第二章 八時五十五分、校長の変 #1
翌日、海瀬は平気な顔をして学校に登校しなくてはならなかった。体調不良を理由に休むことはできたが、そうすると心配した母親が家に常駐し、その手前ではゆうこに会うための外出がしにくくなる。
ゆうこは忙しい人らしく、指定された約束を逃すと、次はいつ会えるかわからない。だから、今日は何としてでも学校に来なくてはならなかった。
「よっ」
土が胃の中にあるせいで夕食も朝食も喉を通らず、最悪の気分で歩く海瀬に、頭上から声がかかった。見上げると、自転車に立ち乗りをした直井だった。ゆうこのことを考えていたので、別にやましいことはないのにかなりドキッとした。
「お、おう……あれ、朝練は」
直井はバスケ部だ。海瀬とよくつるむのは、ゲームの趣味が合うこともあって、直井的にかなり話しやすくて楽な相手だかららしい。
「毎日はねえよ。もうすぐ中間でテスト期間だし。ってか、なんかダルそうだな、オールでApexでもしてたか?」
「落ちてるもん食った」
「ええっ、犬かよ」
犬も土は食わない。犬以下だった。
そのまま、いつも通りの雑談をしながら通学路を往き、校門を抜け、下り坂を下っていると、直井があることに気がつく。
「あれ、今日夢向いないんだな」
恋人の友人の妹ということもあるし、それ以上に毎朝遭遇するので、直井の人物ノートには既に夢向の顔と名前はセットで刷り込まれていた。
何とも思っていなかった海瀬だったが、まあ、それはそうか、と納得する。目的を果たした彼女が海瀬に関わる意味はもう、あんまりなかった。
「あいつは死んだ」
「死んだのか。っていうか海瀬、何であんなに付きまとわれてたんだ」
夢向は馬鹿だが狡猾で、自分が何故海瀬に執着するか、少なくとも自分と海瀬の知り合いには悟られないよう立ち回っていた。お陰様で「誰かが願いを叶えた」という噂の当事者が、隣で青白い顔をしている奴だと、直井は知る由もない。
「願いの叶え方教えろって」
「へえ、それで教えたの」
「うん」
「馬鹿だな」
海瀬があっさりと真実を告げると、直井は笑った。興味のない生徒にとっては、ことこの噂に関する限り、事実でも冗談にしか聞こえなくなるのだ。
直井がどう邪推したのかわからないが、それ以上の言及はなかった。自転車置き場まで付き合って、教室へと向かう。
よお、とか、おはよう、とか、言ったり言わなかったりして、今日もクラスになんとなく馴染んでいく。
ただ、海瀬はいつも通りというわけにはいかなかった。昨日の夢向の陰謀のせいで、笹原のことを変に意識してしまっていた。
笹原は既に枕を机に広げ大爆睡している。その様子を他の女子から撮られて「かわいー」とちやほやされていた。本人はそんなこと知らない。知れば最後、視線に怯えて一日突っ張りっぱなし、やがて重なった疲労で倒れ担架で保健室へ運び込まれる日常が待っている。
「今日は朝から寝てるな」
海瀬の視線から目敏く察したのか、直井がそう言ってきた。海瀬は頷きつつ、
「あぁ。でも、なんか……」
何やら言いよどんだ。直井は不思議そうに海瀬を見る。
「なんか?」
「海瀬ー!」
ふいに女子の声が二人の会話を引き裂く。そんなフレンドリーに自分を呼ぶクラスメイトがいたかと訝りながら顔を上げると、なんと夢向だった。教室の入口から身を乗り出している。
「死んだんじゃなかったのか」
直井が反応する。海瀬は溜息を吐いた。
「蘇った」
夢向は漫符みたいなニコニコ顔をしていた。ごく近い将来イケメンのルクセンブルク出身のIT社長が、土地の権利書とピンク色の婚姻届けを持ってランボルギーニで迎えに来る妄想をしていなければ、こんなだらしない顔にはならない。
「何か用」
海瀬の憮然とした様子も気にならないのか、夢向はあははと笑って、
「そういえば忘れてたんだけど、連絡先交換しよーよ」
一世代前のiPhoneを突きつけてきた。当たり前のように画面が割れているし、ホーム画面はアプリのアイコンでとっ散らかっている。
「え、ああ……」
海瀬の反応はというと変に歯切れが悪かった。何か意表を突かれたような様子に、夢向は口を尖らせる。
「なに、その反応。私のこれからの躍進を考えたら、すげえコネになるのに!」
「あ、あぁ……そうかもな」
海瀬は自分のスマホを出して素直に応じた。夢向相手に意外に思えるが、何かに焦ってそれどころではないようだった。とっととこのくだりを終わらせたいような。
そうして、LINEのアカウントを伝え、一応の友達となった、その時。
八時五十分。それが始まった。
──和籠高校生徒のみなさん、おはようございます。生徒会長の加成です。
突然の学内放送に、誰もがスピーカーの方へ目を向けた。「会長?」と夢向が首を傾げる。
生徒総会は役員選挙がひと月前の九月に済んでおり、新会長
──今日は生徒のみなさんに、考えて、決めて頂きたい議題があります。今後、より良い学内環境を実現するにあたって、校長先生が
夢向は眉をひそめて、
「え? そんなこと生徒で決めて良いの? 校長先生を辞めさせるとかいう話?」
「それは流石に……改善のための意見を募る、とかじゃないのか」
海瀬の言が妥当なところだろうが、違和感は拭えない。新生徒会はほぼ信任投票で決まったような大人しい面々だ。着任一か月でここまで大それた行動をする気配はなかった。
会長は校長の問題点を淡々と述べていった。
昭和の旧い習慣、旧い価値観を持ち越し、業務と精神性に無駄が多い。例えば先の夏、熱中症の啓発に不熱心であり、過度に恐れるのは、昨今の生徒が脆弱だからだと言わんばかりの態度を示していたこと。不登校は生徒の気持ちのせいでしかないと、笑いながら述べていたこと。ゲーム脳の存在を頑なに信じていること。自分が若い頃はみんなもっと意欲にあふれていた、などとしきりに言うこと。パソコン業務では真心が籠らないと真顔で言い、未だ学校の運営には手書き業務で溢れていること。
──われわれは、宮島校長先生の罷免が先生方の心理状況の改善に繋がり、結果として、生徒たちも良質な教育を得ることができると考えました。
思い詰めたふうでもない、事務的な口調で生徒会長は告げる。校長の批判を堂々と行ってみせるくそ度胸に、海瀬は呆然としていた。
そして、こんな過激な演説を聞きながら、どよめきもしないクラスを見て、一層の不気味さを感じる。誰もが遠い国のニュースでも聞いているような表情、何を考えているのか一切読めない。
「校長って、そんな奴だったんだ」
夢向の台詞が暢気に聞こえるほど、異様な雰囲気だった。
──以上の話を踏まえ、生徒の皆さんに判断を仰ぎます。宮島先生の校長継続を承認するか、否認するか、決めましょう。
会長はそこで一旦間を置くと、やはり単調な物言いでその演説を締めた。
──最も原始的な方法で。
「最も原始的な方法……」
海瀬が頭の中で呟いた。ピンと来そうでピンと来ない、抽象的な言葉遣いだ。
原始的ということは、知能のない獣でも使える方法ということ。言葉を選ばなければ、もっと的確に表現できる。
『戦って勝った方の意見を取り入れるってことでしょ』
「戦う……って、何言ってんだよ……」
唐突にも唐突、それこそ次元を隔てた電子空間でしか実現しないような単語に、海瀬は口の端を引きつらせ──その直後、信じられない光景を目にすることになる。
クラスメイトたちが、文字通り臨戦態勢に入っていた。
机の中から、ロッカーの中から、鞄の中から懐から本棚からゴミ箱の中から床下から天井からチョーク入れから、各々が思い思いの武器を取り出していた。
武器とは何か。戦うための何かである。
剣とか、ハンマーとか、こん棒とか、拳銃とか、対象を破壊するための道具。
映画とかゲームでよく耳にする、金属の滑らかに擦れる音が、風に煽られた木の葉のさざめきのように海瀬と夢向の周囲を包んだ。
「え、な、な何これ」
武器々々の威容にあてられて、夢向は顔を青くして声を震わせる。その動揺を目にして、海瀬はいくらか落ち着きを取り戻した。自分より慌てている人を見ると、却って落ち着くもので、絶対におかしい、と思える余裕ができた。
「夢向、昨日何を願ったんだ」
「え? 何で今そんなこと!」
「今だからだよ!」
「え、ええ、あ、そういうこと」
泣きそうな顔になりかけた夢向だったが、ギリギリのところで海瀬の意図を察したらしい。
要するに、夢向がこうなることを望んだから、モロクロ石が願いを叶えたのではないかということである。そうでなければ、全校生徒が得物を所持しているだけの、ただの反社会的なやばい学校ということになる。皮肉な話、前者の方がよっぽど現実的なのだ。
夢向は首をぶんぶんと横に振った。
「こんなこと願ってないよ! 欲しいのは、ちょ、ちょっとばかしの豊かさだけ! 戦いなんて、考えもしなかったよ!」
「そうだよな……」
本当にちょっとばかしなのかどうかはともかく、深層的にも夢向がこういう趣向を望んでいるとは考えにくい。もちろん、海瀬もそうだ。
そのままどうしようもなく、放送の続きが流れ始める。
──宮島校長先生について、生徒による審議を行います。
声が女子のものに変わった。生徒会会計の
──ルールを説明します。宮島先生の継続を希望する生徒は、宮島先生を守ってください。宮島先生の罷免を希望する生徒は、宮島先生を倒してください。審議は、それ以上の審議の必要性がなくなるまで続きます。
「校長を倒す?」
海瀬は慄いたようだが、少し引いたところから見ている分には、原始的過ぎて失笑もいいところだ。端的に、気に入らないものはぶちのめせ、嫌なら守れ、というわけで、ルール説明などという丁寧な手続きとのギャップがひどい。
──それでは、八時五十五分、始業のチャイムを合図に始めます。準備してください。
「や、やばいよ、海瀬」
夢向が唾を飛ばす勢いで言った。
「私たち、武器がないよ!」
「え、そこか? まあ、そこか……」
状況は全く以って意味不明だが、どっちにしろなんとかやっていかなければならない。
少し躊躇った後、海瀬は教室に入っていき、机に腰掛ける直井に訊ねた。
「なあ、武器ってみんな、どっから手に入れたんだ?」
「え? 海瀬だって持ってるだろ」
直井は本気でわけがわからない、という風に答えた。ちなみに、彼はごてごてにアタッチメントのついたばかでかいライフルを持っている。12.7mm弾を使うアンチマテリアルライフル。携え方も妙に様になっていた。ハワイで習ったのかも知れない。
「あ、そ、そうだったな」
海瀬はとりあえず話を合わせておいてから、自分の身体を見回してみた。確かに、自分の得物らしいものが腰にかかっていた。両手でその柄を握り、引き抜いてみると、白銀の刀身が照り返してきた。太刀だった。
「なんだこれ……」
『すご。保険かかってそう』
夢向のもとに戻ると、夢向は何故かぶすっとした顔で黒い傘を差していた。海瀬は呆気に取られながら訊ねる。
「……何で傘差してんだ」
「なんか、これ持ってたんだけど……」
「キングスマン的な奴なんじゃないのか?」
「キングスマン?」
開いて盾として使えたり、先っちょから発砲したり、要するに、スパイ道具みたいなトリッキーな武装なんじゃないかということだ。夢向は言われて調べてみたが、本当に何の変哲もない折り畳み傘だった。
その残酷な事実に、夢向は傘を握り締め、下を向いてめそめそし出した。
「こんなのひどいよ……、何だかんだみんな格好いいの持ってるのにさ、私だけ日用品じゃん……海瀬、いざって時は私のこと守ってよ!」
「あ、あぁ……」
あまりにも不憫だったので、空気に流されて海瀬が頷いてしまった、その時。
放送の声が指示していた八時五十五分の始業のチャイムが鳴り響いた。
「校長殺すぞ!」
「殺っぞ!」
「いつも話長ぇんだよ!」
瞬間、身も蓋もない怒号と共に、生徒たちがあらゆる教室から飛び出して来た。海瀬が慌てて身を引くと、直前まで立っていた場所を蹂躙するように生徒の群れが走っていく。二階なのに、教室の窓から果敢に飛び出していく者もあった。
「か、海瀬ぇぇ!」
悲鳴が聞こえて走る生徒の群れを見ると、夢向が溺れるように両手を挙げて、人波に押し流されそうになっていた。
「くそ……まごまご突っ立ってるわけにはいかないか」
海瀬はヌーの大群みたいに容赦のない生徒の合間を抜け、夢向へと近づいた。夢向は青い顔をしていたが、海瀬が隣に来たことで安堵の色を見せる。
「な、何これ……みんな殺気立ってる!」
「とにかく逃げるぞ。巻き込まれる」
二人が混乱している間にも、状況は最終回目前の連載漫画のような急ピッチで進んでいく。
「校長室誰もいないってよ!」
「職員室もおらん!」
「どこいんだよ」
「生徒会は? 何してんの?」
辺りの生徒が口々に言い立てる。信じられないくらい、みな校長にぞっこんだった。
「駐車場! 駐車場だって! 車乗ってる!」
キンキン響く女子の声が、大音量で校長の居場所を告げた。どれくらいの大音量かと言うと、窓からピキリと嫌な音がするくらい。
あまりのやかましさに驚いた海瀬がそちらの方を見ると、くそでかい拡声器を持った女子が体育館の屋根にいた。人の恋愛事情を嗅ぎまわって、喧伝するのが好きそうな手合いだった。
「校長、車に乗って逃げようとしてるのか……」
「だろうね」
賢明と言うか、あんな放送があって、のんびり部屋で刺客を待つ人間はいない。
とか頷き合っていたら、巨大拡声器の女子生徒が続いて叫んだ。
「今来たところらしい! 今、駐車スペース探してる!」
「──は?」
本気なのか本気でないのか、その落差に海瀬は膝から崩れ落ちそうになる。
拡声女子はその情報に後押しされてか、声音に感情が混じり始めた。
「こんな日に遅刻してくるとか、大したもんだね! そういうところやっぱりクソ! やっぱりあんな校長ぶっ殺し──」
ふいに、パチ、と音が鳴って、大音量の声が途切れた。
窓の外を見ると、拡声女子が人形のように錐揉みしながら、体育館の屋根から落ちていくのが見えた。
「え」
夢向の息を呑む音が、隣でした。
地面に転がった彼女はぴくりとも動かなくなる。海瀬はいつかネットリークで見た、放送事故の映像を思い出した。生放送中の大きなセットが崩壊する事故で、死人も出たというやつだ。
「かかか、海瀬ぇ……ここ、これ」
夢向の声はガチガチに震えていた。海瀬も固唾を呑む。
「どっかから、撃たれたんだ……これ、想像以上にガチだ。マジで、戦う気なんだ……原始的な方法……殺し合い」
あの出来事に対する、周りの他徒たちのリアクションは特にない。自分の立場を表明するために、各々校長の元へ殺到している。
「と、とにかくこの集団から逃げよう……今、まともなのは俺たちだけみたいだ」
海瀬と夢向ははぐれないようにぴったりくっついて、校長に向けて殺到する群衆に流されていく。
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