第五章 夢向瑳来 #2
──海瀬は愕然と硬直した。
海瀬の願いと、全く同じ願いごと。
返事を待つ夢向に、海瀬は機械的にこの単語を繰り返す。
「生き長らえること……だって?」
頭の中に響く声が願いの主であることまでは察せても、その中味まで想像することはできなかったらしい。
「……海瀬」
だが夢向は即座に、その本意を理解してくれた。
「その声の人──海瀬から出たいんだと思う」
「は……?」
そんなわけのわからんことがこの世に存在していいのか、と言わんばかりに海瀬は絶句する。とんだ超絶に飛躍した解釈のようにしか思えないだろう……けれども、夢向は曲がりなりにも願いを叶えることを志して、和籠高校に入学した。OMC部に入部し、モロクロ石について調べ、和籠市の文献にもあたっていた。実は知識量は海瀬と同等なのだ──ただ、夢向には、願いを偶さかに叶えた父がいなかっただけに過ぎない。
いま、ここで注釈をした意図がよくわからなくても大丈夫だ。その虚しいだけかも知れなかった努力が、ここで結びついたのだ、とだけ、とりあえずここでは言っておこう。
にわかに夢向は「あ」と、何かに引っかかったように叫んだ。
「あ……あ、ああああ! わかった、わかったかも!」
バネで弾かれるように立ち上がると、何もない中空に向けて大声を出す。それから、釣られて腰を上げた海瀬の方へと向き直った。
「……何を」
展開についていけない海瀬は、ただその場に突っ立って、呆然と夢向を見やる。
そんな海瀬に向けて、夢向は興奮した口調で言った。
「倒された人たちが、眠る意味だよ。最初はひのちゃんの願いを叶えるためだと思ってたけどさ、実際は関係なかったじゃん」
「……あぁ、そういえば」
笹原の件が決着するとともに、なんとなく解決したような雰囲気になっていたが、考えてみればその意図は浮いたままだった。
「あれって本当はさ、眠ってるんじゃなくて、意識を失くしてるんじゃない? 身体の機能を停止させるんじゃなくて、その身体を動かしてる、その人の意識だけを絶ってる、みたいな」
「……なるほどな」
海瀬の頭の中で、埃のように散っていた諸々の情報の欠片が落ち着いていく。その事実に対する己の感情も。
「俺が斃れれば……俺の身体を支配する俺という意識がなくなって、『声』の方が台頭してくるってことか」
「そう。これは、声の人の願いを叶えるための仕組みなんだ」
夢向は衒いなく、「声の人」と言う。願いの前には有形も無形も関係なく、彼女の中では歴として存在し始める。確固とした身体がない身分にとって、なんとありがたいことか。
海瀬は無表情で沈思ししていたが、やがて薄く笑みを浮かべた。
「……なんか漠然とは思ってたよ、こうなるんじゃないかと。夢向に付き合ってもう一度土を食べてみろ、って、失楽園の蛇みたいに唆された時から」
そして、その脇から太刀を引き抜く。鋭利な刀身が灰色に閃いた。
「それでも今の俺は、容易く斃れない。俺の願いを知ってるだろ」
「……生き長らえること」
「自分からやられにいこうと思うほど、俺は弱くないんだ。……わかるよな」
敵意を向け始めた海瀬を前にしても、夢向は余裕を保っていた。例の蝙蝠傘を人差し指に引っ掛けて、ぷらぷらと振り回し始める。
「わかるよ。というかそもそもこの場だと、自分からやられるって回路が存在しないよね」
永遠の眠りを願った笹原でさえ、屋上から飛び降りることはしなかった。
つまり、願いが叶うためには、夢向が「生き長らえたい」と願う海瀬を倒すしかない。
「……悪く思わないでくれよ」
「なに、勝つつもりでいるんだ」
言いながら、夢向は傘の取っ手を掌に滑り込ませ、雨の雫を落とすように一振りする。折り畳み傘らしく、シャッ、と音を立てて柄の部分が伸長し、傘の部分が一斉に膨らみ、そして──そのまま、強風に煽られた時のように反り返っていき、骨の先端が一点に集結して、絵筆のような形状になって収まった。
「言っとくけど、願いの前に立った私は──無敵だよ」
「何だ、そりゃ……」
海瀬が眉を顰める。それは、墨にどっぷりつかった毛筆のようにも、黒曜石で造った槍のようにも、メイスのようにも見える。
夢向は至って真面目な顔で答えて曰く、
「傘だよ」
「……何の答えにもなってないけど、とりあえず戦う気満々ってことか」
「願い、叶えたいからね」
雲に覆われた雲の下、二人は真っ向から向かい合う。
そして、戦いは静かに始まった。
夢向は異形の傘をぶら下げて海瀬を見据えていたが、バッと薙刀のように傘を振り上げ、駆け出した。間合いに飛び込むや、驚くほど素直に振り下ろされたそれを、海瀬はいともたやすく太刀で捌く。
防御されて「わ」とよろめく夢向に、海瀬は呆れて口を開いた。
「もっと脇を締めろよ」
「? あ、なるほど」
夢向は納得したように頷くと、今度は達人級に素早い横薙ぎを繰り出して来た。海瀬は急いで太刀で防ぐが、パワーも文字通りの桁違いに上昇していて、柄がぎりぎりと掌に食い込む。
「……くそ、いきなり強くなるなよ!」
「え、そのつもりでアドバイスしたんじゃなくって?」
ムカついた海瀬は、振り払われる傘にタイミングを合わせて太刀の柄をぶつけてやり過ごすと、衝撃を相殺する以上の腕力を込めて、反動に浮きかける刃を振り下ろす。素早いカウンターに夢向は目を丸くし、慌てて横に跳んだ。切っ先に僅かな手応え。
「いったぁ!」
そんな悲鳴を聞き流しつつ、海瀬が夢向の逃げた方に顔を向けると、相手は既に攻撃を放ち終えているところだった。黒い凶器部分が、海瀬の頸を狙って飛来する。尋常じゃない運動神経でそのリーチを見極めると、ギリギリで躱せるよう身を反らしながら、避けた直後に斬りつけられるよう、太刀を構えておく。
その時、歯車の回るような音が聞こえた気がした。
「……は」
よくわからないが危機を感じた海瀬は、反らした身体を更によじった。そうして無理に稼いだ距離を差っ引くように傘が横切り、避けきれなかった海瀬の肩から鎖骨にかけてダメージを与える。その部分の血だけが煮えたぎるような、鋭い熱さを感じた。
海瀬は地面を転がると、すぐバックステップをして夢向との距離を取る。緊張を保ったまま夢向の方に向き直ると、その手に持つ得物は鎌のように変形していた。
「いや、マジで何だそれ……」
海瀬は愕然とする。槍に比べて、横方向の間合いが拡張されていて、下手したらそのまま首を掻かれていた。
夢向はしれっとした態度で、
「傘だってば」
「そんな鎌みたいな……いや、火縄銃みたいな傘、売ってるの見たことあるか?」
海瀬の言う通り、この僅かな会話の間に、傘の先端はどす黒い細い筒に変形し、その空洞を海瀬に向けている。夢向は残念そうに答えた。
「ないけど……」
引金を絞る。
その動作を見てから、海瀬は右手側へと身を投げ出した。避けられる自信はあったが、それは単発銃に限った時だ。見た目こそボルトアクションのライフルに見えても、どだい変形するようなずるい武器だから、本当はサブマシンガンでした……と来てもおかしくない。海瀬はフルオートで吐き出される弾丸に備えて精神を集中する。
……が、海瀬の身体が着地しても弾丸の空を裂く音は聞こえてこず、代わりに、プスンと気の抜ける音がすると同時に、視界がどす黒い煙に包まれた。
「スモークだと……」
煙の立つスピードは速く、あっという間に自分の位置を見失う。意表を突かれた海瀬は急いで地面を蹴って、煙の中から脱しようと試みた。
もちろん、悪手である。
煙を抜け、明けた視界で海瀬が見たものは、こちらに銃口を向ける夢向の姿だった。
大袈裟なマズルフラッシュと共に真球の弾丸が放たれ、海瀬の腹部に命中する。どっと沸くような痛みに顔をしかめ、手で押さえながらなんとか着地した。
「く……ぬ、抜けない……」
素材の知れない弾丸は貫通せず体内に留まり、肺腑が鋼鉄に変化したな異物感に海瀬は動揺する。
「今撃ったのはこの傘の一部でね」
散りつつある煙の中から、大剣へとフォルムチェンジした傘を肩に担いだ夢向が現れる。
「こっちの意志一つで、自由に動かせるんだよね」
「自由に……ぐっ、あぁああ!」
体内で唐突に弾丸が暴れ出し、海瀬は悲鳴を上げて膝をつく。息を荒くした海瀬に近寄りながら、夢向は宣言するように言った。
「終わりかな」
「くそ! 傘なら傘らしくしてろよ! 何でいきなり強くなった!」
『──それは、夢向の意識が変わったからだよ』
ここは、願いを叶える場。願いに合わせて、理が組み立てられる場所。
即ち、願いの強さそのものが、理の根拠となっていくということ。
『海瀬がめちゃくちゃ強かったのは、誰のお陰だと思う……』
この問いに海瀬は、騙されたことに気がついた人間のよくやる引き攣った笑みを浮かべる。
「あ、あんたが……願ってたから、か……」
『わかってるね。でもちょっと惜しい。……二人分の願いが海瀬に乗ってたからだよ』
「ははぁ……なるほどね。奇しくも同じ願いごとしたシナジーっていう……」
同じことは、夢向にも当てはまる。
夢向は自分の正しい願いの在り方──金、地位などよりも、数十段階も手前に位置する本当の願いに気づきつつある。そうしてもたらされる加速度的なエネルギーの増殖を、止められる者はもういない。
夢向は言う。
「私は、何も考えてないわけじゃ絶対にない、って思ってたけど、やっぱり何も考えてなかった。馬鹿にされてムカついて、絶対に見返してやる、って、それだけで、立派に考えてることになると思ってた、けど……違う」
夢向は、いまは大剣と化した傘を八時五十五分の日に翳した。アスファルトの灰色に、濃い色の影が伸びて、海瀬の目の前でぴたりと止まる。
「私の願いは『願いを叶える』こと、それ自体なんだ!」
願いを自覚した夢向の意識は瞬く間に蝙蝠傘と同調し、中村田戦の時に見せたシンプル傘とは比べ物にならないほどの多様さを獲得している。
海瀬はゆるやかに立ち上がって、太刀を身体の前に構える。
「でも、生憎、こっちにも、強烈な願い手がついてるんでね!」
叫びながら太刀の刃を翻し、自身の方へその先端を向けると、大きく息を吐いてから、一気に自分の腹部を刺し貫いた。激烈な痛みが通過するのに合わせて、体内に蟠っていた違和感が背中側から排出される。
「何百年前の外科手術なの……」
夢向は眉根を寄せつつ、手に持った大剣を振りかぶり、自傷する海瀬に容赦なく襲い掛かる。
海瀬はすぐに自分の腹から太刀を引き抜くと、そのいかにも重たげな一撃を真っ向から受け止めた。
「避けなかったね……」
意外そうに夢向が言う。実際に重い一撃に耐えながら、海瀬は口端を吊り上げた。
「避けて下さいと言わんばかりの攻撃、避けるかよ……」
大剣と思しき形状だった傘は、振り下ろされた瞬間に変形して、大きなV字状の不格好な鈍器に変化していた。剣と思って最小限の動きで躱せば、より範囲の広い攻撃が降ってくる。性格の悪さが光っている。
形状は自在でも質量は変わらないらしく、攻撃範囲の広さに反比例して威力は落ちていた。回避中の無防備ならともかく、体勢を整えて受けてしまえば手負いでも難なく防ぐことができた。
海瀬は傘を弾き飛ばすと、夢向の胴を素早く蹴り飛ばし、不意を突かれ、姿勢の崩れたところを斜に斬り落とした。夢向は不安定な格好ながら、なんとか傘の柄でその一撃を受けるが、こちらは軽い素材のため、あっさりと切断された。
変幻自在な黒の部分が持ち手から分離して宙を舞い、夢向が目を瞠る。その隙を衝いて、海瀬は鋭く息を吐きながら、獰猛な突きを放った。夢向は反射的に、両腕を胸の前で交差させたが、その防御はあまりにも頼りない。
「さっきのお返しだ!」
勇んだ海瀬の太刀が、夢向の右腕に突き刺さる。
その切っ先は、制服の袖をあっさりと引き裂き──硬い手応えと共に、ぴたりと静止した。
「なっ……」
「あっび!」
夢向が短く声を上げる。太刀を受け止めることになったその腕は、黒い物体でコーティングされていた。それは先に、海瀬が分断した傘の変形部分だった。ガントレットのように、腕に装備しているのだ。
海瀬は強く奥歯を噛み締めた。腹部が疼く。
夢向は同じくコーティングした左手で太刀を掴んで引っ張り、防がれた反動で浮いていた海瀬の身体を引きずり寄せた。熊にでも掴まれたような、強靭な力だった。
夢向の顔がぐっと近づく。その口がゆっくりと動いて、大声で叫んだ。
「私が願いの強さで」
視界の外れで、振りかぶられる右腕が見える。その先端は錐のようにむごたらしく尖っていた。絶対に生かすつもりのない一撃、海瀬は諸々の思考を失う。
「負けるわけ、ないっての!」
夢向は右ストレートで海瀬の顔面を文字通りにぶち抜いた。
全ての感覚が吹き飛んで、視界が良くない勢いでブラックアウトする。
豆粒程度まで削ぎ落ちた海瀬の思考は、走馬燈というほどではないが、父親の死に目を
思い出していた。まるで、死の予行練習のようだ。父も似たようなことを経験したから、あんなに健やかな表情で逝けたのかも知れない──。
「海瀬……」
夢向が、消えゆく海瀬の意識を見下ろして、語りかけた。
「絶対、長く、生きてね……」
手を握る感触。まるで願いを叶える力が、そのまま流れこんで来るかのような温もり。
「ああ……」
なんということはない。
ただ、須臾の間の永遠に、眠っていくだけのこと。時間も、空間も、己れすら、忘れて。
そんな思考を遺して海瀬の意識は混淆としていき、やがて昏睡の深みへと落ちていく。
……。
。
──その影を見送った後、面を上げると夢向瑳来と目が合った。彼女はふう、と息を大きく吐き、それからこちらの視線に気がつくと、にこっと笑って言った。
「それじゃあ、行こうか」
『うん……』
彼女は、手を掴んで立たせてくれた。
こうして自分の足で立ち、歩くのなんて、何十年ぶりのことだろうか。慣れない身体ということも相まって、たどたどしい歩みになる。そんな具合で、和籠高校裏手にある山を登るのは、かなり辛かった。瑳来は、何度も転びそうになるのを助けてくれた。
やがて、始まりの場所──モロクロ石に辿り着く。
そこには、何かの儀式のように供物が奉られ、その奥には簡素な木の棺が置かれていた。瑳来はその傍らに立って、木目を優しく撫でる。
「最初にモロクロ石に願った人……私はその願いに呼ばれて、ここに来たんだ」
夢向は過去にモロクロ石が信仰の対象になったことも、そこで血腥い儀式が執り行われていたことも知っていた。それを初めて読んだ時、彼女は思ったのだ。
そこで犠牲になった人は、絶対に「もっと生き長らえたい」と、願ったに違いない。
確信を込めて、蓋をゆっくりと開く。
そこに納められた人物を見て、瑳来ははっと息を呑んだ。
「ゆ、ゆうこさん……!」
その棺の中、静かに横たわっているのは──わたしだった。
七十年近く前、極貧と絶望から救われたいという村人たちの願いのため、モロクロ石の傍らに生贄として埋め立てられたわたしの身体。その顔は狂気にも近い悲愴の色に染まり……嫌だ、生き長らえたい、と、全身全霊をかけて願っている顔だった。
懐かしい。
「そんな……な、なんで……」
瑳来は流石に動揺を隠せずに、視線を行ったり来たりさせている。なんだかその様子がかわいらしくて、自然と笑みが漏れてしまう。
「さて、なんででしょう……」
掠れた声で言いながら、わたしの顔に触れた。海瀬一颯の身体からその手を伝って、『声』が流れ出て行く。少しずつ、楽になっていく。わたしが──わたしに戻ってくる。それは穏やかな川のせせらぎに、身を委ねるのと似たような心地よさだった。
目を開く。
心配そうにわたしを見る、瑳来と目が合った。
わたしは手を棺の外へ伸ばして、学校の方を指差した。
「聞こえる? 八時五十五分のチャイム」
耳を澄ますと、ここからでも確かに聞こえた。空からは分厚い白い光が降り注ぎ、学校の風景を溶かしていく。
「うん……聞こえる」
瑳来が頷いた。
そうして、願いは叶えられた。
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