第四章 強さに軋む拳 #1
「死にたい」
笹原は保健室窓際の隅も隅、薄っぺらい白いシーツを被って極限まで丸くなっていた。
「ほんとやだ恥ずかしい。死にたい、死にたいよぉ……殺して……」
真球を目指して縮こまり続けながら、小さすぎる声でぼやき続ける。紐なしバンジージャンプをキメて理性をすっ飛ばした代償を、えげつない羞恥という形で払っているのだった。
「まー、キレーに響いてたよね。バカヤローって」
平然とした顔で追い打ちをかけるのは、夢向瑳来とかいう奴である。
「う……く」
笹原は呻いて、シーツの中へより深く潜り込む。かわいいなあ、と夢向はほくほくしている。海瀬はしきりに黙っているが、笹原を庇うとか夢向を宥めるとかする甲斐性がないわけでなく、単に思考中なだけだった。
──海瀬と笹原が、機能棟から飛び下りたことによって、「審議」は終結した。
生徒たちはさっきまでいがみ合っていたことも忘れて、全校集会が終わったような顔つきで各々の巣へと帰っていった。後に残ったのは、例によって熟睡に沈殿した生徒たちと、凄惨に(九割中村田、一割その他の手で)破壊された学校設備である。
その間、夢向は保健室に隠れていたようだ。戦場といえば死んだふりというわけで、多数の睡眠者に混じって寝そべっていたとのこと。
保健室は新たに運ばれてきた熟睡者でパンク状態になっていた。その中で知った顔といえば同じクラスの安寺、それから生徒会の山白と南、それから鈴木といったところか。次の戦いが起こった時、犠牲者たちは隣の図書室へ詰め込んでいくことになるだろう。
まあ、そんなことはいい。大問題は、笹原が永遠の眠りを手に入れることなく、審議が終結したことである。
審議の主題は、笹原の願いと直結していた。「私をやめたい」んだけど、そのために私を殺すことに賛成な人は殺しに来て、それでも私を殺すことに反対な人は守ってくれ……だから、賛成派の勝利は笹原を倒すこと、反対派の勝利は賛成派を全滅させることとして、夢向以外全員が戦っていた。
だが、どちらも達成されなかった。これはどういうことか。
そもそもの話、審議終了の条件は「審議の必要がなくなる」で、この二つの勝利条件はそこから敷衍したものだった。だったら、あの審議とは何だったのか……と、切欠となった笹原のアナウンスを思い出してみる。
──私はあの眠りが欲しい。そのために、私は誰かに殺されたいのです。なので、みなさんの、審議をお願いしたいです。
眠りが欲しいのは、「私をやめたいから」だ。そう、あの審議は、笹原が願いを叶えるためにセッティングしたものということになる。
つまり、永遠の眠り以外の方法で、笹原が笹原をやめたり、笹原が笹原をやめなくてもいいや、と思えるようになってしまえば、審議には全く意味がなくなり「必要がなくなる」という要件を満たす。
つまり、どういうことかというと。
「笹原」
ようやく海瀬がその重たい口を開いて、訊ねる。
「願い、叶ったのか」
笹原はちらりと顔を覗かせ、おずおずと答えた。
「……多分」
「おぉ……やったな」
そう、笹原は眠るという方法以外でも、願いを叶えることができた。だから、「審議」の必要もなくなったのだ──。
「えーーーーーーっ! やったーっ! 勝ったー!」
夢向が絶叫して万歳する。笹原は驚いてシーツに引っ込む。海瀬は苦い顔をして、
「何でお前がそんな喜ぶんだ……えっと、こういう言い方もなんだけど、あんなんで良かったのか」
願いの深さに対して、解決方法が見合ってなさすぎるような気がしていた。やったことはただの飛び下りである。
「うん」
それでも、笹原は頷く。
「私、学校中に響くようなでかい声が出るなんて、思わなかった。何を言っても聞いてくれなくて、何を言ってもだめなんだって、無意識に、強く、思い込んでたから。バカヤロウなんて、乱暴な言葉でも」
「いや……まあ、そうなんだけど、それでハイ、願いが叶いましたよ、って言われて納得できるのか、っていう……」
海瀬が納得できなかった人間代表ということで、真っ先に浮かんだ疑問なのだろう。
少し黙った後、笹原はぼそっと答えた。
「うん。あの時は、何もかもどうでもよかった。私なんて、どこかにすっ飛んでた。あんな体験初めてしたし──全然、すごい、やっていけるような気がした。だって、あんな街並み全部が豆粒みたいに見えるところから、簡単に飛び下りて、簡単に無事なんだもん。それに比べたら──私の見てる問題って、全然、些細なものなんだな、って思えるようになった。家のこととか、社会のこと、とか……わ」
「ひのちゃん!」
夢向がたまらずといった勢いで、笹原に抱きついた。
「そうだね、願い、叶ったんだ。死なないと叶えられない願いなんて、ないんだ。生きてて良かった……本当に、良かったね……」
「……うん、ありがとう……」
ぎこちなく、笹原は夢向の抱擁に応えて、腕を回す。
海瀬はその姿を見て、地味に初めて、夢向がいてくれて良かった、と思った。
笹原の願いが叶ったことに対する喜びはもちろん大いにあるし、それを共有する気持ちもあるけれど、それでも夢向の方が格段に上のように見えた。
「──とりあえず、これで落着……なんだけど、残念ながらまだ八時五十五分なんだよな」
祝いの気持ちの落ち着いた頃合いに、海瀬はスマホの画面を見ながら言う。もはや待ち受け画像の一部であるかのように、8:55と刻みつけられている。
「あと、願いを叶えるための順番待ちをしてるのは……」
ばっと夢向が挙手して、
「はい、はいはいはい!」
「……まあ、お前は良いよ」
海瀬は、今の反応で、夢向が自分の願いが叶うことを信じて疑っていないことを再確認する。この状況でどうやったら、ランボルギーニIT企業社長がやってくると期待できるのか意味不明だ。
「他にはっきりわかってるのは夏間先輩か」
「そうだね」
「夢向、先輩から願いを教えてもらったって言ったけど、その中身、聞いてもいいか?」
海瀬の言に、夢向は顎へ手をあてがう。
「聞いたら何がわかるの?」
「願いを叶える場は、願いに応じてその環境を用意してくる。機能棟が高くなったのは、笹原の願いを叶えるためだろう。そうしたら、この審議とかいうシステムも、武器で戦うシステムも、その願いに沿って実現されてるわけだから、夏間先輩の願いがわかれば……それにそぐわない、余ったシステムから、他に願った誰かの判断がつく」
「あー、なるほどね……でも、役に立つかなあ」
夢向は目元を指でぐにぐに擦って、言った。
「夏間さんは和籠高校が、好きなんだって」
その素朴な情報に、海瀬は目を瞬かせる。
「……え、うん……それで」
「だから、このままの形でずっと残って欲しいって、よく言ってた」
ざっと思い出すだけで、C棟の一階部分は破壊され、体育館の屋根は剥がれ落ち、山の手のグラウンドは虫食い状態、他にも戦いの痕跡がいたるところに残っている。おおよそ愛校心が満たされるような状態ではない。
海瀬は唸った。
「どう考えても、この場のルールは夏間先輩の願いと逆行してるよな。夏間先輩の実際の願いが違う可能性もあるけど……他にも誰か、願いを叶えようとしている奴がいるって考えた方が、妥当だろうな」
「私もそう思う」
海瀬の発言に、夢向は同意してくれた。行動は突拍子なくとも、きちんと考えるところは筋を通して考えてくれる。
「っていうか、もう心当たりがあるんじゃないの?」
しかも、先回りしてこんなことまで言ってくるのだ。こうまで頭が回るのに、何故あんな幼稚な願いを──と不思議が止まらない。
「一応、まあ……」
海瀬は溜息を吐いて、その名前を口にした。
「中村田、かなって」
「あぁ……あのメガネバーサーカー? 何で?」
「今の状況で一番おかしい奴だから」
「えぇ……まあ、確かにそうだけど」
えげつないほど雑な推論だが、夢向も何となく納得してしまうようなパワーが、中村田にはあった。
と、笹原がシーツからにゅっと首を出して、物言いたげに見つめてくる。笹原の挙動に敏感な海瀬はすぐそれに気づいて、話を振ってやった。
「笹原、何か知ってるのか?」
「中村田くんなら……昨日、保健室にいたよ……」
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