第一章 願いの叶う場所 #1

 さて、海瀬が自分の願いを叶えた結果、顕れた頭の中の声と、一晩かけて親睦を深めている間に、とんでもなく面倒くさい事態が進行していた。

 昨日、心療内科を受診するために午前中で早退していた彼だったが、翌朝は何でもない顔をして学校へ登校した。

 海瀬の通う和籠わろう高校は、その土地の名を何の捻りもなく冠した公立高校で、最寄り駅であるJR和籠駅から早歩きで徒歩十五分のところにある。和籠市自体が平野の末端に位置し、起伏の激しい土地なだけあって、四メートルほどの高低差のがあるのが特色だ。

 学内限定の超ローカル用語で、東側の四メートル低い側が『窪』、西側の高い側が『山の手』と呼ばれており、『窪』には教室や特別教室の入った校舎群が、『山の手』にはグラウンドやプールといった運動設備が設けられている。体育会系に見下されるこの地形を、文化部の部員が社会の縮図と勝手に解釈して、恨み言を言い合っているのはおなじみの光景だ。

 正門は、山の手とは窪を挟んで反対側、こちらは緩やかな斜面の頂点にあり、門をくぐって約三十メートルは緩やかな下り坂になっている。遅刻ギリギリで走る生徒にとってはここが最大の加速ポイントとなっており、限界を超えた速力を出してしまうせいで脚を痛めて保健室登校する者もいたりするらしい。

 そんな幅広の道を、時間に余裕を持ってぼてぼて歩いていた海瀬の目の前に、立ちふさがる人影があった。

 朝日の無駄に爽やかな光の照り返す長い髪に、少し窮屈なところのあるらしい冬服ブレザーを、ぱっと見バレない程度に着崩したその女子生徒は、人懐こい表情に精一杯の隙のなさを詰め込み、溌溂と口を開いた。

「海瀬一颯くん!」

「え? あ、おはよう」

 海瀬は挨拶を告げて、ごく普通にその脇を通り過ぎた。それからぼんやり頭を傾げて、声に出さない独り言を漏らす。

「……何で挨拶されたんだろ。風紀委員なのか」

『誰?』

「同じ学年の女子……名前なんだっけな」

『海瀬の名前は知ってたみたいだけど』

 全校生徒一八八〇人と結構な規模の学校なので、同学年でも顔と名前が一致しないなんて当たり前の話だ。その中で、見知らぬ女子がわざわざ自分に話しかけてくるわけがないと、海瀬はこの状況をバグか何かと思いなしている。

「ちょーっと! 待ってよ!」

「うわあ、びっくりした」

 ぬっと、件の女子が眼前に出現してきて、海瀬は飛び上がるように足を止めた。件の女子はもう逃がさねえぞと言わんばかり、さっきよりも距離を詰めてもう一度口を開く。

「海瀬一颯くん、だよね」

「ええ……だから、おはようて」

「よくもこんないかにも用があって待ってましたみたいな女子を、おはようの一言でスルーできるね!」

 よくわからないが勢いのあるツッコミだった。関係ないがめっちゃ滑舌が良かった。

「まあ、海瀬だけど……何か用」

 こんな状況ではもう素通りもできないわけで、海瀬はいつもより低い声音で答える。最初は不承不承で不機嫌なのかと思ったが、少し様子を見て違うと分かった。

 この謎の女子生徒、可愛い顔立ちなのだ。大きな目にクリアな瞳、バランスの良い鼻と口という美的要素を、子どもっぽい表情で崩すことによって、独特な親しみやすさを醸し出している。切りそろえた黒い髪というのも、この大人しい男子高校生的にポイントが高い。

 可愛い女子を前にした海瀬は緊張して、却ってぶっきらぼうな口調になっているのだった。

「私、D4の夢向瑳来《むかいさら》。ゆうこさんの知り合いなんだよね」

 連れだって歩き出しながら、夢向と名乗る女子は言った。

 Dとは所属する校舎を示すアルファベッドだ。和籠高校は小ぶりな三階建て校舎を六つ持っていて、各学年でその二つずつを占める。原則入学しての棟替えはなく、クラス替えも棟の内部だけで行われるガラパゴス形式。C棟D棟が一年生、E棟F棟が二年生、A棟B棟が三年生なので、棟がわかれば世代が分かるということになる。

 海瀬はC5。違う校舎だと干渉は極端に少なく、部活か委員会、それとごく一部の課外活動しか絡みがない。クラス外の活動だと、DTM研究会という電子音楽制作活動をする同好会に、まばたきを数回する程度だけ存在した程度の海瀬が、夢向瑳来を知らないというのは当然のことだった。

 閑話休題、ゆうこという名前が夢向の口から出て来て、海瀬の態度は少し和らいだ。

「あぁ、うん、知ってるけど」

「あの人、私のお姉ちゃんの友達で、しょっちゅううちに泊まりに来てるんだけど、昨日もそうだったんだよね」

「へえ……」

 心療内科帰りの海瀬と別れた後ということらしい。随分、フットワークの軽い人だ。

 夢向は遠い目になって、懐かしむように話を続ける。

「大変だったよ。ゆうこさん、べろべろに酔っ払っちゃってさ。ウーロン茶とウィスキー間違えたんだよ……ありえないよねえ」

「あ、ありえないな……」

「うん。で、で、その焼きマシュマロ状態のゆうこちゃんから、海瀬くんのことを聞いたってわけ。自慢の舎弟って言うことで、洗いざらい」

「……マジ」

「マジマジ」

 俺は舎弟だったのか、と絶句する海瀬と、すかさず謎に身体の距離を詰めてくる夢向。控えめに香った良い匂いに、海瀬は挙動が不審になる数秒前。

 しかし、夢向の次の言葉で、そんな生暖かい動揺は散り散りになてしまった。

「海瀬くん、願いごと叶えたんだって」

「やったなあ、ゆうこさん!」

 この反応は、海瀬一颯心の声である。

 そう、願いごとに焦がれるのは海瀬だけではない。

 この和籠高校では、少なくない割合の生徒が、大なり小なりその噂話を意識して日常を過ごしている。

 この学校は生徒の願いを叶えてくれる、と。

『あはははははは』

「笑いごとじゃなくないか? それとも、笑いごとにするべきなのか?」

『いや、いや、しなよ。抜群の面白ポイントじゃん』

 勢いに乗じてそう言ったものの、それで誤魔化すのは難しそうだ。夢向サイドからしたら、海瀬は顔を強張らせて硬直している状態のはずで、そこから無理に笑い出せば遮光器土偶のようなツラになるに違いない。

「あぁ、だから、俺のところに来たんだ」

 結局、海瀬は開き直るという手を打った。

「願いの叶え方を、聞きたいってわけ」

「そうそう、話が早くて助かるなあ」

 察しの良さに、夢向はニッコニコである。その喜色満面に臆さないように、海瀬はきっぱりと答えを突きつけた。

「いや教えないけど」

「え、何で?」

 拒否の姿勢にも夢向、ニッコニコのままである。これは怖い。海瀬は足が竦みかけたが、屈しないように頑張った。

「……俺が自力で見つけたから」

「見つけられたなら、もういいじゃん」

「ゆうこさんも簡単に人にバラすなって言ってた」

「そのゆうこさんから、私は聞いたんだけど?」

「酔ってたんだろ。それに、願いを叶えるなんて……そんないいもんじゃないし」

「おい、暗い歴史を持つクールキャラぶるんじゃない!」

 いい加減、笑顔を捨てた夢向が強く言う。「いいもんじゃない」とディスられた身としても、あるのかないのか、よくわからない心が痛む。

「ちなみに、別にちっとも気にならないんだけど、どんな願いを叶えたいんだ」

 情報を渡したくない海瀬が、時間を稼ぐためかそんな質問をする。

 夢向は即答した。

「お金が欲しい!」

「それじゃ、また会う時にでも」

 C棟の前に辿り着いた海瀬は、さっさと手を振って夢向から離れ去った。女子相手に、海瀬がこんなにもザ・冷淡な行動に移せるとは、この短い時間で随分と成長したものだと思う。

「ねーえ、ちょっと待って!」

 しかし、この女も己の欲の迸るまま、知らない男に突貫かますような強者だ。海瀬の手首をガッと両手で掴むと、立ち去るのを阻んだ。

「お金だけじゃなぁいってば、億ションとか、A5肉食べ放題とか、馬とか、ランボルギーニの助手席とか、IT企業社長の結婚相手とか! ちゃんと考えてんだよ!」

「中学生レベルの欲望だ! どうして、それで俺を引き止められると思った!」

「こっちはそんだけ人生賭けてるんだよ!」

「宝くじ買ってた方がマシじゃん、そんなの!」

 海瀬はド正論を吐き捨て、そのまま夢向の掴む手を振りほどくと、背を向けてとっととC棟のテリトリーに逃げ込んだ。

「海瀬くん、いいの!」

 後ろで、夢向が大声を上げている。

「あの事、ゆうこさんにバラすからね!」

「いや、マジで、どの事もないからな……ないよな?」

『知らないよ』

 結局、その超適当な脅し文句を捨て台詞に、夢向は不満げな様子で去っていった。嵐のようだった、と言うとぴったりな気がするが、別段過ぎた後で心境が晴れやかになったわけでもない。しんどい奴と関わってしまった怠さがはるかに勝っていた。

 下駄箱で靴を替えながら、海瀬はしきりに周囲を気にする素振りを見せる。

「……あいつの他に、俺が願いを叶えたこと、バレたか?」

『かもね。願いが叶うって噂を、本気にしてる手合いは聞き耳立ててたかも』

「マジか……」

『素直に教えてあげたら? うるさいし、かわいいし』

「嫌だ。金が欲しい! って言ってるよくわからん奴に、教えてやる義理ない……」

 頑固おやじみたいな言い草だが、海瀬の境遇を考えればこの憤慨に近い感情には共感できる。それについては引っ張るようで申し訳ないが、後でゆっくりと喋る機会があるのでそちらで。

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