第一章 願いの叶う場所 #3

 そんな日常が願いの叶った以前も以後も変わらず、当然のように続くと思いきや、夢向瑳来は翌日も、翌々日も、願いの叶え方を聞き出すべく現れた。通い路に現れるのはもちろん、クラスにやってきて呼び出されるうちに、海瀬はついに渋面を隠さなくなった。

 小骨が喉に刺さったような表情の海瀬に、夢向は小さな声で言う。

「ここは人目につくから山の手の、特課棟裏に……」

「行かないからな」

 小賢しいことに、夢向は願いを叶えることについて大っぴらに口にしない。海瀬の秘密を独占している状態を保っておきたいのだ。ただ、海瀬がそれを逆手に取って相手にしなければ、彼女には手も足もでない。

「くそう……絶対に口割らせるからな……」

 人生を賭けていると公言するだけあって、夢向の執着はすごかった。海瀬の髪の根を分けてでも、願いごとの秘密、つまるところ、この和籠高校という地味な学校が抱える大爆弾の在り処を突き止めようと奔走している。

 いつものように、疲労でずぶぬれ雑巾状態の笹原を連れて保健室の扉を開けた瞬間、仁王立ちする夢向の姿が目に入った時には、海瀬も流石に笹原をほっぽって逃げ出す始末だった。かくれんぼ系ホラーゲームに倣って、空っぽの掃除ロッカーに逃げ込むと、その目の前を夢向が疾走していく。

「海瀬くん! あの日の言葉、嘘だったの!」

「どの日の言葉だよ……やばいって……」

 海瀬は鉄臭いロッカーのドアに頬を押し付け、僅かに開いたスリットから誤解スプリンクラー夢向の背中を震えながら見送った。

『前も言ったけど、もう教えてあげたら? あんなのどうせ叶わない願いなんだし』

「いや……それは嫌だ」

 海瀬は苦々しく言う。どうせ叶わない願い、という根拠については後で説明するし、海瀬がここまで夢向を拒否する理由も後でわかる。

 夢向の気配がすっかり消えた後、保健室に戻ると、笹原はワンパンKOを食らって昏倒する格闘家みたいな、あられもない姿で眠っていた。色々のことを考えて、海瀬は考え得る最大のジェントルネスを駆使して、その寝姿を整えてやったのだった。



 夢向の行動のせいかわからないが、心臓に悪い噂が立っていることを海瀬が知ったのは、放課後の水曜日に取り行われる「ティーチング」という時間でのことだった。

 ティーチングは早い話、先輩が後輩に勉強を教えてやるという、和籠高校独自の試みのことである。パンフレットにも小綺麗な感じで載っている。

 システム的にほぼ断絶している上下世代を繋げるという目的があるらしいが、先輩側は徴用制、後輩側は希望制となっていて既に公平ではないし、本当に勉学が必要な面々は参加しないし、三年の先輩としては「自分の受験に専念したいのに駆り出されて大変」とか「面倒くさい」という意見が過半で、結構嫌われている試みだ。

 海瀬が下級生としてこれに参加するのは、親の塾に行かせようとする圧力に抵抗するため、それから、多分、美人の先輩から英語を教わりたいためである。

「海瀬くんは」

 海瀬は顔を上げる。英語の長文問題を一つ、解き終えたタイミングだった。

 向かいに座る、海瀬の指導を担当している三年生の先輩、夏間千襟なつまちえりが澄んだ表情で海瀬を見ている。

 彼女とは五月にティーチングの場で知り合った。初顔合わせの印象は、目に光なく口数も少ないので、これは相当この制度を嫌がっているな、と海瀬は思ったが、蓋を開ければ実に熱心な教師志望の成績優秀者で、淡々とした物腰から思いやりが伝わってくる、そういう人だった。海瀬はそういう人が好きなのですぐに懐き、夏間先輩夏間先輩と慕っている。

「はい」

 海瀬は返事をする。揺れる前髪の合間から怜悧な瞳が覗かせて、夏間先輩は口を開く。

「願いを叶える方法がある話、知ってる……」

「えっと、知ってますけど」

 海瀬は、自分がその渦中にあることを匂わせないよう、あんまり興味はないけどそういう話もあるもんなんだな、という態度。

 夏間先輩の方は、海瀬のそんな態度をもう一時間冷蔵庫で冷やしたような、熱の一切こもらない表情で言った。

「──あれで、本当に願いを叶えた生徒が出た、って噂になってる。それは……」

「ええ、何ですかそれ……聞いてないですが」

 とか知らんぷりを通す海瀬だが、正味、寝耳に流し素麺な話で呆気に取られる。

 夢向瑳来という、野球場のライト並に眩しく、田舎道の救急車並みにうるさい奴が走り回っていて、噂が立たないわけがないだろうが、海瀬の周辺では耳にしないし、仔細を問われたこともない。「叶えた誰か」の話が出回っているとは思いもよらなかった。

「そう」

 夏間先輩は別に落胆だとかの色を見せなかった。

「気になるんですか」

 海瀬は素直に訊いてしまう。夏間先輩が願いにがっつく姿は想像つかなかった。

 夏間先輩は、そんな海瀬をじっと見つめて、

「気になる。三年はみんな浮足立ってるから」

「あー……なるほど」

 夏休みも明けて、進路を固める時期だ。進みたい将来とか夢だとかは、願いのバリエーションとも言えるから、意識するのは自然なのかも知れない。

「夏間先輩も何か叶えたいことがあるんですか」

 海瀬は重ねて質問する。何気ない雑談、頭は次に解く問題の方に向かいかけている。

 夏間先輩は目を瞬かせ、それから眠たそうに伏せて、言った。

「あるよ」

「え……それは」

「教えない」

 でしょうね、と海瀬は心の中で肩を落とす。自分だって教えない。

 ただ、夏間先輩のような人物が、どういう願いをするのか気になった。

 彼女が某日本最高学府大学を一般入試で狙っていることを海瀬は知っている。勉強も部活の水泳もずば抜けた成績を叩き出し、前期生徒会員の裏方として各種の手回しを卒なくこなし、その評価だけでも名の知れた進学先を推薦で手にすることができたというのに。

 その挑戦とも言うべき決断を驚く海瀬に、夏間先輩はつまらなそうに告げたものだった。

 ──できるからやる。それだけ。

 気概も熱もない。それで教師志望というのだから、その心理はもうわからない。

 窓の外では、学内の標高の高い方、山の手では運動部が声を張り上げていた。夏間先輩はそれを玲瓏な瞳で見ている。こんな眼をする人がどんなことを願うのか、と考え始めたら、宇宙の果てのことを思い巡らせるのとそう大して変わらない。

 ただ、金が欲しい! と喚く、あんまりにもわかりやすい奴と比べれば、絶対にこっちの方が良いと海瀬は思いつつ、チラついた夢向の顔にげんなりする。



 夢向瑳来から願いの成就を巡ってしつこくつきまとわれ始めて、一週間ほどが過ぎたある放課後。

 保健室のベッドで笹原ひのが眠っている。寝方は横向き、かけ布団をあご元までかぶり、背を丸めてマイ枕を抱きしめていた。

 海瀬は代わりに持っていた笹原の鞄をその傍らに下ろして、その寝姿をぼーっと見ていた。今日は五時限目と六時限目の間にフェードアウトしたため、置き去りだった笹原の荷物を持ってきてやったのである。体育がなかったのもあるが、随分と頑張った方だ。

「海瀬くん、海瀬くん」

 荷物だけ届けてさっさと帰ろうと思っていた矢先、最近結婚式に呼ぶ人の厳格な選考を開始したという養護教諭の吉沢が声をかけてきた。

「ちょっと呼ばれちゃったから、職員室行ってくるね、その間、留守よろしく」

「え、俺何もできないですよ……」

「誰か来たら吉沢いないから戻ってくるまで待ってて、って言って待たせておいて」

 そう告げて、吉沢先生は保健室を出て行った。部屋に残されたのは、熟睡する笹原と海瀬だけ。

 何とも怪しいシチュエーションだが、海瀬はというと、ドライな表情で笹原の睡眠導入用の本を勝手に開くなどしている。神谷美恵子の『生きがいについて』。施設で過ごさざるを得ないような難病の人でも、生きがいを見出せばよく生きていくことができる。何が生きる支えになるか、それはそれぞれの探求にかかっている。そういう随想。

「……」

 海瀬には思うところがあるようで、少し読み込んでから、やおらぱたんと閉じて元通りの位置に戻した。

「……なんか今日、保健室が狭い気がする」

 それから、室内をざっと見渡して、そんなことを思う。

『パーテーションの置き方が変わってるね。健康診断の時みたいに』

「健康診断見たことあるのかよ」

『ない。想像』

 ちなみに、この高校の健康診断は校舎の三階、空き教室群を使って行われる。保健室を使うのは、当日休んだ生徒だけである。

 相変わらず手持無沙汰な海瀬は、近くの机に指を置いてピアノを弾くフリをし始めた。

『フーガト短調?』

「何でだよ……ジムノペディ、よく眠れるように」

 海瀬は少しピアノが弾ける。中村田もといDTMからは離れたが、空いた時間に弾くくらいのことはしていた。慰めるように。

『海瀬的にはどうなの。もう曲、作りたくないの』

 訊ねてみると、海瀬の指の運びが鈍くなった。それから、やや間を空けて、

「……今はあんまり考えられない」

『考えられるようにはなりたくないの』

「それは……」

 海瀬が何か言いかけたちょうどその時、生徒が誰か入ってきたので海瀬は慌ててそっちの方へ声をかけた。

「あ、スミマセン、いま吉沢先生いないから──」

 言いつけを律儀に守ろうとした海瀬の顔面が、げ、の形で固定される。

「知ってるよ」

 そいつは海瀬に背中を向けて扉を閉めると、しっかりと施錠する。戸は内外どちらからでも解錠できるが、いずれにしても鍵が必須なタイプのものだった。海瀬の頭は、何か知らないうちに追いつめられているらしい……と他人事みたいに見ていることしかできない。

 そして、夢向瑳来は振り向き、言った。

「吉沢先生を呼び出したのは私だからね」

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