第一章 願いの叶う場所 #6
海瀬と夢向はモロクロ石の前に辿り着いていた。空を仰げば秋の星座、視線を下ろせば学校の明かりが点々と輝いている。
海瀬は地面の土を手に取って、テンションだだ下がりの夢向に突き出した。
「これを食うんだよ」
海瀬がこの答に辿り着くまでのバックストーリーを知らない夢向は、ガチガチに固まった笑みを浮かべ両手をNOの格好で差し出す。
「……いや、それは嘘だよ」
「そっか。じゃあ、帰るか」
意地悪を言うと夢向はぶるぶる首を横に振り、海瀬から土を受け取ったが、ぼてぼてと手の中に落ちた黒い土の感触に、ひっ、と声を上げる。
「本当に海瀬はこれ、食べたわけ?」
「食べたよ」
「じゃ、じゃあ、もっかい、やろうよ。わ、私一人だけ食べるのはおかしいじゃん。せーので一緒に食べようよ。そしたら、食べるから」
「いや食わんし、夢向が食わなくても俺は全然困らないから、別にいいんだけど」
海瀬のそんなごく普通の言葉に、夢向はぐっと声を詰まらせた。苦渋の表情で土をじっと見つめている。葛藤しているのだ。浅はかなノリで小学生みたいな欲望を追い求め始めたわけではなく、それなりの覚悟と来歴があってここまで来たのか、と海瀬は意外に思う。
「わかった」
やがて、夢向は思い詰めた口調で、言った。
「私、海瀬と一緒に食べるよ」
「さっきの話の流れ覚えてる?」
「やだー! 吐く時は一緒に吐いてくれえ!」
彼女の殊勝さは、三秒しか続かなかった。夢向は駄々をこねて、自分だけがマズい思いをするのを、何としてでも避けようとする。海瀬は当然のように拒否する。このくだりは長いので余談を置くが、土食文化は世界各地に歴として存在し、食用の土を提供するレストランもあるらしい。
「せーので食べてくれなかったら、私、ここから動かないから! 一生!」
夢向のような直情型の持つ最も有力な交渉手段は、パワープレイしかない。それは迫真の懇願であり、自身を人質にとった脅迫だった。
おもちゃ売り場キッズと同レベルの交渉力だが、夢向には実行力も度胸も腐った根性もある。何せ、人生を賭けた大事業らしいのだ。このまま言う通りにして、七年後に白骨化した状態で発見される可能性は十二分にある。海瀬は困った。
──。
『海瀬』
「な、何だよ」
突然、話しかけたものだから、頭の中で済ますことを忘れて、声に出している。
そんなミスも知らないふりをして、具申した。
『食べよう』
「え、お前まで、そんな……」
『それで、全部済むかも知れない』
海瀬は一瞬、静止した。何を言われたのかわからなすぎて、何がわからないのかわからない、という風に。
わからなくてもいい。
ただ言外の何かに、少しでも触れてくれればいい。
海瀬は深く黙り込んだが──一瞬の後には口を開いていた。
「…………そうか、わかった」
海瀬? と夢向は怪訝そうに首を傾げる。海瀬は構わずにしゃがみこみ、夜の闇が流れ込んだような土を一掴みして、立ち上がった。
「食べる。それで済むんだな」
その心変わりを見て、夢向は目を剥く。
「え、ええ、マジで食べるの? 正気か?」
また夢向が拒絶を始めた。また信じられないくらい冗長なやり取りが始まり、つぶさに描写していくと、みんな読むのをやめてしまうのでここでは省く。
「これはチョコ、これはチョコ、これはチョコ、これはチョコ……」
最終的に夢向は目を曇らせて、催眠まがいのトッピングをすることにした。
「カカオ一万パーセントのチョコだ、ただひたすらに身体に良いぞ!」
筋トレ番組の教官のように、海瀬がヤジを飛ばす。いい感じに盛り上がり、なんだかそれらしい雰囲気になってきた。
「チョコ、チョコ、チョコ、チョコ、チョコ、チョコチョコチョコチョコチョコチョコチョコチョコチョコチョコチョコ……チョコって何だ?」
「その手に載ってるやつのことだよ! いくぞ、せーの!」
洗脳的な台詞で弾みをつけ、二人は掌の土を同時にあおった。
カカオ一万パーセントどころではない、正味一億パーセントくらいの負の味覚が、二人の口腔を襲った。後に夢向は、甲子園で負けた野球部の気持ちを知ったと述懐するが、別に敗北校は土を食べない。
呑み込め、呑み込め、と海瀬の脳細胞群がけたたましく叫んだ。
「げぇ────」
夢向がよくない音を出す。目から涙をボドボド落としながらも、リバースしないよう賢明に堪えて、口の中の嵐が済むのを待っていた。味はもちろんのことだが、悪臭と土の粒の舌触りも酷い。
なんとか嚥下して、口を利けるところまで回復するのに五分はかかった。
「ど、どんなもんじゃぁー!」
全て苦痛の去った後、夢向は吼えて、拳を上げた。
「やったー! 勝った! 勝った! これで! か、叶うんだ……わ、私の、願い……」
「お、おいおい」
「う、うぇええん……やったぁ……」
夢向はあまりの嬉しさに泣き出してしまった。金、富、ただそれだけのために、ここまで突っ走れたのなら、その純粋さは却って気持ちが良いものなのかも知れない。
もちろん、海瀬はその喜びに共感はできず、こっそりと渋面になっている。胃の辺りの不快感も原因の一つではあるが、この涙がぬか喜びのために流されたものと知っているからだった。
──例えば、航空力学は空を飛びたいという人間の悲願を叶え、IT技術は遠くの家族の顔を毎日見たいという願いを叶え、最先端の医療技術は、美しい風景を見たいと願う失明した患者に、デバイスによって新たな視力を与える。それぞれの願いは叶えられるだろう。
モロクロ石が願いを実現するのも、基本的にそういうテクノロジーと変わらないが、「目的を達成する」ということでないのには、注意しなければならない。
そもそも、願いを叶える、という表現が誤解の元なのだ。正確を期すなら、こう言わなくてはならないだろう。
モロクロ石は願いに対して「叶え」を与える、と。
そして、その「叶え」を与えられるのは、モロクロ石が願いを理解できた場合のみ。
なんせ、相手は石である。夢向は簡単に一口、金が欲しい、と言うが、まず金という概念が通用するためには気が遠くなるほどの前提が必要になる。つい最近人類が発明した資本主義をベースにした欲望は、ただの石には複雑すぎる。
石が理解するのは、もっともっと単純なことだ。単純すぎて言葉にできない(忘れがちだが、言葉だって死ぬほど高度な技術だ)。心の隅に積もるもの、露のように溜まるものと表現するゆえんだ。
だから、モロクロ石に伝えるためには、文字通りに飲み込んで身体の隅から隅まで知って頂くほかない。
夢向の俗的な欲望が叶うことは決してないし、そもそも、そんなことに「叶う」という語彙は使わない。オチとしては、何も起こらないのが妥当なところだ。
その結果を夢向がどう受け止めるのか、不安でしかなかった。その不安で、土を体内に取り込んだことによる気持ち悪さが増長していく。
その後、人生のグランドクエストを達成したつもりでスーパーウルトラ上機嫌の夢向と共に、海瀬は帰路についた。
その晩、ベッドに横たわっていた海瀬は、朦朧とする意識の中、着信を告げるバイブレーショを聞いた。土くれになったような気分の悪さだったが、海瀬は無理を押してスマホを手に取る。
ゆうこからだった。
「あ、海瀬くん」
「はい……何ですか」
時刻は二十三時に近い、それ以外のことを海瀬は考えられなかった。
「瑳来が土を食べたって大はしゃぎなんだけど。教えたの?」
一瞬誰のことかと思ったが、そういえば夢向の下の名前は瑳来だったな、と思い出す。
「……教えました」
「へぇ、優しくなったね。えらいえらい」
発音がふにゃふにゃだった。海瀬は嫌な気持ちになる。
「……酔ってますか?」
「酔ってない酔ってない……」
結論から言うと酔っていた。どうも、また夢向家に入り浸って遊んでいるらしい。ぎゃーぎゃー騒ぐ夢向瑳来の声が、小さく聞こえた。
感じるはずもない酒臭さを感じて、海瀬はリアルな嘔吐を催した。
「切りますが」
「ちょっと待って! 明日、会おうよ。そこでさ、教えてあげるから」
「何を……」
言いながら、赤錆びたように軋む身体を起こして、枕元に置いておいたペットボトルを手に取り、水を一口に含む。
その冷たさが伝播したかと疑うような確かな声で、ゆうこは言った。
「わたしが海瀬くんの願い、瑳来にチクった理由」
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