第三章 息を詰めて落ちていくこと #4

 保健室の戸を開け、海瀬は室内を見渡す。雑魚寝する熟睡集団の奥、パーテーショが除かれて露わとなったベッドの上で、笹原が体育座りをしていた。殺戮モノの映画のイメージビジュアルみたいだった。

「笹原。来た、けど」

 海瀬は呼び掛ける。単身だ。繊細な話になるかも知れず、笹原のメンタルを慮って夢向は外で待機していた。

「……海瀬」

 笹原は気怠そうに、海瀬の方へ視線を向けた。海瀬はできるだけ寝そべる生徒たちの隙間を飛び石のように踏み、なんとかベッドの離島へと到達する。

「何で保健室なんかに」

「校長が死んだから、寝に来た」

「眠れた?」

「眠れない」

 恨めしそうに、笹原は床で寝転げている生徒たちを見やる。ダウナーな様子は毎日のように見てきたが、敵意のようなものを剥きだす彼女の姿を、海瀬は初めて見た。

「夢向と会ったらしいな」

 すぐ本題に入る勇気を削がれた海瀬は、とりあえずベッドに腰掛ける。

 海瀬の向けた言葉に、笹原は顔を曇らせた。

「うん。疲れた」

「何て言われた」

「盗み聞きしたでしょ、って」

「……ド直球過ぎる」

 海瀬は額を手で抑える。冗談っぽく言ったのだろうが、笹原にそれを容易く受け止めるキャパシティは乏しい。

 笹原は強く膝を抱いて身を更に縮こませると、海瀬の方に頼りない視線を向けた。

「本当のこと、だもん。私は海瀬とあの人が、願いの叶え方について話してるのを聞いてた。寝たふりをして」

「あの時、ずっと起きてたんだな」

「……起きてた。ずっと」

 海瀬の脳裏に、ベッドの温もりがフラッシュバックし、一挙に酸っぱくなった唾液を時間をかけて呑み込んだ。

「笹原、あの時のことは──」

「……これ、私のせいなの」

 動揺する海瀬もどこ吹く風、笹原は顔を伏せながら言った。怯えを含んだその問いに、海瀬は一気に冷静になる。「それは……」と前置きして、言葉を選びながら答えた。

「……知り合いの先輩が、ここは願いを叶えるための場所だって言ってた。笹原……昨日の夜、俺たちの話聞いて、どうしたんだ」

「……夜に、山の手の門で海瀬がいるの見つけて……つけてった」

「それで……俺たちの真似して」

「──土、食べた」

 懺悔するように、笹原は告げる。海瀬は核心へと突っ込む。

「何を、願ったんだ」

「……私は」

 笹原は一旦言葉を止め窓越しに外の方を見て、かなり長いこと沈黙したが、やがて、冷たい海に飛び込むように、一息に言った。

「私をやめたい」

「……」

 海瀬は、何を言うべきか見失って沈黙する。声のなくなった保健室には、本来なら死んでいるはずの者たちの吐き出す寝息が、底の方で微かに蟠るばかり。空気が鋲でピンと張り詰められているようだった。

「最初は違うと思った」

 やがて、その呼吸たちに声を乗せるように、笹原は訥々と語る。

「人が眠るのは、時間を飛び越えることができるから。嫌なことがあったり、疲れたり、上手くいかないことがあったりしても、眠って起きれば、また新しく始められる。時間をスキップしてるから。後ろの時間から切り離されてるから。前の私をやめて、軽くなれるから」

「……」

「でも、今、時間は流れてない。ずっと八時五十五分。目を瞑って開いても、八時五十五分。いつまで経ってもお昼が来ない。軽くならない。何も変わらない。眠る意味がない。この人たちは、眠る意味がないのに眠ってる、それは、死んでるってこと。私の終わり。それは違うと思ってたから、生きてた」

 笹原は視線をベッドの上に落とし、「でも」と言葉を継ぐ。

「私のために用意された場所っていうことなら、やっぱりこれが、私の願いなのかも知れない、って、思えてきた。切り離したはずの、後ろ側の時間に、息を詰めて、背中から落ちていくこと。永遠の眠りにつくことは、終わりじゃない、眠りに落ちる直前一瞬の中で、永遠に私をやめ続けることなんだって」

「……それは」

 何としても否定したかったが、どう言い繕ったところで薄っぺらい言葉になることがわかりきっていた。戦闘に敗れた生徒たちが、死んでいるのではなく眠っているだけだと判明した瞬間、脳裏を過ぎったのが笹原のことだったからだ。

 ──笹原は、永遠の眠りを願っているに違いない、と。

「私は眠っていたい。だから海瀬」

 笹原は海瀬を見つめて、言った。

「私を殺してほしい」

「なっ──」

「それが私の願いなら……」

 海瀬は狼狽した。覚悟に満ちた確かな眼差しならともかく、助けを乞う弱弱しい眼差しなのだ。これには弱い。反射的に、太刀の柄に手を置きかけてしまう。

「……なんで、俺?」

 かろうじて問う。笹原は瞬きすらせず、即答した。

「幼稚園の頃から一緒だから」

「それだけ?」

「ん……それだけ」

 海瀬の肺腑の芯が、じんと熱くなった。笹原からの信頼、それは心の琴線に触れるものだったらしい。なんと、そのまま頼まれたことを執行してしまいそうな雰囲気になりつつある。

『待って、待って……マジでやるの?』

 このままではマズい気がして、慌てて割って入った。

「やりたくない。でも、これが『願い』だっていうなら──」

 最悪は、と、海瀬は苦々しく答える。今のこいつなら、容易く実行できてしまうだろう。冷静になれ、という一心でまくし立てた。

『おかしいんだよなあ、もし、本当にそれが願いだったんなら、校長の事変でとっととやられてれば良かったと思わない?』

「そうだけど、でもそれは笹原の考えに悖るから、しなかったんじゃないのか」

『「わたし」をやめることと、終わらせることの違い? そんな感情、モロクロ石が忖度できるわけないでしょ。永遠に眠りたい人間がいたのなら、さっさと永遠に眠らせるよ』

「確かに……だとしたら」

 説得の甲斐あって、笹原の今にも涙を落としそうな眼に屈することなく、考える余裕ができたようだった。

「別の願いがある」

『そう考えるしかないよ』

 本当の願いは、心の隅の隅、露のように溜まるものだ。本人ですらその正体を知らないということは、平気であり得るし、大体がそういうものである。

 ──笹原からしたら長い長い沈黙、それを打ち破って海瀬は立ち上がる。

「……悪いけど、俺はやらない」

「……え」

「やれるかよ。幼稚園の頃から一緒なんだぞ」

 笹原は目を見開いて、海瀬に追いすがるように体育座りを解く。

「何で……やってよ」

「やれない。そんな形で叶う願いじゃない」

「叶うんだよ。私、ずっと、願ってるもん」

「願ってるんじゃなくて、諦めてるだけだ。今、笹原がここにいるのには、何か他に意味があるはずなんだよ」

 説得するため、止むをえなかったのだろうが、海瀬は強い口調になっていた。

 笹原はびくっと驚いて口を噤んで、しばらく呆然と海瀬の顔を見上げていたが、やがて、その上目がちな両の目から涙がつぅっと落ちた。

「そ……そんなわけない! 私は私をやめたいって、言ってるの! 海瀬も知ってるでしょ……!」

 みるみる瞳を真っ赤にして、笹原は泣き出す。ぼろぼろぼろぼろ、シーツの上に涙の粒が落ちた。

「お、おい、笹原……」

 海瀬の虚勢はあっという間に剥がれ落ち、ただあたふたするばかり。落ち着かせようとして、笹原の震える細い肩に手を置いた。

「やめて……!」

 笹原は海瀬を睨みつける。幼稚園の頃から一緒だったくせに、そこまで感情的な表情を見たのは、初めてだった。

「触らないで!」

 次の瞬間、海瀬の視界に火花が散った。

「が──っ」

 身体がすっ飛ぶ。虚空に放り出されたような感覚の直後、背中に衝撃が走った。顔面に抉られたような痛みが点滅している。

「海瀬の……馬鹿……!」

 追い打ちをかけるように、落ちた海瀬の胸元が踏みつけられる。衝撃に驚いた肺が呼吸の仕方を忘れ、息が詰まって咳き込んだ。

「げほ……い、いっでええじゃん、普通にさあ……」

 笹原は海瀬を踏み台に昏睡する生徒の海を越えて、保健室から出て行ったようだった。海瀬は開いた保健室の戸を恨めしく見やる。

『笹原も普通に得物持ってるんだった。忘れてたな』

「な、何だ、アレ……」

『メリケンサックだった。体育座りして、手にしてるのを隠してたんだ』

 海瀬はクッションとなってくれた眠り人たちを労わりながら身体を起こし、保健室の外へ急いで出る。笹原の様子を見ていたらしい夢向が、泡を食った様子で食い掛ってきた。

「何、なに、一線超えようとしたか!」

「アホか! 永遠に眠らせてくれって頼まれたんだ。で、断ったら、殴られた」

「か、介錯頼まれたってこと……」

「でも、それがあいつの願いなわけがない!」

 海瀬は確信を込めて言う。

 その力強い断言に、夢向は一瞬目を瞠った。それから不敵に笑ってみせる。

「私もそう思う」

「……笹原はどっち行ったかわかるか?」

「階段を上って行ったよ。……もしかしたら、屋上から飛び降りるつもりなの、かも」

「くっ、屋上か!」

 海瀬は走り出す。

 仮に笹原の本意が永遠の眠りではないにも関わらず、永遠の眠りについてしまったら、原理的に願いを叶えることが不可能になってしまう。いつまでもいつまでも八時五十五分のまま、意味のない学校生活を続けさせられることになる。

 それこそ、死んでいるようなものだ。海瀬は歯を噛み締めて、階段を駆け上がった。

「そういえば、何故か十階建てに伸びたんだっけか……」

 いつもより高くなっているということだ。その意図を考えないように、一段飛ばしで踏み越していく。幸いにも、知らぬ間に強くなっていた身体は、海瀬の無茶な要求によく応えてくれた。ぐんぐん高さを稼いでいく。

 息を切らしつつ、やっとこさ最上階に辿り着くと、屋上への扉を蹴り壊しながら外へと躍り出た。

「……笹原!」

 見回しながら叫ぶ。しかし、校内で最も高いその場所に、笹原の姿はなかった。

「遅かったか……」

 海瀬は落下防止のフェンスに走り寄って、地面を見下ろし始める。

『いや、海瀬、自分でドア蹴り飛ばしてた』

「……本当だ」

 飛び下りようと考える人間が、わざわざ開け放したドアを閉めるはずがない。

「ここじゃないとしたら、どこに……」

 海瀬は途方に暮れて立ち尽くす。

 風は凪いでいて、地球の自転すら止まっていそうなほど静かだった。薄気味の悪い穏やかさ。そんな空気へじりじり滲むように、その声はどこからともなく流れ来てた。

 ──こ、こんにちは。えっと、C5の笹原といいます。今回は、せ、生徒のみなさんに、判断して欲しいことがあります。

「おいおい、マジかよ……」

 それはノイズに揺らぐ、笹原の声だった。学内のあちこちのスピーカーから聞こえてくる。生徒会のアナウンスと違って、たどたどしい、自信のなさそうな声。

 ──ここは、願いを叶える場所ですが、その願いの主は私です。私の願いは、私をやめること、です。永遠に。それを叶える手段は、ただ、眠ることです……眠りは、それまでの私をきっぱり洗い流し、捨て去ってくれる。今の和籠高校には、そんな眠りの中でも、最上のものが存在します。斃れた者の眠りです。

 放送室は今いる機能棟の二階にある。あちこちから反響する笹原の声を聞きながら、海瀬は必死で階段を下りていく。脚力が異常に発達しているのか、十二段のそれを二歩で飛び下りても全然平気だった。

 ──私はあの眠りが欲しい。そのために、私は誰かに殺されたいのです。なので、みなさんの、審議をお願いしたいです。

 二階に着くや、海瀬は放送室へと駆ける。

「何で端っこにあるんだよ……クソ……」

 心の中で、毒づきながら。

 が、海瀬の頑張りにも関わらず、笹原は無慈悲にも審議の詳細を述べ始めた。

 ──ある人物に、殺してくれと頼まれたら、殺してあげることは正しいことでしょうか。悪いことでしょうか。正しいと思う人は私を殺してください。悪いと思う人は、正しいと思う人を倒してください。

 ──審議は、審議の必要性がなくなるまで、続きます。開始の合図は……。

 海瀬は放送室の重いドアを開け放つ。マイクの前に座る笹原が声を詰まらせ、怯えた目つきで遅れ過ぎた乱入者を見る。

 彼女はもう一言、つけ加えるだけで良かった。

 ──合図は、八時五十五分、始業のチャイムです。

 瞬間、始業のチャイムが思い出したように鳴り響いた。時刻はいつまでも八時五十五分なのだから、別に待つ必要もない。

 早速、校舎の方から銃声が轟いた。戦いが始まったのだ。

「やっちまったな」

「海瀬のせい、だから」

 笹原は敵意剥き出しで、海瀬に向けてメリケンサックを嵌めた拳を振り上げる。そのまま、信じられないくらい俊敏なパンチを放ってきたが、油断のない海瀬の反応はそれを上回った。

「うっ……」

 海瀬は左の掌で、真っ向からその攻撃を受け止めると、右手で手首を掴むと腕をひねり上げ、身動きを封じてしまう。笹原が痛そうな声を上げたが、心を鬼にして聞き流した。

「校長と違って、笹原は自分から食われにいく餌だ……このまま身柄を確保して、守りきるしかない」

『殺す派を全滅させるってこと?』

「それか、別の方法を探す!」

 審議は、審議の必要がなくなるまで続く。このぶっきらぼうな規約が、状況を打破する唯一の抜け道だった。

 放送室には窓がない。海瀬は笹原を引きずるように廊下へ出て窓の外を窺うと、主戦場は校舎のようで、まだ刺客の姿は見えなかった。

「反対派が意外と多いのか……」

 校長事変よりよっぽど余裕があると見て、海瀬は放送室にあったシールドで笹原の両手両足を縛った。そうすると自分で移動ができない、というわけで仕方なく、海瀬は笹原をお姫様抱っこする。

 華やかな見た目に反して、笹原の視線は冷ややかだった。

「海瀬、私といると、殺されるよ」

「殺されない。なんか知らないけど、俺、強いから」

 海瀬は元々、イキって自分を大きく見せる人間ではない。単に強がっているだけだ。それか意地を張っている、と言えばいいか。

 いわばこれは、海瀬と笹原の喧嘩だった。

 学校全体を巻き込んで、という最悪の形の。

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