第二章 八時五十五分、校長の変 #2

 校長の足取りは平生と変わりなく、年の功を背負ってでっぷりとしている身体を、時間に追われるビジネスマンのようにシャカシャカ動かし、闊歩していた。向かう先は校長室ではなく、山の手のグラウンド。見通しがかなり良く、遠隔攻撃を持っている生徒の格好の餌食だ。

「殺してくれって言ってんのか……」

「守ってみろって言ってんのかも」

 海瀬と夢向は機能棟の最上階で、動向を見守っていた。機能棟は職員室や生徒会室、保健室や放送室など、文字通り機能的な設備の入った校舎で、低地の窪に建てられているものの、七階建てという仕様のお陰で、学内では最も視界の利く場所となっている。

 傍観する海瀬の視界では、早速ごたごたが起こり始めていた。剣やら槍やら槌やらを持った生徒たちが校長を取り囲んで襲撃を仕掛け、それを擁護派たちが受け止め、防衛している。校長は気にも留めず、ただ闊歩。

 戦闘は本気で行われていて、フルスイングの槌に当たって吹っ飛ばされる者、剣に貫かれる者、槍に貫かれる者、どこからか狙撃され突然ぶっ倒れる者、突然の爆発に巻き込まれ四散する者、とにかく容赦がなく、力尽きた者はマネキンのように倒れ伏している。

 直井もあの人混みの中で、誰かを撃ち殺しているのだろう。そして、自分にもその権利がある、と海瀬は腰の太刀を意識する。

「ヤバい感じだけど……なんか、ぱっと見血みどろじゃないね」

 安全圏に来た夢向は余裕を取り戻したのか、そんなことを言った。確かに、赤色の液体の飛び散ったり、溜まったりしている様子はない。マネキンのよう、と比喩するゆえんだ。

 と、呆然と見下ろすばかりの海瀬の耳に、ふと足音が飛び込んだ。無意識のうち、太刀の柄に手を添えて咄嗟に振り向く。

「海瀬くん……それと瑳来も」

 現れたのは夏間先輩だった。

 海瀬にとっての勉学面の先輩である彼女は、手に細い剣を携え、海瀬から距離を空けて佇んでいる。その空間が太刀の間合いを警戒してのことと、海瀬は知らない。

「先輩?」

「な、夏間さん……」

 遅れて夏間先輩に気づいた夢向が、海瀬と同じような反応をする。海瀬は横目で夢向の方を見て、

「知ってるのか」

「うーん……まあね」

「何してるの」

 夏間先輩が問うた。傍観です、と即答しかけるが、相手の威圧がそれをさせない。

「……見て、ます」

 結局、出たのは弱々しい言葉。

「そう」

 夏間先輩はヒリついた緊張感を保ちながら歩み寄り、海瀬の隣に並んだ。眼下では、校長が山の手への斜面をえっちらおっちら上がっている。周囲の喧騒と比べると、グロテスクなほどの平和ぶり。

 やがて、夏間先輩が口を開いた。凛とした調子で。

「それで、どっち」

 やっぱりそう来るよな──という気持ちだった。夢向がごくり、と唾を呑む。

「どっち、とは……」

 対応を間違えたら、即、その手に握られている細身の剣に喉元を掻っ切られそうな空気。沈黙を避けるために、海瀬は恐る恐る問い返す。

 夏の青空のように深く澄んだ表情で、夏間先輩は答えた。

「校長を、殺すか、守るか」

 突如現れた審議という現象は、海瀬たちすら見逃すつもりはないようだった。

 海瀬は慎重に質問を重ねる。

「夏間先輩は」

「殺す」

 即答。二人に動揺が走る。

「そ、そうなんですね」

「校長は今期でティーチングを廃止しようとしてる」

「ティーチング……」

 海瀬はその単語を反芻する。夏間先輩がティーチングに思い入れがあるというのは初耳だが、確かに教員志望ということを措いても、よく熱心に参加していた気がする。

 不評の多いティーチング廃止の話は、ずっと前からあったことだ。それで、校長にはあまり良い感情がないというのはわかる、が……。

「……海瀬くん、今」

 夏間先輩の目が、ぐりんと海瀬の方へと剥かれた。

「そんな理由で、って思った……」

「お、思ってないですよ!」

 と海瀬は慌てて弁明するが、殺害に至るほどの理由なのか、と思ってしまったのは事実だった。もっとも、殺意と釣り合う動機がこの世にあるのかどうか微妙なところだが。

「そう……なら、君たちはどっち」

 改めて問われる。「どっち」の問いから逃れられない。

 海瀬は返しに窮して、

「どちらでも……ない、です」

 そんなこと訊かないでくれ、という泣きたい心が、そのまま出てしまった。

 日頃の穏やかな関係も、今、学校中に蔓延しているよくわからない狂気の前には、一時の夢のように儚いものでしかなかった。

 ──夏間先輩の右手がぱっと閃いた、ように見えた。

『太刀を抜け!』

 反射的に叫び散らした。海瀬の脳内には爆音で鳴り響いたことだろう。

「──!」

 海瀬は奇跡的にその通りにする。想像の十倍以上の速さで鮮やかな鋼色の刀身が抜かれ、俊敏に打ち込まれた細剣の切っ先を受け止めた。

 金属のかち合う鋭利な音、その向こう側から夏間先輩の眼光が覗く。

「君は宮島を否定する考えがない、それは、宮島を擁護しない理由もないってこと」

「そ、それはちょっと過激すぎるのでは……」

 海瀬は強張り尽くして、ぎこちなさすぎる笑顔みたいになった相貌で応える。やんわりと、暴論を宥めようというスタンスだ。

「そうとしか思えない」

 が、無慈悲にも、夏間先輩は海瀬を切り刻まんと、剣をしならせた。海瀬は手にある太刀を翻し、必死になってそれを受ける。

 たかがこの数秒で、ここはもう安全圏ではなくなってしまった。

「ひ、ひぇっ……」

 突然の剣戟に夢向が、引き攣った悲鳴をあげる。

『まずいね……夢向は逃がした方が良い』

「夢向、どっか、逃げろ!」

 提言を即座に実行する海瀬。庇う形になっている都合上、夢向の様子は見えないが、明らかに戸惑う気配が伝わってくる。

「で、でも……」

「俺はもう駄目だ! お前だけでも無事でいてくれ!」

 突き動かすために強く言う。その声音は悲愴に満ちていた。ごめん海瀬……と、泣きそうな声で言い残して、夢向は逃げ去っていく。

 夏間先輩が追いそうな素振りを見せたので、海瀬はその進路を塞ぐように太刀を突き出した。風圧が彼女の髪をそよがせる。夏間先輩は目を細めて、海瀬を見た。

「かっこいいね」

「……どうも」

 そして、間髪入れずに攻撃を仕掛けてくる。海瀬は後退しつつそれを受ける。衝撃は軽い、が、攻撃が終わった時点で既に次の攻撃が始まっている。そのスピーディーさはあまりに見事で、その技術をどこから仕入れたのかなんて考える暇もない。

 一息吐く間もなく、夏間先輩は次から次へと剣を振るってくる。ビギナーに対してあまりにも容赦がない連撃、だったが。

『いや、でも……やるなあ……』

 どういう底力なのか、海瀬はその細々とした攻撃をまあ、見事に捌いていた。完全に剣の軌道を読み切っているような挙動に、この男子高校生のことがよくわからなくなる。山間の道場で修業したという奪われた記憶でもありそうだった。

「な、何なんですか、これは……」

 夏間先輩の剣戟をやり過ごす度に、廊下の掲示物が破れ散ったり、教室の表札が弾け飛ぶ。そんな忙しさの中、海瀬は声を上げた。

「全然、意味がわからないんですがっ!」

「う」

 海瀬は弾いた相手の刀身に自分の太刀を押し付け、思い切りその距離を詰めた。重さに押されて、夏間先輩は次の行動に移れない。防戦一方だったところを膠着状態に押し込んで、海瀬は言った。

「何で、俺はこんなに戦えるんですか!」

 わけのわからなさに逆上していた。未経験なのにこなせることが気持ち悪かった。

 交差した武器の向こう側、夏間先輩はモノトーンな瞳で海瀬を見つめて、答えた。

「それは、ここが願いを叶えるための場所だから」

「か、叶えるための場所って──わ」

 海瀬が困惑した隙を突いて、夏間先輩は身体をよじって脱出し、距離を空ける。

「願った誰かがいる。叶えようとする何かがある。ここはその両者が出会う場所。『願いを叶える場』」

「それが殺し合いってことですか?」

「それは皮相でしかない。もっと考えて」

 英語の長文読解を教えるような口ぶりで夏間先輩は言い、再び攻撃を開始する。

 海瀬は夏間先輩の細やかな連撃を、苦もなく受け止めた。海瀬には殺意がなく、防御にだけ徹していれば良いとはいえ、普通の業ではない。

 海瀬は自分が思ったよりも太刀を扱えることに気がついて、余裕を取り戻したようだ。一瞬でも気を抜けば痛い目に遭う場面であるにも関わらず、頭を回す余裕があった。

 こんな技術があるのは、願いを叶える場、だから──というのは飛躍しているとしか思えない。逆、なのだ。願いを叶えるのに必要だから、こんなに戦闘技術があり、安易な対立が煽られ、殺し合いが行われている。

 そして、夢向がそんなことを望むわけがないとすれば、大体答えは決まってくる。

「誰か、俺たちの他に土を食った奴がいて──そいつの願いがこの戦いの中で叶えられるってわけか」

 海瀬は頭の中で結論を出した。

『まあ、そうだろうよね』

「でも、校長を殺すことも、殺し合いをすることも、本意じゃない。そもそも、そういう願いは叶えられないから、そうだな?」

『うん。夢向瑳来の願いが叶わないのと同じ原理でね』

 校長を殺したい、殺し合いをしたい、という願いは一見簡単だが、結局利害や私怨、それから特殊な感じの快楽メカニズムを必要とする時点で、モロクロ石のキャパシティを超えるだろう。

 海瀬と夢向以外に願った誰かは、校長の死、誰かの死を安直に望んでいるわけではないということ。そして、どうもこの妙な狂騒は、彼だか彼女だかの願いの叶うまで終わりそうもないこと。

 そういうことを夏間先輩が示唆しているとすれば。

「それなら、俺たちの戦う意味ってなくないですか!」

 海瀬は叫ぶ。要するにこれは丸々狂言だということになる。決まりきったハッピーエンドのための戦い、そうと知りながらわざわざ脚本通りに動くことはない。

 すると、夏間先輩は連撃のリズムを変え、やおら海瀬の懐を蹴りつけてきた。その衝撃に、海瀬はあっさりと背中から倒れ込む。受け身も取れずもろに背中を打ち付け、呼吸が詰まった。

「意味はある」

 夏間先輩は倒れた海瀬に向けて、容赦なくその剣を振りかぶった。海瀬は咄嗟に太刀を横に薙いで、その凶刃を弾き、余った左手で床を掴んで身体を後方へ滑らせる。直後に、海瀬のいたあたりへ白く一閃が落とされた。

「危っ……」

 戦う意味を身を以って知らせてやると、うるさいくらい主張しているようだった。

 海瀬は壁際に身を寄せると、窓の桟に手をかけ身を起こす。夏間先輩がその隙を見逃すはずもなく、切っ先を喉元めがけて繰り出してきた。海瀬は顎を引いてそれを躱す。空を切った刀身が窓を突き、ガラスが砕け散った。外のどよめきがこちら側へと流れ込む。

 グラウンドでは、校長への害意に満たされた生徒たちが、決して数の多くない擁護派を蹂躙していた。斃れて動かない生徒の姿も窺える。

 なんて観察も束の間、夏間先輩が獰猛にも振るった一撃を、海瀬は太刀の鍔で受け止めた。そのまま鍔迫り合いになる。強く押され、身体が傾ぎ、上半身が校舎の外にはみ出た。嫌な風が耳元を抜けていく。

「ここで叶えられるのは、私の願いでもあるから」

 端正な剣越しに、夏間先輩は静かに言った。

 海瀬は目をぐっと眇める。

「……それって」

「だから私は、この場に準じる。願いのために」

 ──夏間先輩は、モロクロ石の秘密を知り、土を食べたということ。

「く……」

 衝撃の告白の重みに押されるように、海瀬の身体は窓の外、宙へと傾いた。力の差というよりも、海瀬の姿勢がとにかく悪く、踏ん張れないのだ。みるみる圧倒されていく。

「や、やば、こ、これ落ちる……」

 うっかり下の方を見てしまった海瀬が喚く。恐怖心がにわかに込みあがってきた。夏間先輩と互角に凌ぎあっていたとは思えないみっともなさだが、メンタリティはどうしても一般人である。一方、夏間先輩も一般人のはずだが、こちらは殺しのプロの顔をしている。

「うん、落とすよ」

 夏間先輩には血も涙もない。機械のような手つきで、海瀬を追い詰める。

「し、」

 海瀬は凡庸な男だから、頭の中でこう願うのに精一杯だった。

「死にたくないっ!」

 あまりにも正しい叫び。思わないのは即死した者か、命の危険に晒され過ぎて慣れっこになってしまった者だろう。

 海瀬はかなり頑張った方だ。

 彼がこの窮地を脱するのに必要なのは、一秒か二秒の時間だけだった。

『それなら手の力をパッと抜いて、思い切り反りな』

 だから、そう提言した。大胆にも海瀬はすぐさまその通りにした。

 唐突に持ち主を失うことになった太刀はすっぽ抜け、中空に放り出される。夏間先輩は不意に抵抗を失って前のめり、手に握った剣が危ない形で前に突き出される。精一杯のけぞった海瀬の目と鼻の先を、刃の先端が通り過ぎて行った。

「おっと」

 そのままいけば二人もろとも落ちかけたところだが、夏間先輩は無論、そんな愚は犯さず、さっさと姿勢を立て直す。一方、落下寸前の海瀬を支えていたのは、窓の縁にかかった両膝の挟む力だけだった。小学生の時に、鉄棒でこうもりをやった時のような、鈍い痛みが両脚に響く。

 どう見ても万事休すな場面で、海瀬は天地のひっくり返った視界の中、それを目撃していた。

 反転した眼下に広がる、戦場と化したグラウンド。

 その中心に、空中を放射状に動く点があった。

「あ」

 何故か、その正体は一瞬でわかった。

 その点は、校長の首だった。

 ここに、生徒の総意が実現されたことになる。

「マジかよ……」

 海瀬は自分の格好と状況も忘れて、呆然と呟いた。首は放物線を描いて地面に落ちていく。まるで打ち上げ花火を見るかのように、棒立ちの生徒たちがそれを見守っていた。

 ──これ以上の審議は意味をなさない。戦いが終わったのだ。

「……あ、やば」

 その光栄に思わず見とれていた海瀬は、脚の疲労が祟って自分の身を起こせないことに気がついた。

 そんな彼に、手が差し伸べられる。

「大丈夫……」

 夏間先輩は、救援にやってきた友軍みたいな顔をして言った。

 態度の豹変が劇的過ぎて、これが平時なら人間不信になる。それでも、彼は手を掴まずにはいられなかった。希望を与えておいて突き落とすとかいう陰険な仕打ちを受けることもなく、海瀬は屋内に引っ張り上げられた。

「良いんですか、俺のこと、排除しなくて」

 敢えて訊ねる海瀬に、夏間先輩は相変わらず冴えた目を向ける。

「もう必要ない」

 審議の終わった今、戦う理由は本当の意味で存在しない。窓の外、山の手のグラウンドにも、体育祭の終わった後のような爽やかな疲労感が薫っている。

 夏間先輩は予想通りのことを告げて、戦いの痕跡の生々しいフロアを後にしようと背を向けた。その後ろ姿に、海瀬は慌てて声をかける。

「夏間先輩、一つだけ。願いの叶え方、どうやって知ったんですか」

 その問いかけに、足を止めることなく、彼女は答えた。

「瑳来から聞いた」

「──マジですか」

 海瀬は愕然とした。確かに口止めはしなかったが、それは夢向が願いの叶え方を独占したい手合いで、人には漏らさないだろうと思っていたからだ。

「じゃ、またね」

 夏間先輩は短く告げ、さっさと階段を下って行った。

「……夢向が土のことを、バラしてる?」

 海瀬は神妙に呟く。確かに夏間先輩の現れた時の夢向は、なにやら歯切れ悪そうだったが、それは自分が情報を流したからなのか。

『まあ、平仄は合うね。どうも、実際に願いを叶えようとしているのは、夢向と夏間先輩だけじゃなさそうだから……他にも、流出してる可能性はある』

 ──ここで叶えられるのは、私の願いでもあるから。

 夏間先輩の言葉には、夢向のほか、三人目、四人目の願う者がいるようなニュアンスがあった。夢向の漏洩に触れて、早速試そうと思った人間がいてもおかしくはない。

「とにかく夢向に訊いてみないと……、上に逃げたのか」

 海瀬は階段へと近づくと、屋上へと伸びる階段を見上げた。普段は看板とチェーンで塞がれているところ、今はなくなっている。夢向がどかしたのだろう。

 海瀬は階段を上り、踊り場で振り返った眉をひそめる。

「あれ……もう一階あるな」

 上りきると、直下の階と同じレイアウトのフロアがあった。階段は更に上へと続いている。もう一度上ると、また同じフロア。もう一度上る、同じフロア。

 都合三階分上ったところに、夢向はいた。

「か、海瀬ぇ……!」

 廊下の隅っこで体育座りしていたところを、海瀬を見つけるや、帰宅した飼い主を迎える犬ころのように立ち上がり、泣きそうな顔で駆け寄ってきた。

「い、生きてる……良かったぁ……」

「あぁ、なんとか……」

 弱気な姿にすっかり毒気を抜かれてしまった海瀬は、肝心のことを聞き出すのに夢向の気分が落ち着くのを待たなくてはならなかった。

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