第三章 息を詰めて落ちていくこと #1

 海瀬と夢向は、十階建てになってしまった機能棟の階段を下りていく。一応、エレベーターがついているものの、ボタンを押してから、待てど暮らせどやってこないので、痺れを切らして自らの脚で下っていたのだ。

「え……私、夏間さん以外には教えてないよ!」

 その道すがら、次の事実が発覚していた。夢向と夏間以外の願った誰かについて。

「マジか。夏間先輩がまた誰かに伝えたとか」

「千歩譲って私がそういうキャラだとしても、夏間さんは絶対にそういうことしない」

「まあ、確かにそうか……」

 とか、海瀬は簡単に納得してしまう。結局、他の誰かについてはわからずじまいだった。

 一〇階分の下り階段は長く、その間に夏間先輩から聞いた情報は共有できた。願いを叶える場、どうやら複数人が同時に願ってしまったことによって生まれ、叶えを与えるためにお膳立てされた空間。モロクロ石が横着なのか知らないが、一斉に叶えようとしてしまったが故のカオスということだろう。

「ねえ、この場合、海瀬のはどうなるの」

 一連のことを呑み込み終えた夢向は言った。

「俺の?」

「うん。私は初めてでもう保証されてるけどさ、海瀬は土食べたの二回目でしょ。リピートってあり?」

 忘れがちだが、夢向の願いは金富名声ルクセンブルクにランボルギーニだ。どう処理したら、この環境で叶うと思えるのか不思議だ。

 まあ、それはともかく、夢向の疑問は尤もだった。海瀬はこれに醒めた態度で答える。

「叶わないだろ。これで叶ったら叶え放題ってことになるし」

 夢向は残念そうに、ふぅん、と漏らす。

「そっか。っていうか、海瀬の叶えた願いって──」

「おーい、ちょっと手伝って欲しいんだけど」

 突然に声を掛けられて、二人して肩をすくませた。

 見ると、知らない男子生徒がこちらに手を振っている。気づかないうちに一階まで下りきっていたらしい。

「はぁい、何ですか?」

 そちらに歩み寄りながら夢向が応えると、日焼けしたスポーツ刈りの彼は物腰低く、

「動かない奴らを片してって生徒会が言っててさ。人が足りないんだ。どいつもこいつも、終わった瞬間クラスに戻るんだもんなあ」

「あぁ……」

 彼の肩越しには、空気の抜けた風船みたいに弛緩した誰かを、両腕で抱きかかえている生徒の姿が見える。

「了解です!」

 気の滅入りそうな仕事なのに、夢向は元気に快諾した。

 そのままグラウンド方面へと向っていくので、海瀬は心配になって訊ねる。

「もしかしてやられた奴らから得物を奪うつもりなのか」

「そんな図太くないわ! 死んでる人、本当に死んでるのかなって気になって」

「ああ……確かに、血も流れてないしな」

 途中、数人の死体運搬中の生徒とすれ違ったが、談笑してたりぼんやりしてたり、緊張感がまるでなかった。清掃時間に机でも運んでいるような気楽さ。死体の処理をしているような雰囲気ではない。

 黒ずんだ石の階段を上ってグラウンドに出ると、春先の融け残った雪のように十数人の生徒が倒れていた。

 夢向は一人の倒れた女子生徒にとっとこ近づいていくと、しゃがみこんで様子を見始めた。

「どう?」

 海瀬が声をかけると、夢向は神妙な顔で見上げ、答えた。

「……寝てる」

「え?」

「寝てるだけだよ。ほら」

 海瀬も寄って観察してみると、確かに、呼吸するように胸は動いているし、血色も良い。創傷や出血もなく、本当にただ眠っているだけのようだった。

「寝てるだけなら起きるのか?」

「起こしてみよっか」

 夢向はそう言うや、その女子の顔を平手でバチバチ叩き出した。見知らぬ人間を、よくも躊躇なく打擲できるものだ。得物が蝙蝠傘ではなくちゃんとした凶器だったら、何の呵責もなく相手を倒す奴かも知れない。

 その哀れな女子が起きる気配はなかった。ぐうすか眠り続けている。海瀬は考え込んだ。

「やられたら、死ぬんじゃなくて眠るのか。誰からも干渉されることなく……」

『面白くなってきたな』

「あぁ……あまり考えたくないけど」

「何、どうしたの、急にぶつぶつ……」

 夢向が立ち上がって、怪訝そうに言ってきたので、海瀬は心臓が飛び出そうになった。また脳内で済ませるべきところを口に出してしまっていたらしい。

「い、いや、考えたことがあってさ。と、とりあえず、運ぶの済ませてから話そう」

 海瀬が慌てて言い繕うと、夢向はちょっと驚いた顔をした。

「え、ちゃんと手伝うんだ……リチギだね」

「いや、自分で請けといてバックレんなよ」



「手伝ってくれてありがとうございます。また何かあったら、今回のように頼むかも知れないですが、よろしくお願いします」

 保健室の前、生徒会長の加成大輝が手伝いに集まった生徒たちに向けて言った。

 昏睡した生徒たちは全員、ここに運ばれてきたわけだが、ベッドなど当然足りるはずもなく、収まらなかった者は床に転がされていた。制服姿の男女が入交って乱雑に横たわり寝返りをうつ気配もないので、非常事態感があった。

 解散の運びになって、お手伝いさんたちは三々五々散っていく。突っ立って見送っていたら、その場に残ったのは海瀬と夢向の二人だけになった。

「それで、何がわかったの?」

 夢向は訊きながら、保健室の戸に背中を預ける。

 海瀬は、向かいの窓へ凭れかかりながら答えた。

「やられた生徒は問答無用で眠り続けるって、それを願いそうな奴の心当たりがある」

「誰なの?」

「笹原だよ」

「……誰?」

 首を傾げる夢向に、海瀬は素直にずっこけそうになった。

「覚えてないのかよ、お前が俺から願いの叶え方を聞きだすために、勝手に人質にした女子だよ」

「ああー。あの子……何でまた」

「……とにかく眠りたいんだ。過敏なたちで、何事もストレスになるから、眠ってやり過ごしたいと思ってる……四六時中な。だから、枕持ち歩いたり、明らかに背伸びした本とか読んでる」

「まあ、確かに毎日保健室で寝てるけど……もしかして、そういうこと?」

 夢向は馬鹿だが頭は悪くない。海瀬は頷いた。

「ここで死んでれば永遠に眠っていられる」

「……何それ」

 呆れたように、夢向は小さな声で言う。

「もちろん、仮説でしかない、けど」

「仮説か……ま、でも、あの子には願いの叶え方を知るチャンスはあった。昨日の保健室で、寝たフリして私たちの会話を全部聞いてれば」

 あの時の状況を思い出したらしい海瀬は、冷や汗を浮かべ始める。

「…………そうなるな」

「海瀬一緒にベッド入ってなかった?」

「お前がやったんだろ」

 不機嫌さを隠さず、海瀬は反駁する。あの出来事が自分だけのものであるためにも、この仮説は仮説のままで留まって欲しい、と海瀬は切に思う。ただ、やはり至近距離で聞いたあの「寝言」が、裏付けになっているように思えてならなかった。

 ──全部……夢なら、良いのに。

 海瀬は一度大きく呼吸して、気を持ち直した。

「まだ何もわからない。笹原に会おう。幸い保健室にはいなかったから、まだどこかで起きてるはずだ」

 やられた生徒は全員ここへ集められている。これについては生徒会の統率に感謝だ。

「じゃあ、とっとと会いに行こうよ。クラスは?」

「俺と同じ」

「よしきた」

 二人は壁・窓から背を離すと、速足で歩き出した。

 道すがら、海瀬はスマホを取り出す。これに特別な意味はない、習慣的な手癖だった。通知の類がないことをさっと確認すると、スリープにしてまたポケットに突っ込む──それから、慌ててもう一度取り出した。

「……んん?」

「何してんの」

 夢向が眉を寄せて、画面を覗き込んでくる。何の変哲もないロック画面が表示されている、だけだが。

「夢向、スマホ、ネット繋がってるか?」

「え? まさか、そういうベタな感じになってるの?」

 呆れたような言葉と共に、制服のポケットから画面バリバリのスマホが出てくる。アクティブになる画面。海瀬は急いで目を逸らす。

 夢向は「えっ」と声を上げた。

「今、八時五十五分なの?」

「一緒か……」

 海瀬も自分の画面を見せる。九時より五分間前であることを意味する表記。回線はどちらも安定しているし、そもそもネットワーク接続がなくとも正しい時間を刻むはずだ。

 八時五十五分は、校長の首を巡る戦いの嚆矢となった、始業のチャイムの鳴った時間だ。そこから、どう少なく見積もっても一時間は経過しているはず。体感時間云々を考慮しても、一分も進んでいないというのは異常だ。

 それから、しばらく情報を少しでも得ようと、二人して歩きながらSNSのストリームを更新したり、ソシャゲを起動してみたりした。

「ツイッターの最新の投稿がどれも『今』のままで、新着が来ない」

「誰もインスタに戦場をアップしてない!」

「映えてたまるか」

「リズムゲーは? プレイできるのかな」

「後にして」

 そんな調子でアプリを手当たり次第開いていったが、どう考えても避けようのない結論に至って、二人は歩みを止める。

「やっぱりこれ──」

 夢向が緊張の眼差しを向ける。海瀬は見返して、応えた。

「ああ、時間が、止まってる」

「え、ちょっと、ねえ、時間が止まるってどういうこと?」

「……わからない」

 二人は困るしかない。時間が止まっていると言われたら、視界があまねく灰色になって、人とか車とか信号が、全てが静止している様子を思い浮かべるだろう。写真を切り抜いたような張り詰める静かな世界。

 だが、海瀬も夢向も当然のように動いているし、息もしているし、音も聞こえている。それでも、空は雲が重たく閉ざし、時計の針は止まり、電子機器は「8:55」。アプリのストップウォッチも機能しない。時の経過を証立てるものが揃いも揃って沈黙していた。

 ──一応、ここでの海瀬と夢向には、外部とのコンタクトを図るという選択肢が浮かぶべきなのだが、考えもしていないことを指摘しておく。更に、二人がいる機能棟の一階は校門に近い位置にあるにも関わらず、脱出を考えていない。そういう思考を許さない何かが今の状況にあると、理解しておいてほしい。

「願いを叶えるための場所か……」

 海瀬の呟きを、夢向が拾い上げて、

「願いが叶えるために、時間をわざわざ止めてるって話? じゃあ、叶えてしまえば、また動き出すってこと?」

「わからないけど、そうじゃないか」

「はあ……願いを叶えるのがこんなに大変なんて」

 夢向はうんざりしたように、ため息を一つ吐いた。

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