話しながら、ゆうこさんと話してましたよね……」

 体験した恐怖体験を顧みるように、海瀬が言う。

 ゆうこは困った。話は結構ややこしくて、彼女自身もすべてをきちんと理解しているわけではないのだ。

「ちょっとわたしも整理していきたいから、順を追ってで良い?」

 その提案に、高校生二人は素直に頷く。ゆうこは頭をフル回転して、昔話から始めることにした。

「まあ、ご存知の通り、そもそもわたしはだいたい七十年前くらいに一度、死にかけてる。生贄っていう体裁でね、モロクロ石のもとに生き埋めにされたの。どんなに覚悟を決めててもダメなもんでさ、目の前が真っ暗になって、穴と言う穴に土が入ってきた瞬間、どうしても死にたくない、生き長らえたい、って願っちゃって、それが全ての始まり。モロクロ石はその願いを聞き届けて、力を総動員、今、和籠市とされている領域全体を、願いを叶える場にした」

「え……市、全体を……」

 海瀬が愕然として、息を呑む。

「そう。願いは一人の力だけでは叶えられない。多くの人たちの営為から叶えの力を備給する必要があって、そのためには多くの人に近くに住んでもらわないといけない。その結果、和籠の地は熱心に願う人たちの、ある種のフロンティアになって、険しい地理条件にも関わらず、どんどん発展していったってわけ。皮肉にも、まるでわたしの犠牲が功を奏したようにね」

 ──和籠という土地の繁栄は、その峻険な地理条件から見て相当不合理、という父の記した一文を、海瀬は思い出す。そんな不合理を跳ね飛ばす場の力で、和籠は人を集めて発展していったのだ。たった一人の命を掬い上げるために。

「で、長いことわたしはモロクロ石とその周辺の地面と同化してて、和籠市も良い感じに叶えの力を溜めてきた時、海瀬くんのお父さんが現れて、本当にたまたま土を口にして、願いを叶えちゃった……『生き長らえたい』っていう、願いをね」

「俺が願ったのと、同じ……」

「そう。でも、海瀬くんのお父さんの時には、ただ、シンプルにその願いを叶えただけだった。それは、和籠高校では願いが叶える方法があるっていうオカルトを流布させるため。早速、一つの真実を巡って大量の噂が自己増殖した結果、今のOMC部が生まれて、モロクロ石の近くに大量の願いを抱えた若い人たちが集まるようになった。こうして、後はトリガーを引き絞るだけっていうところまできて……出てきたのが君たち二人ってこと」

「願いを引き継いだ俺と……」

「願いを願った私?」

「そうそう」

 これで約束通り、「夢向に願いのことをチクった理由」が明かされたわけだ。

 二人と、その周囲の生徒たちの願いとのシナジーで、生き長らえるという自らの願いを叶えるため……ということになるが、それを通すのにはとてつもなく大きな関門がある。

 夢向は渋面で腕を組んで、その大問題を指摘した。

「でも、それって元はと言えば、ゆうこさんが私に、海瀬が願いを叶えたってだらしなく喋って来たからですよ……だから、時系列が完全にデタラメになって問い質したいんです!」

「俺だって、ゆうこさんからマジに叶うよって言われたから、必死こいて叶え方を探したんですけど。声と仲良くしろって言ったのも、ゆうこさんだし……」

 訝しげな二人の言葉に、ゆうこはその指摘を待ってたぞ、という風に笑った。

「それはね、時間の鏡に映った私だよ」

 そう言って、ゆうこは店の壁を指差した。

 店内を広く見せるための鏡が張られていて、その反射越しに海瀬とゆうこの目が合う。

「今日の八時五十五分っていうのは、二人ならよくわかると思うけど、いわば時間の切れ目だよね。八時五十五分より前と後があって、八時五十五分は空白の時空。でもそれだと人の時間感覚がバグっちゃう。普通の時間は止まらないし、飛び越えたりしない。だから、そのギャップを埋めるために、鏡のようなものがモロクロ石によって差し込まれてる。──過去を思い返すときに、過去の奥行きがきちんとあるように錯覚させるためにね」

 今、海瀬とゆうこの目は合っているが、それは鏡に映った像としてのゆうこだ。本物の視線ではない。

 それと同じで、過去を思い返す時、ゆうことのエピソードがまことしやかに現れるのは、こちら側のゆうこの存在が八時五十五分を軸に、意識へと反射してきているから。

 ──ある時間の一点を軸に、存在の虚像を返す。どういうことか。

 引っかかりを覚えた海瀬がスマホで時計を見ると、ちょうど十九時を迎えようとしていた。

 ──八時五十五分の十時間後の時刻だ。

 ここで会おうという提案をされたのが、昨日の二十三時と少し前のことで。

 ──八時五十五分の十時間前のことだ。

 海瀬は思わず、同じように時計を見ていた夢向と顔を見合わせる。

「鏡合わせだ……」

 八時五十五分という時間を挟んで鏡映しになったように、ゆうことの記憶が二人の意識に顕れてくる。まるで、ゆうこの存在を証立てるように。

 ……という具合にタネを明かされたあとでも、海瀬は実感することはできなかった。まあ、できてしまったら大変なのだが、夢向はもっと大変な事実に気がつき始めている。

「っていうか、ゆうこさんとの思い出、昨日ことだけじゃなくて、もっとありますよね……? 誕生会したり、海行ったり、ライブの物販並んだり……しましたよね?」

「そうだね」

「それって、未来にゆうこさんとやるはずのことを、過去のものとして私の記憶に反射してきてるってことですか?」

 海瀬はそれを聞いて愕然とする。心療内科通院後にカフェで相談したことも、夏休みの弾丸旅行での会話も、この法則に従えば、何週間後、何か月後に経験するゆうことの関わりを──つまり未来の出来事を先取りして、記憶化しているということになる。

 その本質は、軽い未来予知と変わらないではないか。

 恐々とする二人を前に、ゆうこは和やかに笑ってみせた。

「うん、そうだね。モロクロ石が実際に、そういう次元に干渉する物質であることは間違いない──でもさ、それがどうしたの? せっかく生き長らえたんだしさ、過去が増えるくらいにもっと遊んでくれたらなーって思うんだけど……」

 二人は毒気を抜かれた。記憶を辿れば未来が映る、という事象はある種不気味ではあるけれど、裏を返せば確定した楽しみでもある。

 そして、こういう時にからっと気分を切り替えることができるのが、夢向だった。

「あ、確かに。……うんうん、もっとたくさん構って!」

「……ふふ、ありがと」

 ゆうこは嬉しそうに言う。

「まあ……俺もやぶさかではないので、ぜひ……」

 出遅れ気味に海瀬は言いつつ、こんな良い感じの雰囲気を壊すのは忍びない、というふうに続けた。

「それで、ゆうこさんが、この土地で最初に願った人とか、八時五十五分前にもいる仕組みっていうのはわかりましたけど……俺の中の『声』がゆうこさんだったっていうのは、結局どういうことなんですか」

「あぁ……それはね、わたしの散らばってた意識が、海瀬くんの中で育った結果だよ」

 ゆうこの発言に、海瀬は困惑する。

「俺の中で……えぇ?」

「さっきさらっと言ったけど、わたしの意識は完全にモロクロ石周辺の土と同化してた……っていうか、区別がつかなくなってたんだけど、そこに海瀬くんのお父さんが土を口にして、かつてのわたしと同じ『生き長らえたい』って願いをしたことで、土から海瀬くんのお父さんの方へわたしの意識が溶けだしたの。ちょうど浸透圧みたいなイメージかな」

 生き長らえたい、という願いを媒にして、ゆうこの意識が流れ込んだ、というらしい。

「で、それがそのまま、海瀬くんに引き継がれる」

「え……ゆうこさんって、遺伝性なんですか」

 その表現に、ゆうこは少し笑ってしまう。

「ま、そういうこと。それから、海瀬くんが『生き長らえたい』ってまた同じことを願った時、成熟したわたしの意識の願いとシンクロして、頭の中の人格として呼び覚まされたっていうわけ……」

 海瀬は無意識に、自分の身体を見下ろす。知らない間に、ゆうこをこの身体の中で育てていたとは、何だか実感の湧かない話だ。

「だから……改めて、色々と、ありがとうね。海瀬くん」

 ゆうこの感謝の言葉に、海瀬は照れくさそうに笑って、答えた。

「お礼なら、和籠市に言って下さいよ。ほとんどコイツの仕事ですよ……」



 ゆうこと別れて、海瀬と夢向は二人して街を歩いて行く。

 海瀬は疲れた体でふらふらと歩きながら、同じようにふらふら歩く夢向の方を見て、

「……それどうしたんだよ」

「さっき買ったのー」

 夢向は通りすがりに自慢するように、黒い蝙蝠傘を持って気ままに振っていた。

「私の願いを叶えるステキグッズだからさ」

「ふぅん。まあ、俺も……見慣れた感じするな」

 安心感がある、と喉まで出てきたが、言うのはやめた。

「あ、海瀬も買おうよ! 願いを叶える場で共に闘った盟友の証としてさ」

「いつの間に盟友になったんだよ」

「え……違うの」

 夢向のテンションががくっと落ちる。海瀬は、しゅん……と下がる犬か猫の耳を頭に幻視した。そんなに落ち込まれるとは思ってなかったので、

「いや、まあ、躍起になって否定するほどじゃないけど、も……」

 慌てて言い立てると、夢向は途端に上機嫌になる。

「だよねー! ──っていうかさ」

 と、夢向がはっとした様子で海瀬に目を向けた。

「海瀬の願いって、結局どうなったんだっけ?」

 さっきまでの話だと、生き長らえたい、という海瀬の願いは、結局、ゆうこの意識を呼び覚ますためのトリガーとして作用しただけに思える。

 願いの不履行は絶対に許さない、願い叶え警察の夢向が目を光らせて、海瀬を見る。

 この心境を何と言おうか、海瀬は少し考えてから、口を開いた。

「……これから、叶ったかどうか確かめる」

 我ながら野暮ったい言い方だな、と思ったが、夢向にはそれで十分だったようだ。

「……そっか」

 そして、何か思いついたように足を速めると、海瀬の前に立った。海瀬は驚いて立ち止る。

「はい! これ、貸したげる!」

 夢向はぱっと海瀬の手を取り、自分の持っていた黒い蝙蝠傘を持たせると、握らせるようにその手で包み込んだ。

「これで、願い、叶うから!」

 なんて、自信満々の笑みを浮かべて。

 その表情を至近距離で見て、その手の温かみを直に感じて、海瀬は手やら耳やら心臓やらの温度が急上昇していくのを感じた。

「お、おう……ありがと……」

 猛烈に恥ずかしくなって、顔を逸らしがちに傘を受け取る。自分の呼吸音がやけに近く聞こえ、耳が熱くなった。

「何だ……これ……」

 誰もいない脳内に向って呟く。もちろん、返す声はない。

 それから夢向と別れて自分の帰路を辿るまでどんな話をしたのか、海瀬はほとんど覚えていなかった。



 夜になると冷たい風が吹く季節になった。海瀬は首をすぼめながら、自宅の戸を開く。

 大きく息を吸ってから、リビングに顔を出すと、台所で夕飯の準備をする母親に、一言告げた。

「ねえ──検査結果のアレ、見たいんだけど」

 母親は、ついに来たか、という顔をすると、すぐに一片の封筒を持ってきて、海瀬に手渡した。

「一緒に、見る?」

 気を遣ってか、そんなことを言われて、海瀬は笑った。

「いや、母さん、もう知ってんでしょ。一人で見るよ」

 そんな態度を見ると、陽性なんじゃないかと怪しんでしまうが、別に陰性でも、開封する時は不安だろうと心配して付き添おうとしそうだな、と思った。

 自室に入って荷物を置くと椅子に腰かけ、夢向の傘を傍らに置き、何某病院の封筒と対面する。頭の中に、なんやかんやと言い立てる声はいない。歯が抜けた直後の口の中のような、違和感がある。

 けれども、海瀬の心は不思議と凪いで、どんな結果でも静かに受け止めようという気持ちでいた。もしかしたら、全くの健康体かも知れない、もしかしたら、もう手遅れになっているかも知れない。けど、それが何だと、海瀬は思うことができた。

 なんせ自分は、生き長らえたいと、願ったのだ。そして、そのために奮闘してきた。

 あの永遠のような八時五十五分を過ごした今、ゆうこの奇跡を目撃した今、自分はどんな結果であれ、願う前よりは長く生きるだろうと、確信していた。長く生きてやろうと、決心していた。

 そういう意味では、海瀬の願いはもう叶っているのだ。

 モロクロ石は、願いに対して「叶え」を与える。検査結果を開く海瀬の手が震えていないのは、まさしく、その「叶え」の恩恵に他ならない。


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8時55分の願いごと 城井映 @WeisseFly

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