第五章 夢向瑳来 #1
で。
それからどれだけの時が経ったのか、わからない。相変わらず時計は八時五十五分を指したままだからだ。
海瀬と夢向は特別棟の屋上に隣同士で寝そべり、曇り空を眺めている。
二人にすることは、もうほとんどなくなっていた。願いを叶える場の仕組みと狙いはもはや暴かれ、願った者の願いは大方叶い、生徒会はなくなって審議も執り行われなくなった。他の生徒は思い出したように各々の日常を再開し、残されたのは問題児二名だけ。
「何も起きねえな……」
「何も起こらんねえ……」
しかも、爺さん婆さんみたいな会話をしてしまっている。
と、海瀬は、この緩み切ったやり取りを平然とこなしてしまったあたり、もしかしたらもう五〇年くらい経ってしまったのかも知れないと、突然の恐怖に襲われた。中村田と約束してしまった手前、このまま二人きりは困る。
海瀬はがばっと半身を起こして、夢向に言った。
「なあ、本当にいま、IT社長がぼてぼてやってきてお前を嫁にしたい、ってやって来ると思うか?」
「思う。だって、私にはそれしか願うことがないから」
夢向は不貞腐れているようにも見えるが、それは不満というよりも意地に近かった。折れたら負け、というような子どもみたいな意地。
海瀬は夢向の顔をじっと見た後、めちゃめちゃに言葉を選びながら、切り出してみた。
「なあ、仮に、仮にな、もしもの話……この場で、その、金と地位とかが手に入らなかったら、どうするんだ」
「え? まあ……それは一応、考えてあるけど」
「暇だから聞かせてくれ」
海瀬はばたっとまた寝っ転がる。ええ、と夢向は面倒臭そうにしたが、特に考え込むこともなく言い始めた。
「まあ、とりあえず、二十一歳でアメリカに海外留学できるように、貯金と勉強していくかな」
「海外留学」
突然の現実ワードに、海瀬は思わず神妙な顔をしてしまう。夢向は何遍も読んで飽きてしまった漫画の筋をかいつまむように、つまらなさそうに続ける。
「そ。ビジネスを本格的に大学で学ぶためのシステムが日本にはないから」
「……へ、へえ。ちゃんと考えてるんだな」
「そんなことない。お金と地位のためだし、海外留学なんて普通過ぎて、考えてるうちに入らないよ。何をして稼いでいくかのビジョンも立ててないし」
「想像の五億倍くらいしっかり考えてるんだが」
この失礼なコメントは当然、海瀬の脳内での発言。
『……夢向がちゃんとこの先のことを考えてるなら、その願いは叶わないってこと教えても別に平気じゃない?』
最早、夢向の願いを無視することは不可能に思う。そのためには、この卑俗な願いの化けの皮を剥がさなければならないだろう。
海瀬は気持ちだけで頷くと、先の会話の流れを引き継いで質問した。
「何でそんなに、金とか地位に拘るんだ? 難病の肉親でもいるのか?」
「……それは笑えないんだけど」
「いや、笑いどころじゃなくて、真面目に」
「……そんな大層な理由じゃないって。ただ、昔にムカつくことがあってさ」
居住まいを正して、夢向は話し始める。
「うちはまあ、普通の家でさ。贅沢しなければ人並みに生きていける感じで、親も『足れるを知る』みたいな顔して暮らしてきたわけ。まあ、私もそんな風に不満なく過ごしてたんだけど、母さんも父さんもさ、芸能人の豪華な家を覗く番組とか、アホみたいに高い料理食べる芸能人を見る番組とかばっか見てたんだよね」
「まあ、そういうの多いからな」
「それで、何だ慎まやかに自足してる顔して、そういうの憧れてるんじゃんって思っててね。だから、中一の時、お正月で親戚で集まった時に、将来の夢を訊かれたから、芸能人になってでかい家に住んで毎日ロブスター食べるって言ったんだ」
その時のことを思い出したのか、夢向は徐々に早口になりながら髪の先をぐるぐると弄り始める。
「そしたらまあ、周りのおじさんおばさんが、世間の厳しさものを懇々と説くわけじゃん。そんなに甘いもんじゃないだよ、とか、成功するのは一握りだよ、とかさ。で、年長者のマウントに調子づいた空気に乗っかって、酔った父さんが、真面目に勉強して公務員とか安定した道を選んだ方が良いぞ、って言って来た時、はぁ~? って思った」
「進路を勝手に決めるなって?」
「違う!」
夢向は叫ぶように言うと、縮んだ発条が解放されるように、勢いよく身体を起こした。
「自分をだましてるからだよ! 本当はバカみたいな豪華な家に住んで、アホみたいに高い料理を食べて、何一つ不自由なく暮らしたい癖に、その願いを圧迫して、現実見ろってうわ言みたいに言って、そうやって達成できない自分を守ってるってだけなのに、世界の全てを知ってるような態度がムカつくんだ!」
夢向は捲くし立てて、うー、と気の立った声を出す。海瀬はその気勢に、呆気に取られるばかり。
「い、言うなあ……」
「だから、くそ真面目に勉強して、絶対に金持ちになって、絶対に何かの名誉会長になって、親が取ったあの態度を黒歴史にさせてやる。認めさせてやるんだ。願いは叶うって」
「ふぅん……でもさ、その願い、やっぱこの場所じゃ叶わないだろ」
「……じゃあ、どうすりゃいいの」
ブレーキを踏みつけたように、夢向の威勢は一瞬で萎んだ。
「私には、それ以外、したいことなんてない。叶えたいことなんてない。願うことなんてない」
弱気な声音。そこに金と地位を求めるしかない、資本主義の社会に踊らされるだけの夢向の空虚が見えるような気すらする。
もちろん、そんなことはないのだ。海瀬は身をぐいと起こして、励ますように言う。
「じゃあ、その傘は何だったんだよ」
夢向は傍らに転がした蝙蝠傘に目を向けた。
中村田との戦闘時には、確かに成人男性用サイズくらいには成長していたのたが、いつの間にか元通りに戻っていた。
「わかんない。あの時はただ、願いを叶えたいって、必死で──」
「それだよ! ずっと気になってるんだけど、どうして人の願いまで、そんなに必死で叶えようとするんだ」
海瀬の指摘に、夢向は少し戸惑いを見せた。
「そんなの、願いは叶うべきだからだよ。当然じゃん」
「今日知ったばっかの中村田でもか?」
「願いは願いだよ。知ったばっかとか関係なくない?」
あまりにも確信的な態度に、海瀬は思わず頭の中で話しかけてくる。
「なあ……俺、ずっと考えてることがあったんだ」
『そう、奇遇だね……夢向の願い、もしかしたら、本人以外はとっくに知ってたのかも』
「夏間先輩に即刻願いの叶え方をチクったのも」
『笹原とあんなにすぐ距離を縮めたのも』
「中村田と戦う時だけ傘ごと覚醒したのも」
願いを叶えるため。
いや、もっと的確な表現で、海瀬は言った。
「夢向の願いって──願いを叶えること、そのものなんじゃないのか」
今の話を聞いてみても、夢向自身が願っていたはずの、金・富・名声も、結局は夢向の家族が心の奥底で願っていただけのものに過ぎない。そういう意味では、笹原や夏間先輩の願いを叶えようとした態度と一貫している。
つまり、夢向瑳来は、願いを叶えたい──ただ、ただ、それだけのこと。
もはや、これ以上の注釈も修辞も表現も許されない、絶対的な願い。
「海瀬……?」
夢向が怪訝そうに海瀬の顔を覗き込んでくるが、当人は思考を巡らせるのに必死だった。
『仮にそうだとすると、少なくとも願いを叶える場では、夢向の願いは全ての願いが叶わないと叶えられない。叶ったことにならない。「全ての実績を解除する」実績みたいなもんだ』
「まだ夢向以外にも、叶ってない奴がいる。叶えるべき願いがある」
『そして、その誰かと夢向が、接触する必要がある。夢向の知らないうちに叶うことは、夢向の願いに反することだから』
「ああ……そうか。そういう、ことか……」
その時、海瀬は──その意図に、辿り着いたようだった。納得の紐が解けて、感嘆の声が出てしまう。
その様子をしげしげと見ていた夢向が、気味悪そうに距離を置いた。
「海瀬……なんか、たまに見えない誰かと話してるみたいだけど、どうしたの? 頭の中に誰かいる?」
もちろん、冗談で言っているのだろうが──本当に、敏いやつだ。
いや、この直感すら、願いを叶えるために夢向へ手渡された得物なのだとしたら。
海瀬はすっと黙りこみ、目配せをしてくる。いや、こちらには目もないのに、目配せはおかしい、ともかく、目配せのようなものをした。
『言いなよ』
促すと、彼は意を決したように大きく深呼吸をして、言った。
「土を食べた俺の願いが、どういう風に叶ったのか話してなかったよな」
生き長らえたい、というのが、海瀬の願いだと話したくだりだ。夢向は神妙に頷く。
「あぁ……うん、そうだね」
「笑うなよ……頭の中に、別の人格が出来たんだ」
海瀬の告白に、夢向の顔から表情がすっと引く。
「頭の中の……人格?」
「そう。実際に声に出さなくても、心の中で話しかけるだけで気さくに応じてくれて、友達みたいにお喋りができる。そういうのを、モロクロ石は提供してくれた」
「友達……」
テイスティングでもするように、夢向は海瀬の言葉を入念に反復する。当初、この事態に大層混乱していた海瀬は、その戸惑う気持ちに共感しているところだった。
やがて、夢向は身を軽く前のめらせ、足の置く場所を丁寧に選んで歩くように、確認してくる。
「ってことは、これまでのこと、その、人? は、海瀬と一緒に、ずっと見聞きしてきたってこと?」
呑み込みの早いこと。うん、聞こえている。聞いてきていた。
「あぁ、そうだな」
海瀬が代わりに肯定する。
「どこに話しかければ応えてくれる?」
夢向は海瀬の身体をあちこち見回し始めたので、海瀬はくすぐったいような、恥ずかしい気分になる。
「……話したいのか」
「え、それは……だって」
「……俺が仲介するので問題なければ」
許可するや、夢向はぐいっと至近距離まで顔を近づけてきた。いきなりの急接近に海瀬はドキリと息を止めたが、もちろん夢向は彼の顔面など歯牙にもかけない。
遥か遠くの方を見据えて、大きな声で呼びかけてくる。
「声の人、声の人、聞こえてますか!」
この時、初めて──海瀬以外の人間と意思を疎通できる瞬間が訪れた。
『うるさいくらいに』
「……聞こえてるよって」
脳内と外の通話の媒と化した海瀬が角の立たないよう言い直したせいで、ニュアンスも機微も消失した、電報よりも情緒に乏しい返事になってしまった。
もし肉声があって、肉体があって、顔面があって、その全てで感情を表現できる肢体があったなら、それはもっと、相当だらしなくニヤけまくっている、浮ついた言葉になっていただろう。
正味のところ、ここまで来て夢向は半信半疑そうだった。
でも、彼女は、気付きかけている。わかりかけてきている。願いに漸近している。そう、もっと、近づいて来い、夢向。今の君なら、理解することが、できるはず。
覚えているだろうか。このお話は、こんなフレージングから始まったことを。
──ふと気がつくと、存在している。
──何かを願うことで生かされる。
──何かを叶えることで生きていく。
意識のあるところには必ず願いがある。
願うということは、生きるということの条件の一つだから。
「あなたが……」
夢向は言った。
「あなたが、願ったんだね」
『うん、その通り』
「……」
海瀬は媒介をしなかった。
夢向の注意が、海瀬の方へと戻る。二人の距離が少し遠のく。
「海瀬が私と一緒に土食べた時、その声の人、海瀬の中にいたんでしょ?」
「……あぁ」
「でも、あの土は願い叶えたての海瀬を素通りした」
二度も願いを叶えられる見込みは、海瀬ほどの短期間中の摂取では有り得ない。土を聞き取るのは、人間が長年溜め込んだ、心の表面に張った露のような願いごとだからだ。
海瀬の体内に入った土には、別の新たな願いの染み込む余地しかなかった。それは、誰の願いを聞くのだろうか。誰だ。誰か。誰だろうか。誰なのだろうか。一体誰なのであろうか。
その答えを、夢向はどうしようもなく与えてくれる。
「そして、海瀬の中のあなたが願ったんだね」
海瀬を踏み越えて、夢向が重ねて訊ねてくる。断崖に落ちる誰かの手を掴もうと、手を伸ばすように。
「何を願ったの?」
答えた。
『生き長らえること』
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