第一章 願いの叶う場所 #2

「ゆうこさん、ベロベロに酔っ払ったって」

 昼休みになって、クラスメイトにして友人、件のゆうこさんの恋人であるところの直井昂なかいこうに、海瀬は例の件について裏付けを試みてしまった。

 バスケ部にしてはおっとり顔の直井は、弁当のさつま揚げをピックしながら、あぁ、と事も無げに答えた。

「そうなんだよ。友達の家に泊まりに行って、そこでやらかしたらしくてさ。今朝、二日酔いが酷いってんで、俺がタクシーで迎えに行ってさ」

「迎えに……」

「あいつの部屋に連れて帰って、そのまま学校来た」

 直井少年は、一息に言い切るとヨーグルッペをゴクゴク飲んだ。慣れた口ぶりからして、そう珍しいことでもないらしい。カフェの雰囲気を擬人化したようなゆうこさんだが、ファンキーなところも過分にあるようだ。

「って、なんでそれ海瀬が知ってんの」

「その、泊まり先の友達の妹から聞いた」

 直井の反問に、海瀬は正直に答えた。直井は整えた眉をひそめる。

「夢向さんて妹いんの? ってか、人間関係どうなってんだ」

「俺もよくわからなくなってる。ウィスキーとウーロン茶間違えたって聞いたたけど、そんな間違えるようなもんなのか」

「よく話聞いてるな。うーん、まあ酔いが回ってぶっ飛びそうなところで、パッとウーロン茶ッスって、差し出されたら間違えるかも知れない」

「ほらウーロン茶!」と言って、ゆうこにウィスキーのグラスを差し出す夢向の姿が簡単に浮かんで、海瀬はげんなりしていた。

 それから、ウィスキーはどんな味がするのか、というところから、会話は雑に転がっていった。こっそり飲んだ酒の味、飲み物がビンとペットボトルで分けて売られる理由、チャージアックスの立ち回りの変遷について、キョダイマックスラプラスの考察、どうぶつの森の住民は結局誰が最強なのか、ゲームとエナドリのシナジーについて、最近見た面白いVtuberの配信、云々。

 やがて、話の節目に海瀬は席を立って、食べ終わったメロンパンの空袋をゴミ箱に捨てがてら、そのまま教室を出てトイレに向かった。小便器の前に立ってタイルの隙間を凝視していると、同じく右に誰かの立つ気配。

 何の気もなく海瀬はそちらを見やって、その人物と目が合った。

「あ……」

「……海瀬」

 縁の太いメガネをかけ、髪をワックスでゴリゴリに固めたその男子生徒──中村田竜郎なかむらたたつろうの顔を見て、見なけりゃ良かった、と海瀬は後悔した。中村田はどういう感情なのか、仏頂面をタイルの隙間に向ける。気まずい雰囲気がトイレに充満し、ちょぼぼぼ……と水の音も控えめな気がした。

 ほどなくして、中村田が低い声音で言った。

「……いつまで真面目にお勉強してるつもりだ」

「ああ、いや、ツイッターの大人はいまのうちにしとけって言うし……」

 先に用を終わらせた海瀬は、ほにゃほにゃそんなことを言いながら、手を濯ぎに行く。中村田はそんな海瀬にぴったりとついてきて、見てくれだけは仲良く手を洗いながら、イラついた様子で言う。

「そうじゃねえよ、お前、いつD研に戻ってくんだよ」

「そ、それは……」

 海瀬はギクリとして、模範解答を探すように視線を彷徨わせる。

 D研とは、ちょっと前に一瞬だけ話題に出したDTM研究会のことである。DTMとはざっくりパソコンで音楽を製作すること。

「俺に新曲、聞かせてくれよ……絶対、お前は大物になれるって! 何度もこうして言ってるじゃねえか!」

 中村田は唾を飛ばして力説した。ここでプチ過去編といこう。

 海瀬と中村田は同じ中学の出身で、一緒に弱小吹奏楽部に所属していた。

 弱小ゆえの緩さに乗じて、音源視聴用に部で所有していたパソコンに海瀬の親が持っていた作曲ソフトをぶっこみ、流行りの曲だとか、ゲームのBGMを打ち込んで好き勝手遊び始めたのが、彼らの関係の始まりだった。

 やがて、二人は好きな曲をコピーして培った技術で、競うようにオリジナルの曲を作るようになる。海瀬の母親がアマチュアとはいえ音楽畑の人間だったので、幸い機材や音源には困らなかった。

 そんな彼らがこの高校のDTM研究会に入るのは順当だったが、先述の通り、海瀬は瞬く間に幽霊部員となった。音楽に触れることもめっきり減り、そこそこ真面目に勉強してゲームとマンガで日々を送る一般的なインドア男子高校生になった。

 D研に残った中村田との交流は、自然、激減する──はずだったが、あれほど熱中していたDTMから、理由も言わず離れていった海瀬に対して、中村田は見かけるたび突っかかってくる。海瀬はほにゃほにゃかわす、というよくわからない関係性になった。

 中村田はまだ作曲を続けているはずだ。有名なアーケード音ゲーの公募締め切りがもうすぐだから、それに向けて制作に熱を上げているだろう。自分が辞めてしまったものを頑張っている相手に、どう応えればいいか。

「まずったなあ……」

 海瀬は窮していた。無論、わけはある。簡単には戻れない。しかし、この微妙な距離感の相手に話せる自信がなかった。中村田は手を拭きながら、何か言えよ、と視線で威圧してくる。

 と、その手に包帯が巻かれているのを見て、海瀬はすかさず口を開いた。

「って、その手、どうしたんだよ、ケガでもしたのか」

 中村田は何故かぎょっとしたように自分の手を見ると、さっと背中に隠した。

「手? これは……ボクシング始めたんだよ」

「ボクシングて……なんかお前、どんどん陽キャ化してない?」

 海瀬は素朴に言う。どうも中村田は中学の頃は、見た目も言動ももっと大人しい奴だったらしい。

 そして、その一言が、何故かいまの高校デビュー中村田に刺さったらしい。

「だ、誰のせいだと……クソ!」

 捨て台詞よろしく言い捨てると、中村田はトイレから立ち去った。

「え、俺のせい……?」

 海瀬は呻くように言う。海瀬がD研に顔を出さないと、どんどん中村田の光度が高くなっていくらしい。風が吹いて桶屋が儲かる以上に、意味が分からなかった。そんな言われた程度で、すたこら退散するのも。

 気疲れして教室に戻ってきた海瀬を見て、直井は訝しげな顔をした。

「どうしたん」

「知り合いがどんどん陽キャになってて」

「あぁ、それで面倒なノリで絡まれたのか」

「いや、ノリは据え置きなんだけど……」

「うーん……気圧差か?」

 とか、話がまた奔放に転がり始めようとした、その時。

「──海瀬」

 ふと、ちまっこい声がかけられた。男二人してそちらを見ると、二つ結びの小柄な女子が、こちらは海瀬以上に悄然とした様子で立っていた。

笹原ささはらか、どうした」

「……保健室いく」

「お、わかった。今日は誰と話した」

 海瀬の問いに、笹原ひのは少し言いにくそうに黙ってから、

枚方ひらかた先生」

「先生か。珍しい」

「筆箱落したら拾ってくれた……それで……ちょっと、話した」

 笹原は、出会い頭にめちゃくちゃ怒られた、みたいなテンションで、日常の小さな小さなあたたかエピソードを言った。あぁ、と海瀬は同情的な反応をする。

「それで疲れちゃったのか」

「それで疲れちゃった」

「それで疲れちゃうよなあ」

 海瀬は直井とひとしきり頷き合って、「じゃあ、行くか」と席を立った。笹原は風見鶏が弱い風に吹かれたように、ゆっくりふらふら身体の向きを変えると、頼りない足取りで海瀬についていく。

 笹原ひのは海瀬とクラスがずっと一緒の女子で、その縁は幼稚園から数えると実に十三年目になる。もっとも、その年月の分だけ親しいかと言えばそうでもなく、高校でも同じクラスになるなんて、という驚きを端緒に、最近ようやく話し始めたというような関係である。

 海瀬は笹原について、ずっと大人しくて体調を崩しがちな女子だという印象を抱いていたが、実態は、ただ超人的な眠さを常に抱えているだけなのだと判明した。

 睡眠少女なのだった。

 とにかく眠りたい、眠らなければならない、眠り続けるためにはイケメン王子の口付けをも拒絶するような手合いだ。今も笹原が提げているぱんぱんに膨らんだ鞄の中には、睡眠導入用のアホになるほど難しい哲学やらの本と、安眠サプリ、そしてテンピュールのマイ枕が詰められている。

「人はどうして話さなくちゃいけないんだろ……」

 そういう習慣のせいか、本来の気質のせいか、笹原はそんなことを呟く。

「人間向いてない……永遠に眠っていたい……」

 視線を床に、うなじを天に向け、まるで飼い主に叱られた犬である。

「何話したんだ」

「最近どうとか……元気が出る食べ物の話とか……」

 枚方何某という教師の、ふくよかで豊かな、ベイマックスみたいな体格が思い起こされる。

「先生は気を使って話しかけてくれたから、こっちもそれに応えなきゃって思って、でもそうやってこっちが気張ってることがバレたらまた気を使わせちゃうから、なんとか平気な感じで話そうとするけど、なんか楽しい会話にならなくて……うーん」

 笹原は枕の入った鞄を顔に押し付けた。笹原にとって、人が世にはびこる限り、この世界は眠っているべき理由に溢れている。海瀬とはそれなりに話せているのも、ほぼ未知な顔ぶれの同級生の中で、相対的に見慣れた顔であったからに過ぎないのだろう。

「まぁ……人それぞれだからさ」

 海瀬が通りすがりのA棟の廊下を覗くと、ふざける生徒をバカヤロウと笑う教師の姿があった。あれを普通と見なすのはハードルが高すぎると思うが、それでも人として豊かであるように見える。

「人間向いてない……」

 笹原は人間であることを忘れるために、眠りに行く。

 A棟を抜けて渡り廊下を進むと、職員室だとか放送室だとか視聴覚室の詰め込まれた、機能棟と呼ばれる七階建ての建物があって、そこの一階部分が保健室になっている。

「こんちは、また笹原さんが気分が悪いそうです」

 海瀬は戸を開けながら、すっかり言い慣れた定型文を保健室の先生に告げた。海瀬が付き合うのは、ほとんどこのやり取りを代行するためである。

 最近、プロポーズを受けたという養護教諭の吉沢よしざわ先生は、笹原の顔色を見て、あら笹ちゃん、今日は本当に風邪ひいてるみたい、と、驚きの声をあげた。眠気MAXの笹原はインフルエンザに罹ったと言っても信じるほどに、顔色が悪くなる。

「ベッド空いてるから、どうぞ」

 あっさりと許可が出て、笹原は「すいません」と小さく口にした。それから、ちらりと海瀬の顔を見上げて、わずかにぺこっと頭を下げる。やはり、付き合ってもらっている海瀬にも、結構な後ろめたさを感じているらしい。

「全然大丈夫だから。ゆっくりおやすみ」

「うん……」

 気にしてない旨を伝えてみたものの、このやり取りのせいで、また却って気を使わせたようだった。

「難儀だな」

『難儀だなあ』

 教室に早歩きで戻る海瀬の思考を、そのまんまリフレインしておく。

 難儀だなあ、と思ってしまうこと、それ自体もまた願いの言い換えに過ぎないのかも知れない。

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