第四章 強さに軋む拳 #5

「中村田ァッ!」

 海瀬は、叫んだ。その名を呼んだ。

「良いだろう、とことん相手してやるよ!」

 中村田は、揚々と応える。

「ああ、やろうぜ、海瀬……決着をつけようぜ!」

 その気迫は、思わず目を細めるほどの圧だった。さっきよりも強さを増しているのだ──天井を突き破った中村田の力は、もはや留まるところを知らない。

「夢向……逃げろ」

 海瀬は、背中越しの夢向へと言った。ビジョンは何もなかったが、とにかく犠牲は最小限に抑えなければならないと思ったのだ。

「中村田の願いは、強くなることそのものだ。この空間でのあいつは無尽蔵に強くなり続ける。流石にお前を庇いながら戦うわけには──」

 ──と、まくしたてる海瀬を手で制しながら、夢向は一歩前へと出た。

 その手には、黒い蝙蝠傘。

 海瀬は固唾を呑んだ。

「おい、まさか……」

「やるよ」

 恐怖からか武者震いなのか、その声は微かに震えていたが、はっきりと言葉を紡いでいた。

「さっきは、ひのちゃんの願いのために、私は何もできなかった──だけど、今回は、自分が非力なことには甘えない。どんな手を使ってでも……あなたの願いを叶えてみせる!」

 夢向が叫ぶように言ったその瞬間──その手に握られた傘めがけて、雷が落ちた、ように感じた。

「夢向、それ……傘が……」

 そして、海瀬は見る。

 夢向がステッキのように振りかざしたそれは、ほの暗い灰色の妖気のようなものを湛え、茫漠とその場に存在している──、折り畳み式ではない普通の傘、だった。

「傘が、長くなってる!」

「だから、邪魔を、するんじゃねえええええ!」

 しつこく首を突っ込んでくる夢向に中村田がブチ切れて、全力で跳び掛かる。

「……おらああっ!」

 猛烈な跳躍力に任せて突き出された拳を、夢向は傘のU字の取っ手で絡めとった。そのまま、くるっと一回転、遠心力をつけて力の限り放り投げる。中村田の身体は投石器から放たれたような勢いで壁に激突し、校舎のどこかへと消えていった。

 一連の出来事に海瀬は目を見開く。

「中村田のパワーを殺さずに……受け流したのか」

「うわー! すごい、私かっこいい!」

 夢向が大はしゃぎする。もちろん、こんなのでやられるようなタマなら、海瀬がもう四回は倒している。海瀬は一緒に喜ぶよりも、冷静に頭を巡らせる方を優先した。

「夢向、あいつの願いをどう叶えるっていうんだ。このままだと永遠に叶い続けて留まらないぞ」

 そう、強くなりたいという願いは、もう十分すぎるほど叶っているはずだ。海瀬ですらもう敵わないほどに成長している。なのに、中村田はまだ上を求めている……。

 海瀬の言葉に、夢向はぴたっとはしゃぐのを止めると、真っ直ぐに海瀬を見つめて言った。

「簡単だよ。ちゃんと強くなったことを、きちんと伝えればいい」

 認められて、強さは初めて本物になる。

 当たり前すぎることなのに、海瀬には思いつきもしなかった。

「……誰が伝えるんだ」

「わかってんでしょ!」

 焦れるように夢向は言う。それはそうだ。他の誰かにやらせてたまるか。

 海瀬は、抜けた壁の向こう側、中村田の立ち上がる気配を感じながら──口を開いた。

「……俺に考えがある。グラウンドに移動しよう」

「おっけ!」

 弱点がわかっているなら、作戦はすぐに立つ。

 すぐに打ち合わせると、二人は窓に足をかけて外へと跳び出した。海瀬はそのまま地面に落ちるが、夢向はさっと傘を広げてメリー・ポピンズ状態に移行、そのまま高度を維持してグラウンドを目指す。傘を持つ者の伝統技能だった。地上を走る海瀬は、うっかり上を見ないようにする。

 程なくして、二人は山の手の縁で合流した。後ろを見ると、中村田が校舎の壁を蹴って、ハヤブサのように接近してきていた。

 夢向は流し目でそれを見やって、海瀬に頷きかける。

「オッケー、じゃ、お膳立てはよろしく」

「頼んだ……っ!」

 海瀬は叫びながら、中村田がぶちかましてきた挨拶代わりの拳を、クロスした腕で受け止めた。太刀を出す余裕はなかった。

 続いて打ち込まれたフックを避け、ノータイムで右アッパーを繰り出す。これが中村田の頤に直撃した。舌を出してたら寸断された勢いである。のけぞった中村田は、海瀬の迫真のワンツー、からのハイキックを食らい、派手にのけぞる。海瀬は追いすがるようにジャンプすると、拳を高く振り上げた。

 が、あっという間に体勢を立て直した中村田は、飛び退いて海瀬のフォールバッシュをすんなり回避、海瀬は地面を虚しく殴りつける。グラウンド全体が太鼓の表面のように、重く振動した。

 中村田は姿勢の沈んだ海瀬にすかさず接近すると、地面を思い切り蹴りつけて、頭めがけて跳び膝蹴りを繰り出してくる。パチンコで撃ちだしたような速度──海瀬はギリギリのところで身体を引いてこれを躱し、空ぶって宙に舞う中村田の尻を、オーバーヘッドキックで蹴り飛ばした。

「があああああぁぁぁああっ!」

 ボールと化した中村田は、景気良く吹っ飛んでいく。

「行った!」

 その先、即席バッターボックスにはルーキー夢向が立ち、傘の先端の方を持って構えていた。首はこちらを向いているが、身体の向きは普通とは逆、中村田の飛ぶ方向と一緒の方を見ている。

「任せて!」

 タイミングをばっちり合わせて、夢向はがばがばなバッティングフォームで傘をフルスイングした。

「ジャスト……ミートォ!」

 持ち手のU字を膝の裏側に引っ掛けて、そのままくるっと一回転。中村田の跳躍力、海瀬のキック力、それから慣性に遠心力が乗って、凄まじい推進力が実現される。

 そうして稼ぎ出された運動エネルギーを、夢向は、思い切り、中村田を空高く舞い上げるのに使った。

「ホーーーームランだぁあああ!」

 夢向が傘を振り抜く。中村田がアホみたいな勢いで空へ射出される。

「夢向!」

 海瀬が全速力で駆けてきた。さながら、ホームランを祝うチームメイト──その腰に、夢向は同じように傘の持ち手を引っ掛けて、

「海瀬ぇぇぇえええ、テイクオフ!」

 フルスイングした。海瀬の身体も宙を目指して射出される。

「うおあああああああ!」

 上昇する海瀬の視界には、先に打ち上げられた中村田の姿がある。夢向のスイングの軌道は二回とも正確に一緒で、自然と海瀬と中村田は空中で出会うことになる。

 中村田の身体はみるみる減速していき、最高地点に到達して静止、落下を始めた。未だ上昇する海瀬との距離がみるみる縮まる。視界に収まる中村田の姿がどんどんと大きくなっていく。海瀬は太刀を抜き、それに合わせて構えを取った。

 そして、交差する瞬間──中村田は勝利を確信した笑みを浮かべる。

「馬鹿野郎! どんな戦いも、上とった方が有利なんだよ!」

 そうして振り抜かれた拳が、無防備な海瀬の身体に叩きつけられた。

 鈍い痛みと共に上昇力が全て没収され、海瀬は凄まじい勢いで落下していく。臓腑が分散していくような気分の中、空を切る音が耳元でやかましい。中村田が、これで留めとばかりに、両手を組み頭上高く掲げた。弱点である落下を和らげるために、海瀬をクッションに使うつもりだ。

 スローモーションになる世界の中、海瀬は案外余裕そうで、

「まあ……見てろ」

 言うと、着地する直前の刹那、太刀を引き抜き、その切っ先を下方に向ける。

 そして、山の手の地面へと、身に纏った全てのエネルギーを以って突き刺した。

「おらああああああああああああああああああ!」

 山の手のグラウンドは海瀬の太刀を深く呑み込み、ひときわ大きく波打つと──轟音を上げて、沈下し始めた。

「……何ィィ!」

 勝利の兆していた中村田の顔が驚愕に歪むのをよそに、海瀬の身体は数多の土と共に落ちていき、中村田の視界からその姿を完全に消し去る。土埃が光を乱し、湿った臭いが鼻奥を衝いた。

 いくら莫大なパワーで衝撃を与えたからといって、一撃で盤石な山の手の土壌を崩せるはずがない──と、自然法則すら疑いかけたが、その疑問は間もなく氷解する。

『あぁ……前の戦いで、中村田の掘った穴か……』

 山の手の半地下にある旧体育倉庫に閉じ込められていた中村田は、安寺による鎖の戒めが解けるや、すぐに山の手の地面を掘り進み、主戦場の体育館に登場していた。つまり、山の手の地下にはそれだけの規模の空洞が存在し、地盤が弱体化していたというわけだ。

「来いよ……」

 土に潜む海瀬はそう呟く。太刀の刃が薄く光る。海瀬よりも高く位置取る中村田には、それを視認する術がない。土の中へと紛れる海瀬めがけて、もう既に限界まで固めた拳をただ叩きつけるのみ。

 やがて、土は中村田の開通させたトンネルを完全に踏みつぶし、沈下を終えた。新しく生まれたクレーターは舞い上がる砂塵に満たされている。その狂騒の空気へ抱かれるように、中村田が吸い込まれていく。

「決着だ──」

 砂に隠れる海瀬は、その身体を的確に刺し貫いた。

 肋骨の合間を刃は辷り、ドス、と湿った音を立てて、中村田は太刀の柄へと叩きつけられる。

「が……」

 落ちた衝撃で、中村田は電撃の走ったように痙攣し、荒々しく息を吐く。いくらタフでも、身を貫かれっぱなしでは持つまい。

「クソ……お、俺の努力を……利用するとはな……」

 苦しそうな呼吸の向こう側から、中村田が呻く。海瀬は太刀から手を離し、中村田を地面に下ろした。

「夢向のアシストもお前の努力もなかったら、全然勝ち目なんかなかったけどな。強すぎなんだよ」

「……俺は、強かったか……」

「強い。強すぎる。馬鹿強かった。でも──俺の勝ちだ。今の俺の方が、お前より強い」

 海瀬は、はっきりと言い切る。自信に満ちないはずがない。それだけの戦いを二人は経験した。

「だから……俺は、もう大丈夫だ。お前の強さはもう、受け取ったから、もう大丈夫だ」

「そ、それって……つまり……」

 中村田は震える声で訊く。

 答えるのに、言葉は必要ではなかった。

 ──海瀬は、たった一度、力強く頷いた。

 中村田は、震える腕で目を覆った。意識が遠くなっているのが見て取れる。

「新譜……楽しみに……」

 してる、と子音だけ口先で反響させ、中村田は顔を落として眠りに就いた。それからは、規則正しい呼吸のリズムが伝わってくるばかり。

「座して……待ってな」

 海瀬は、告げた。

 次の瞬間、チャイムが鳴り響いて、一瞬だけ、学校に光が差し込み白ずんだ。

 笹原の時も同じように視界が眩んだのを思い出す。これが、モロクロ石側による、願いが叶ったことを証立てる演出なのだろう。

 海瀬は目を細めて、光の収まるのを見守った。

「……叶ったんだ!」

 夢向がクレーターの縁から見下ろしてくる。海瀬はその姿を見て、中村田の願いが叶ったことを実感して、応えるように右手を掲げる。

 ──だが、ほっと気が抜けるのも束の間、まだ叶えるべき願いは残っている。

「ティーチング闘争も終わりかけだ……」

 海瀬はクレーターの底から脱出し、夢向と並んで特課棟の方を見る。

 そこでは、文字通りの四面楚歌な状況が広がっていた。建物を囲う生徒たち。追いつめられているのは当然、母数の少なかった存続派、だろう。

「夏間先輩がやられる前に、行こう」

「……うん」

 夢向は小さな声で応えた。

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