第三章 息を詰めて落ちていくこと #7

「海瀬! 海瀬!」

 機能棟に入り、猛烈な速さで階段を上り始めた海瀬の腕の中、笹原がじたばたし始めた。海瀬は困ったように彼女を見下ろす。

「おい、暴れるなよ」

「海瀬、もしかして、お、屋上から飛び降りるつもり……」

「ああ……俺を追って降りてきた中村田を撃ってもらう」

 どういうわけか、お誂え向きにも機能棟の高さは七階から十階に伸びている。偶然なのだろうが、偶然とは思えなかった。

「じ、実行の際は、わ、私は下ろしてっていいよ……」

 笹原は必死に言い立てる。海瀬は呆れた。

「そんな危ないことするわけないだろ。自分の立場わかってるのか」

「えええ、やだ、やめて、ど、どうせ、あの人も、高いとこ弱いってわかってるんだから、ついてこないよ、ね、やめよ、やめよ……」

 一応、可能性のある指摘だったが、そんな笹原の希望的観測を打ち消すように、下の方から猛烈に追いすがってくるバカでかい足音が聞こえてきた。

「ごめんな……あいつ本当に脳みそ筋肉でできてるらしいんだ……」

 海瀬が真摯に謝る。いよいよ笹原の表情が、世紀末の相になった。

「やだ、ねえ、やだ、ほんとうに、海瀬、ね、お願い、飛び下りないで、海瀬、飛び下りないで、お願い!」

「……悪いが、こうするしかないんだ」

 海瀬はあっという間に階段を駆け上がり、主観時間二十分ぶりくらいに屋上に戻ってきた。端に寄り、柵の向こう側を覗き込む。いつもより十メートルは高い、未知の視点で学校を俯瞰できた。

「むり! むりむりむりむりむり!」

 笹原が恐慌状態になって暴れ出す。海瀬は慌てて、内の方へと引っ込んだ。

「落ち着けって! 大丈夫だよ、スプラッシュマウンテンと変わらないって」

「全然ちがうだろ!」

「え、ごめん……」

 あの笹原から乱暴な言葉を食らって、海瀬は少し傷つく。

 そんな何の慰めにもならないやりとりをしている間に、屋上の床が大きく震え出し、菓子細工のように一部がコンクリート片となって吹き飛んだ。ぶち抜かれた大穴の縁に、戦斧を登山道具か何かみたいに引っ掛けて、中村田が這い出してくる。

「クリーチャーかよ……」

 海瀬は思わず乾いた笑いを浮かべる。

 中村田は海瀬を見るや、特に何のコメントもなしに首に筋を目いっぱい立て、闘牛の如く突撃してきた。身構える海瀬の直前、にわかにその軌道を捻じ曲げ、左側……笹原を抱えた方へと回り込むと、右の戦斧を振り上げ跳躍、重い一撃を見舞ってくる。

 海瀬は笹原を庇うように右足を大きく踏み込むと、真っ向からその一撃を受け、その衝撃を利用して一歩後退する。もう片方の戦斧が間髪入れず振り下ろされ、立て続けの攻撃に太刀が軋んだ。

「っ……」

 そして、二撃目。狂気のように速い。横に薙がれた斧の刃が、太刀をへし折った。

 海瀬は折れた柄の部分を投げつけ、飛び退くのに精一杯だった。中村田は飛来する太刀を防ごうともせず、肩であっさりと受けながら攻撃を繰り返す。

 海瀬と笹原は、順調に屋上の端に追いつめられていた。

「ひ──!」

 開けた景色を見て、笹原がまた抵抗を始めるので、海瀬はやむを得ずきつく締める。

 こちらの意図を知ってか知らずか、中村田は戦斧を槍のように次々繰り出して来る。メガネの奥の眼光は敵意と殺意に満ち満ちていて──しかも、その感情を海瀬に対して誇示してきているようだった。

「こいつ……」

 海瀬は目を細める。

「かいせっ、ほんとにおちるよっ」

 笹原が甲高い声で叫ぶ。普段の様子からは想像もつかないテンパりようだった。

「ああ……掴まってろよ」

 海瀬はプロボクサーのパンチのように伸びる戦斧を避けて飛び退き、フェンスの上に着地する。中村田はその動きに合わせて、戦斧を縦に落とした。肉薄する刃を、海瀬はギリギリのところで躱し、代わりにフェンスが軽々と破壊される。破片が海瀬に先んじて、ぱらぱらと空中へ散っていく。

 海瀬はフェンスと中空の間に設けられた、僅かなスペースに着地した。後ろに逃げ道はなく、風が軽やかに通り抜けるばかり。

 中村田は当然の権利のように、追撃の構えを取った。全力で振りかぶる。戦斧の刃に絡めとられた空気が、ヒュ、と汽笛のような縮れた音を立て、海瀬の顔に影が落ちる。

 その動作に、海瀬は目を眇め、決めた。

「これは、落ちる……」

 背中から宙へ跳ぶ。

 空気が冷たく顔を過ぎる、快い飛翔感──も、束の間、重力の手が腹の底を掴むように、自由落下が始まった。

「うううううううううぅぅうううううぅぅぅ」

 海瀬は足裏で着地できるよう、空中で体勢を立て直す。

「わああああああああああああああああああああああ」

 空を切る音が耳元でけたたましい中、一発の銃声が吉報を告げるように響き渡った。

「ああああああぁぁぁぁぁあああ…………」

 そして、果てしなく絶望的な悲鳴を上げる笹原をしっかりと抱きしめて、海瀬は、アスファルトの地面の上に着地した。全ての落下エネルギーを膝、足首から地面へと滑らかに吸わせ、後は筋力の強度を以って、耐える。

 流石に足裏が爆発したような痛みが下半身に走ったが、それ以上は特になかった。

 海瀬はゆっくりと立ち上がって、自分の身体を見回し、驚く。

「いけた」

『……ず、随分成長したね』

「お陰様で……って、あれ」

 海瀬は言いながら、それに気がつく。

 中村田が落ちてこない。

 まさか、と機能棟の屋上を見上げると、片方の戦斧を肩に載せて、こちらを遥か見下ろす中村田の姿があった。レゴ人形ほどのサイズにしか見えない距離なのに、ばっちりと目が合う。

「いや……カッコつけてないで降りて来いよ……」

 どういうクソど根性を発揮したのか、屋上に踏みとどまったらしい。

 A棟の方に視線を向けると、ダメだありゃ、という風に手を振る直井がいた。一応撃ってみたが、全然ダメだったということだろう。それだけ伝えると、彼はさっさと身を隠してしまった。

 屋上の端で佇んでいた中村田も踵を返し、視界から歩み去る。流石に弱点を自覚して、飛び降りるという愚は避けたらしい。姿を消して、次はどう動いてくるか想像もつかない。振り回されるばかりの海瀬は、ただ呆然とするしかなかった。

「何なんだアイツ……」

「……かいせ」

 近くから弱々しい声がする。

「あ、笹原……大丈夫だったか」

 慌てた海瀬は、ぐったりとする笹原をその場に下ろした。すっかり脱力しきった彼女は、アスファルトの上にぺたんと座り込み、放心状態で虚空を見つめている。

 その様子を見て、海瀬の中で悪い予感が膨らんだ。とんでもないショックで、ついに笹原の精神は死んでしまったのでは──永遠の眠りの一歩手前で、意識がフリーズしてしまったのでは──など。

「かいせ……」

 笹原がうわ言のように言う。実際の発音は「はいへ」に近い。海瀬はしゃがみこむと顔を近づけて、「どうした」と呼びかけた。

「──かい……」

「あぁ、海瀬だよ」

「……っかい」

「大丈夫か? 息できるか?」

「……いっかい」

「うん……?」

「も……いっかい」

「──は?」

 てっきり、笹原は憔悴し切って、虚空を見果てている思っていたが、そうではない──その目は燥いでいた。燥ぎまくっていた。爛々としていた。あまりにも興奮が激しいばかりに、胡乱げに見えた。

 笹原は海瀬の両肩を掴むと、鼻先をぶつけんばかりに詰め寄った。

「もう一回!」

「はあ? 何を!」

「いまの!」

 笹原はハイテンションで言い切る。

 なんとまあ、先のフリーフォールが、笹原の裡、奥深くに閉ざされていたアドレナリン快楽の扉を豪快に開け放ったらしい。

「え、今の? また飛び降りるの? え、な、何のために?」

 十年来の知り合いだったが、あまりにも知らない面を短時間で見続けてきたせいで、海瀬の人物同定機能はパンクしかけていた。

 尻尾がついていたら千切れるほどぶん回しているであろう勢いで、笹原は食い付いてくる。

「す、すごかったから!」

「いや、それはわかるけどさ、上はちょっと、まだマズくて……」

 浮気を下手に誤魔化すタラシ男みたいな態度で、海瀬は宥めようとする。確かに、もう一度屋上に上がって、中村田の前にのこのこ姿を見せるのは、まあマズい。

「ねえ、お願い、もっかい! もっかいだけ!」

 駄々っ子モードの笹原にガクガク揺さぶられながら、なんだかこの感じ、最近経験したような気がする……と思う。

 これは夢向瑳来という女が、海瀬に土をまた食わせてきた時の態度だ。

「はあ……わかったよ。ほら、立って」

 こうなったらもうどうにもならないと、経験上知っていた。海瀬は折れて、笹原を立たせてやった。

 また飛び降りたいと息巻いている以上、妙な行動を起こすとは思えない。中村田は何だかんだで高所が自分の弱点だと弁えているらしいし、そこを衝けばなんとかなるだろう。別の襲撃者が現れても、俺が何とかすればいい。海瀬は漢気を見せる気になった。

 二人は機能棟に入って、階段を上って行く。誰も現れない。中村田も鳴りを潜めていた。まるで、誰にも邪魔さすまいという、大きな意志が働いているかのように。

 上る、上る、上る、上って行く。明らかに七階よりも、十階よりも高く、上って行く。それでも、海瀬も笹原も何も言わない。黙って高くなりゆくままに従う。

 屋上には誰もいなかった。中村田の空けた大穴だけが残されている。

 藪を突いてサイヤ人を出すこともあるまいと、近寄らないようにしつつ、破損したフェンスを抜けて屋上の縁に立った。

「……ひあ」

 笹原は変な声を漏らして、ぴとっ、と、海瀬に密着してきた。

「今度は何……」

「な……何か、高いなあって思って……」

 百メートルはあるだろう。二人は和籠高校どころか、和籠市全域まで見通せる高さまで来ていた。

「何か、こうして見てみると、全部、小さい、んだね……全部……」

 笹原は、秘密を共有するように、ぽつりと言った。

 和籠特有の激しい高低差も、死ぬとか死なないとかで荒れる校内も、ちっぽけな家の中の不和も──全てが平等で、小さく見える。

「小さいのは、私だけじゃない、んだ……」

 その呟きを聞いて、海瀬は身を震わせた。このミニチュアな尺度のままに、もっと身軽に、世界を泳いでいけたらどんなに楽だろうか。自分の運命すら、いなせるように。

 全てが、どうでもよくなるように。

 海瀬は、笹原の小さな身体をひょいと持ち上げて、

「おら、よ!」

 ダイブした。

「あ」

 全てから解放されて──自由になる。

 勉強もテストも人間関係も家庭の事情も将来の不安も自己嫌悪も社会不信も疲労も吹っ飛んで、そんな細々とした小さな「私」をはるばる超えた、リアルとしか言いようのない時間が訪れる。

「せ、せ……世界の──」

 重力に身を引かれ、全てがフラットに押しつぶされた平らかなな世界で、笹原は絶叫した。

「バカヤローーーーーーーーーーーーーーーー!」

 その怒声は、静まり返った和籠高校へ明るく木霊する。

 大晦日の除夜の鐘のように、教会のベルのように、赤ん坊の産声のように──天からもたらされた福音のように。

「あ……」

 そして、その罵声の向こう側から、八時五十五分のチャイムが朗らかに鳴り響く。雲の合間から陽が差し込み、学校の全てが眩く輝いた。そのあまりの白さに、海瀬は思わず目を瞑る。

 そうして澄まされた耳元に、笹原はそっと囁いた。

「海瀬……ありがとう……」

 生き残った生徒たちは、交錯し反響するその悪態に、ただ耳を澄ましていた。

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