第一章 願いの叶う場所 #4
「な──」
逃げないとまずい。
海瀬は一目散に扉の反対側、窓の方へと駆けると、枠に手をかける。だが、ロックがかかっているのか全く動かない。解錠しようとそちらの方に目にやって、目をひん剥いた。
「えぇ……」
窓の固定具がガムテープで雁字搦めにされていた。手をつけてみたが、引くほど徹底的に封印されていてどうしようもない。
「手、止めて。この子を無事で帰したかったらね──」
女悪役の声がする。振り返った海瀬はその光景を前に目を見開き、今まで出したこともないような低い声で言った。
「お前……それは一線超えてるぞ……」
「やっと落ち着いて話せるようになったね、海瀬くん」
夢向はおしるこ紙パックを傾け、今にもその甘すぎる中味を、すやすや眠るエリート睡眠士笹原の顔面にぶちまけようとしているではないか。もし、その魔の手に少しでも力が入れば、安眠は妨げられ、キュートな顔と制服はベタベタになるだろう。かわいそうにもほどがある。
「──何が狙いなんだ」
海瀬は近づいていきながら、威圧的に訊ねた。夢向は何を今更、という風に笑う。
「もちろん、願いの叶え方だよ」
「他人を巻き込んでまで叶えたいのか」
「巻き込みたくなかったら、さっさと吐くんだよ」
海瀬はおしるこを奪い取らんと、夢向と笹原の間に入るようにぱっと手を伸ばした。最悪噴出しても、自分が受け止めればいい、という男らしい判断。
夢向はそんな心理を逆手に取った。
「あらよっと」
想像の十倍楽におしるこは奪えた、が、夢向はその代わりと言わんばかり、海瀬のおしるこを持った右手首をガッと掴んだ上で、思い切り捻り上げた。
「いっでー!」
予想外の痛みに、海瀬は思わず叫んでしまう。
「うるさくして良いのかな? 笹原さん、起きちゃうよ……」
夢向は白々しく言いながら、眠っている笹原のかぶっている布団を引っぺがす。笹原の身体は全身剥き出し、おしるこに対する防御力がゼロになった。
「いででででで! 万力かよ!」
海瀬は悲鳴を上げる。人生を賭けているだけあって、握力に限界突破をかけているらしい。どういう技術を運用しているのか謎だが、男の身体として成長完了しかけている海瀬ですら、身動きをとることができない。
そのまま夢向は、海瀬の右手を笹原の真上に持って行く。追い詰める強者の顔をして、海瀬に語り掛けた。
「ええ、海瀬くん……眠ってる女の子におしるこかけようとするなんて、サイテーだね」
海瀬は夢向の描いたシナリオに、まんまと乗せられていた。第三者が見たら、笹原をおしるこでびちゃびちゃにしようとする海瀬の魔の手と、それを阻止しようと頑張る夢向、という状況にしか見えない。
吉沢養護教諭が帰ってくればアウト。
下手に暴れて笹原が目を覚ましてもアウト。
「最悪過ぎる! お前、最悪なことをしてる自覚ないのか! 人のことを利用するなんてっ!」
「最悪なのは、海瀬くんの方だよ。さっさと降参して、願いの叶え方を教えなよ……さもないと」
夢向の手に青筋がガッと浮かんだ。海瀬の手首が圧搾され、痛みが三倍増しになる。
「グ──ッ」
そして、危うく力がこもり、おしるこパックを握りつぶしそうになる。海瀬は手の神経を世界で一番張り巡らせて、その悲劇を回避せんとする。
「し、しぶといな……」
夢向も余裕ではないのか、顔が少しずつ強張っていく。
両者の力は拮抗していた。海瀬が願いの叶え方を口にすれば、すぐさま夢向は手を離して、この地獄絵図は消滅するだろうが、二人が頑張れば頑張るほど、状況は海瀬の方が不利に傾いていく。
説得は絶対に無理だとすれば、海瀬の突破口はただ一つだけ、この手を笹原から遠ざけさえすれば良い。
人生で最大のパワーを腕に送り込み、海瀬は唸った。
「む、夢向ィィィィィィ!」
「く、海瀬ェェェェェェ!」
夢向も応える。両者は睨み合い、笹原の剥き出しのお顔の上空十センチで、熾烈な変式腕相撲を繰り広げる。腕力は互角、引きつ押しつの本能的な読み合いで、海瀬の手が笹原に触れそうになったりしなかったりする。
やがて、どれだけの時が経ったろうか、お互いの腕が乳酸でパンパンになった頃合い、どちらかという海瀬の方が優勢になりかけた時、廊下の方からパタパタパタと、足音が聞こえてきた。
「吉沢先生が戻ってきた……?」
海瀬がそう思ってしまった瞬間、海瀬の脳裏に、未来のイメージが鮮明に立ち上がってきた。真面目と思われていた生徒の変態的行動、変貌する周囲の視線、それを止めようとした夢向の英雄的行動、どれもこれも誤解という地獄、云々──いや。
何より、海瀬が恐れたのは、自分たちの意地の張り合いに巻き込まれた笹原が傷つくことだった。このままいくと、笹原には「悪戯された生徒」というステータスがついてしまう。それは単に自分が蔑まられるよりも耐えがたい。
まあ、夢向という人間は狡猾だった。こういう形で第三者を巻き込むことによって、海瀬が秘密を守ろうとする個人的な理由を「ワガママ」に押し下げてしまう。
笹原の安眠学校ライフを破壊することと、夢向に秘密を隠し通すことが、どうして釣り合うのだろうか。海瀬にそこまでの大義の準備はない……。
そう気付いてしまった時点で、海瀬の負けは決まっていた。
「…………土、だ」
海瀬が呟く。夢向は油断なく、海瀬を見返す。
「土……?」
「夢向、話す、もう話すから、手を離してくれ。マジでもう誰か来るから」
「……本当に、本当に話す? 適当なこと言ってない?」
「話す、マジで教えるから」
「この会話全部録音してるんだけど、あと、録画もしてるけど、本当に?」
「そんなら、そこまで念を押す必要ないだろ!」
海瀬が完全に敗北していることを確認した夢向は、ゆっくり、にーっと笑みを浮かべると、万歳をして喜んだ。
「やったー! 勝ったー!」
「あっ、」
よりによって、海瀬の手が解放されたのは、夢向の万歳頂点近くだった。唐突に、力の支えを失った海瀬はバランスを崩して、よろめき、咄嗟に手を前に突き出す──。
「わあーあ」
夢向は驚いた声を上げた。
海瀬の目の前には、すやすや眠る笹原の顔。覆いかぶさる格好にはなったものの、両手は笹原に一ミリも触れていない。
「あぶね……」
息を吐くのも束の間、保健室の戸がガチャガチャ、と音を立てた。
「あれ、鍵なんて閉めたっけ」
聞こえてくる吉沢教諭の声。
海瀬はぎょっと顔を上げて、戸の方を見、それから自分の身体の下にある笹原を見下ろす。全身の血の流れが止まったような寒気が、すうっと身体を突き抜けていった。
「え、これ最悪よりも酷い結末なのでは──」
「馬鹿! 隠れろー!」
焦れた夢向が海瀬をどつき、笹原もろともかけ布団を被せた。急激に訪れた暗闇、温もり、柔らかさ、呼吸、緊張に海瀬は目を白黒させる。
「ん……」
笹原が小さい声を漏らし、海瀬は身を竦ませる。幸い、その寝息のリズムが途切れることはなかった。ただ、自分の姿勢がどうなってるのかわからず、身動きがとれない。
しばらくはそれでよかったが、やがて、笹原は安定した姿勢を求めるようにもぞもぞと動いた。どこにあるのかよくわからない手が、一体どこかわからないがとりあえず笹原の身体の一部に触れる。猛烈な熱っぽさが、海瀬の顔面を襲う。
少しして落ち着く位置を見つけたらしい笹原は、じっと動かなくなると、ぽつりと言った。
「全部……夢なら、良いのに」
「……寝言?」
頭の中で、海瀬が訊ねてくる。
『寝言じゃない?』
「……」
海瀬は、その茫漠とした言葉の意味を探るように、黙り込んだ。
──結局のところ、吉沢養護教諭は鍵を持っておらず、保健室に入ってこられなかった。夢向が保健室の鍵を持っていたためだ。
「そういや、パクってたや。自分でやって忘れてた」
てへへ、と夢向は舌を出して、あわやの寸前に海瀬から奪い返したおしるこをガブ飲みした。つまり、海瀬が笹原のベッドにもぐりこんだ意味も、足音に怯えて降伏する意味もまったくなかったことになる。
海瀬は、今生一度もしたことのない、沈痛の面持ちを浮かべて俯いた。
まあ、結果は結果、約束は約束。
「……今日の夜、山の手側の門に来てくれ」
ぐったりとした声音で、言う。もう疲れ果てて、投げやりになっているようだった。
「願いの叶え方、教えてやるよ」
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