第一章 願いの叶う場所 #5

 和籠高校は、校舎郡の建つ窪=低地から敷地外に出る手段はなく、最初に夢向に待ち伏せされたことでお馴染みな丘側(山の手と対比して「外の手」とか言われる)の正門か、グラウンドなどのある山の手側、つまり高地にしかない通用門から出るしかない。

 夜八時、海瀬はその通用門の傍らに立って、夢向を待っていた。

 このくらいになると、学校はもう静まり返っているものと思いきや、強豪吹奏楽部の立てこもる音楽室や、一部の狂的な受験生の残る自習室、そして職員室は、まだ煌々と明かりを灯していた。

「……痣になってる」

 海瀬は、頼りない街灯の光の下で、手首にくっきり残った夢向の手の形を見て、憮然としている。

『夢向が将来有名になったら、剥ぎ取ってメルカリで売れるね』

「何一つとしておぞましくないことがないな」

 数分後、同じく憮然とした様子の夢向が、学校の方から現れて、開口一番愚痴をたれた。

「腕がボルダリングした翌日みたいになってるんだけど」

「痛いのはお互い様みたいだな」

「何のこと……っていうかさ、何でこんな夜中なの?」

「うっかり他人に見られないようにするためだよ」

「ああ、確かに、みんなが願いを叶えちゃったらつまんないもんねえ」

 自分だけがその特権を得ていることが気持ちいいのか、夢向は愉快そうに言った。海瀬は言葉を返す代わりに、疲れたように息を吐く。それから、夢向を促して歩き出した。

 山の手の門から出て歩いていくと山に入る。山路は驚くほど親切に整備され、街灯設備までついているが、これはたるんだ和籠校生に冬の坂道を走らせるために、OB・OGどもが金を積んでやったのだ、という俗説がある。

「酷くない? この坂……」

 海瀬も余裕ではなかったが、夢向はそれよりもヘロヘロだった。アウトドア志向に見えて、あんまり体力はないらしい。

「この学校を選んだ時点で、坂からは逃れられないんだよ」

 やがて、休憩所のある広場に辿り着いた。整えられた道はそこで終わり、その先は土の踏み固められただけの道と落下防止の柵の設けられたハイキングコースである。

「こっちだ」

 そのコースも無視して広場を突っ切り、道なき道を進む。街灯の明かりも届かないので、スマホのライトを灯して転ばないように気をつけながら、湿った土を踏みしめていく。

「何、やっぱり、モロクロ石目指してんだ」

 いい加減、確証を得たらしい夢向が、見透かしたように言った。

 モロクロ石とは、休憩所から少し外れたところにある、名前の通り「黒」以外の表現を許さない、もろに黒い石のことである。誤植されがちだが、モノクロ石ではない。

 あまりの黒さで、地質学界隈では一瞬有名になりかけたが、なんてことない、何の変哲もない玄武岩であることが発覚。また黒さの点ではベンタブラックとかいう頭のおかしい黒さの物質に凌駕され、最近になるとそれすら上回る黒さの塗料も発見され、もう何にも良い所がなくなったというわけで、今では草も木もぼうぼうの場所に朽ちている。

「はあ、あんな研究され尽くされてるところ、他にないよ……私も通り一遍、OMC部の子と試したけどね。何も起こらなかったよ」

 だが、今でも見た目の神秘性に引かれて、あの手この手で様々なこじつけをしたがる手合いがわんさかいる。OMC部については後に詳述するが、要はオカルト部のことである。

 夢向の言葉に、海瀬は振り返った。

「どうせ願いごとをテープで張り付ける、とかだろ」

「それはナメすぎ。ちょっと砕いてお守りに入れたり、流しそうめんやる竹で霊水を流し込みながら祈祷したり、スマホ上に置いて録音した願いごと延々と流したり、他にも色々したからね」

「なんていうか、努力は認めたい」

 そのコメントに憐憫のニュアンスを感じたのだろう、夢向は不満げに言う。

「えー、じゃあ、何が正解なの?」

「そもそも、あの石自体をどうこうするのが間違ってる」



 ──遠回りを覚悟の上で、海瀬の願いの動機から話していこう。

 海瀬が願いごとを叶えようと思ったのは、ゆうこという女が変な唆しをしたせいであるが、直接の切欠は彼女ではない。海瀬の亡くなった父だった。

「一颯は何か、叶えたい願いはある?」

 中学三年生の海瀬が、第一志望の和籠高校に推薦入試で合格した旨を報告した病床で、彼の父はそう問うたという。

 海瀬は、特にない、と答えた。

 もちろんないわけがなく、父の全快を本気で願っていたものの、それを口にするにはあまりにも悲しすぎるステージに達していた。

 父はしんどそうに笑った。

「実はな、俺は、叶えてるんだ。叶えてなかったら、こんな弱い身体、とっくに死んでる。もう少しだけ生かしてくれって、願ったんだ……」

 言外に、そのお陰で海瀬一颯は生まれたのだ、と告げていたのだった。

「何、それ……」

「和籠高校には、どんな願いも叶えられる秘密がある。お前も願い、あるだろ……友達ができなかったら、押し入れのどっか、探ってみな……」

 願いを叶えることについて、父はそれ以上詳しく話さなかった。海瀬も突っ込んで訊ねなかった。突然の話だったし、新たな希望を持つには、あまりにも多くの希望を潰されてきた。

 やがて、海瀬の中学卒業の直後、父は亡くなる。五三歳だった。

 和籠高校に入学した海瀬は、確かに、何でも願いを叶える方法がある、という噂が存在することを知った。その方法を模索するための部活動が、非公認ではあるが存在することも知った。

 海瀬は関わろうと思わなかった。彼らの標榜する『願いを叶える』と、父の語っていた『願いを叶える』ことと、意味合いが違うような気がしたからだ。何か嫌悪感を覚えて、海瀬はしばらくその話題から距離を置く。

 転機が訪れたのは、夏休みだった。ゆうこが大学の友人たちとの旅行に何故か直井を呼び、窮した直井が何故か海瀬を呼んだ。ゆうことちょくちょく顔を合わせていた海瀬は何も考えずにOKしたが、その実態は有り得ないほどの数の寺社仏閣を巡る弾丸旅行で、ほとんどの時間をハイエースの中で過ごすような大変な旅だった。

 で、ゆうこは何故か、海瀬をいたく気に入った。

「海瀬くん……あの学校、マジに願い叶うよ。知ってる?」

 旅館の大浴場の前、浴衣姿のゆうこは言った。彼女が和籠高校のOGであることを知っていた海瀬は驚かなかった。

「はい。ゆうこさんは、何か願いを叶えたんですか」

 逆にゆうこの方が、外国人と思って話しかけたら雅な日本語が返ってきたような、びっくり顔になった。

「うん、叶えたよ。海瀬くんも?」

「いえ、俺はまだ……あの、例えばの話なんですけど、死んだ人を返してって願いも、叶いますか?」

「うーん……死んだ人自身が願ったなら、叶うかもね……」

 遠回しに無理だということだった。それを聞いて、逆に試してやろうという気が起こった。

 実際のところ、海瀬が願いを叶えることから距離を置いていたのは、父を返してくれ、と願ってしまうことを恐れていたからだった。その願いは、父の意志に反しているような気がして……。

「──それなら」

 自分のためにしか願えないというのなら。

 海瀬は決意する。



 父の言った通り押し入れを探ってみたら、その床下から一冊のノートが出てきた。大学時代の研究メモということで、それは手製の和籠地誌だった。

『和籠という土地の繁栄は、その峻険な地理条件から見て相当不合理』

 ノートによると、和籠と同条件の地形と人口を擁する地域は存在しない、戦後から不自然なほどの発展をしてきたことが淡々と綴られている。確かに、和籠高校も狭く高低差のある土地に強引に力業で建てられているし、無茶なルートでJRも通っている……けれども、それが願いを叶えることと、どう関係するのか。

 結局、何度も読み直してみたが、父の残した資料だけでははっきりしなかった。

 翌日、海瀬は、先にもちらっと名前が出た、願いの叶え方の秘密を解明するための学生組織「OMC部」のWebページにアクセスする。OMCとは何の略称かは誰も知らない。部とみんな言うものの、正式には同好会である。

 海瀬の目的は、部員たちの誇る噂話のデータベースだった。そこには、仮に映像化すれば厳選してもゆうに八クールは続けられるほどの濃度と量の、願いの叶った体験談が載っていた。

 海瀬はドライブにアップされたそのデータベースを読んで、そこに載っている願いを叶えた体験談は全てパチである、と断定し、OMC部の面々が聖職者のように試行することは、全て無駄だと判断した。

 例えば、和籠OMCデータベースによると、最古の体験談は一九九〇年代のものである。内容はと言うと、まず願いごとを整えて書き、その文字列をポケベルの対応表を元に数字化し、更にそれをモールス変換して、その通りに石をプールに投げ込むとのこと。モールス信号をどうやってプールで表現するのか曖昧で、未だに試行が続いているのだという。

 海瀬は馬鹿らしさを覚えた。この文章の熱量は、初めて行ったイベントやユニークな店の体験談をブログに長々と書く手合いだ。この体験談が事実なら筆者はプールへの投げ込み方もいらないほど詳しく書くだろう。それがないということは、適当を書いているのである。そう判断して、海瀬は元から関わりのないOMC部と勝手に決裂した。

 次に、そもそも願いごとが叶う、という噂はどこから出たのかを、海瀬は考え始めた。

 OMC部は名簿上では、なんと二四〇人の部員を抱えている。その大半は名前と部費を提供しているだけで、その見返りとして願いの叶え方が発覚した場合には、その方法を伝えるという契約になっているらしい。名前を連ねる大半の生徒は宝くじ感覚で出資しているのだろうが、にしては人数が多い。それだけの関心を集める根拠があるはずだった。

 そこで、海瀬は図書館へ行き和籠市史という分厚い本を紐解いた。

 かつては東海道を外れ、知る人ぞ知る山道のひっそりとした宿場町で……という出だしから、眠気のために血眼になって辿っていったところ、興味深い記述を見つけた。

 太平洋戦争終結時に、和籠周辺の集落は深刻な貧困の状態にあった。敗戦の絶望も相まって、その結果、一時的にある習慣が栄える。必死こいて、中年の男が膝を抱えたような形の黒曜石に、繁栄の願いを捧げる──というものだ。最盛期はここ近辺の住民が狂ったように祈願し、一時はなんと少女の生贄を捧げたとか。オカルトじみているが、きちんと文献の裏付けがあるらしい。血腥い歴史。気が重くなる。

 その後、粛々と和籠が市へと発展していく様子が描かれる。明言こそしていないが、まるでこのお祈りの成果が出たんだね、と言わんばかり。海瀬は家に帰り、また父のノートを開く。

 市史にある黒曜石というのは、モロクロ石しかないだろう。実態は黒すぎるだけの玄武岩なのだが、発覚したのは最近であるから、このズレは許容できる。

 父のノートにもモロクロ石は登場していた。市史を紐解けば必ず現れる要素だから、当然といえば当然だろう。

 大学の夏休みを利用したフィールドワークで、同期と共にモロクロ石を訪れた父は突然体調を崩し、この岩の傍らで昏倒したという。熱中症と言う病気が、それほど膾炙していない時代のことだ。

 ──叶えてなかったら、こんな弱い身体、とっくに死んでる。

 OMC部のデータベースでは、最古の願いの叶ったという体験談は今からだいたい三十年前。これは父の大学生時代と重なる。

 海瀬はすぐにモロクロ石へと向かった。電車に乗り、通学路に果てしなく似た道を往く。

 坂道を上り獣道を抜け、ようやくモロクロ石を目にした時、海瀬はまるでその黒さに与えられるかのように、願いの叶え方を予感した。

「頼む……合っていてくれ……」

 願いというものは──自分の心の内側を露のようにじんわりと湿らせているようなものだ。それを言葉で表現することはできない。

 金が欲しい、名誉が欲しい、安らぎが欲しい、といくら叫んだところで、それは言葉でしかなく、願いではない。本当の願いは言葉にできないし、伝えることもできない。

 けれども、確かにこの身体のどこかにはあるのだ。そして、それを正しく知ってもらうためには、腹でも胸でも頭でも、切り開いてでも見てもらうしかない。

 それか、身体の中に入って頂くしか──。

「俺は……まだ……」

 海瀬は願う。言葉は伴わない。その姿勢は祈りに似ている。

 そのまま疲労困憊でベッドに倒れ込むように、かつて父がそうしたように、海瀬はモロクロ石の傍らに倒れ伏した。

 土埃が舞う。土臭さが鼻を突く。

 そして、願いは託される。


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