第四章 強さに軋む拳 #6

 特課棟の存在自体は前に出たように思う。白い鉄筋コンクリート造りの建物で、和籠高校の南側、中村田を閉じ込めていた旧体育倉庫の近くに位置し、美術室や音楽室といった授業で使われる特別教室が収められている。

 その最上階である四階、第一音楽室で夏間先輩は、斃れた加成生徒会長の前に佇んでいた。

 緩やかに舞う埃を貫くように朝日が差し込み、音を吸収する壁のせいか、和籠高校とはまた別の空間に足を踏み入れたような静寂に包まれている。二人の間にどんな確執があったのかはわからないが、とにかくこれで決着はついたようだ。

「どうやって入ったの。包囲されてるのに」

 振り向かず、夏間先輩は言った。海瀬と夢向はびくりと足を止め、顔を見合わせる。

「えっと……屋上からです。俺、フットワークには自信があって」

 夏間先輩の無表情が、少し呆れるように動いた。

「私の願いを叶えるために……?」

 願いの当事者である彼女は、着々と叶えが成就していることに気がついていたようだ。

「はい。でも……」

 夢向は眉尻を下げて、窓の外を見る。

「夏間さんの、好きな学校、こんなんになっちゃって」

 導かれるように、夏間先輩は窓際に寄った。穴だらけの校舎、月面みたいなグラウンド、崩れ落ちた体育。生徒たちはゾンビのように特別棟を包囲している。全てに荒れた風が吹き、廃れの色があまりにも濃い。

「夏間さんの願い、叶わなかったら、私……」

 夢向が心細い声音で言って、下を向いた。夏間先輩は振り向いて、

「優しいね。でも、心配いらない」

 いつもよりも、温かみのある声で言った。

「私が願ったのは、悲しみ……もっと広く言えば、感情だった、から」

「……感情」

 海瀬が、その滋味を噛み締めるように繰り返す。

 夏間先輩はいつもの怜悧な目を、また外の景色に向けた。

「私は感情が希薄で、感動も憤怒もない。フラット。ロボットみたい。それが──不安だった」

 深く、息を吸う。

「知識を、上の世代から下の世代に伝える。それだけが教師の存在意義だと思ってたし、それは私に合ってるとも思ってた。でも、ティーチングで教える立場になって、そんなことはないってわかる。共感がなければ教えるのは難しい。気をつけないとすぐに『ご教授』になる。そう思ったら……一気に、自分がみすぼらしく思えた」

「で、でも、夏間さんは私に共感して、OMC部から抜ける勇気をくれたんじゃないですか」

 訴えかける夢向に、夏間先輩は背中を向けたまま答える。

「違う。ただ、不合理だと思ったから言った。瑳来が明らかに辛そうだったから。AIでも同じことをする」

「そんな……」

 夢向は突き放されたような、沈痛な表情を浮かべる。

 夏間先輩はその面持ちを見て、目を細めた。

「──その顔。その顔を、私はしたい……、したかった……んだ、でも」

 言葉を切り、痛みをこらえるように瞼を下ろす。

「私には、辛すぎる。感情は、辛い時に出るもの。私には、この窓の外の景色は辛すぎる。好きな風景が……荒んでる。悲しい。悲しい、悲しいよ……こんな目に遭うなら、ロボットがいい、アンドロイドがいい、感情なんて……」

「っ、夏間さん!」

 夢向はたまらずに駆け出し、夏間先輩を背中から抱きしめた。

「そんなこと、言わないでよ……!」

「うん……わかってる。瑳来が来るの、ちょっと、期待してた」

 夏間先輩は、抱きすくめる夢向の手に、自分の手を重ねる。

「だから、今、この手が……すごく、嬉しい、と思う」

「夏間さん……!」

「……夏間先輩」

 海瀬は二人に歩み寄りながら、言う。

「もう、大丈夫ですよ。俺も、感情は表に出さないタチでしたが……父親が死んだ時は、大層泣きました。人はきちんと、泣ける時に泣けるし、喜ぶ時に喜べる。夏間先輩も、それを……もう実感できたんじゃないですか」

「……そうかも知れない」

 夏間先輩は夢向の手を解くと、窓を開け放った。荒んだ和籠高校の空気が流れ込んでくる。その風をいっぱいに浴びて、夏間先輩は髪をなびかせた。

「二人とも、ありがと。これで、安心できた」

 そう言って、くるりと振り向いた。その顔を見て、海瀬と夢向は揃ってあっと口を開ける。

 いつも無表情な彼女が、笑顔で手を振っていた。

「一分後に、また、ね」

 そう言って、窓の外に身を躍らせる。

 夏間先輩はそのまま、荒んだ和籠高校へと、抱かれていった。

 ──その瞬間、チャイムが鳴り響く。

 悲劇のクライマックスにある彼女を包み込むように、白い光が雲を切り裂き、学校中に降り注いだ。まるで、世界が更新されていくかのように。

 海瀬と夢向はその光景を、ただ立ち竦んで見ていた。

 ──どれくらいの時が経ったか。気がつくと、静穏な空気が学校に下りてきたようだった。

 ティーチング存続派はこれにて絶滅し、これ以上審議する意味がなくなった。訪れたのは、ティーチングという旧弊の制度を存続しようなんて誰も思いつきもしない、平和な和籠高校である──。

 二人は一連の光景を見届けて、それから揃ってスマホを取り出し、時刻を確認した。

 八時五十五分。

 その時は、まだ続く。

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