8時55分の願いごと
城井映
第〇章 願ったものは
ふと気がつくと、存在している。
何かを願うことで生かされる。
何かを叶えることで生きていく。
さしあたって、『人』の定義をここから始めてみる。すると、
だというのに、海瀬の心境は光届かぬ深海のように暗澹としていた。
「……ありがとうございました」
礼を告げ、白いドアを開ける。その音と気配に反応して、順番を待つ患者たちがのっそりと顔をもたげる。そこは清潔で静かな、病院の待合室だった。海瀬は医師との面談を待っている人たちの間を重い足取りで歩いて行くと、薄いピンク色のソファに腰を下ろして、両手で耳を抑えた。
それから、
──何なんだ、お前は……。
という疑心が、墨汁が半紙へ染み渡るように聞こえてくる。その声なき呟きは、明らかに海瀬の頭の中の方へ、こちら側へと向けられていた。
なので、答えてやる。
『少なくとも、典型的な妄想、幻覚の類ではないって、医者が言ってたのを聞いてなかったの』
海瀬は明らかに萎えた様子で、肩を落とした。
「でも、れっきとした幻聴だろ。俺の頭の中に、あんたの声が聞こえてくる。もう二週間だ」
『病気と診断されて安心したい気持ちはわかるけどさ、現代精神医学的に、対話できる幻聴があってたまるか、って話だよ』
言えば言うほど、海瀬の感情は露骨に負の方向へ倒れていく。
「それなら、何なんだよ、お前は」
『だから、「願い」だよ。っていうか、「叶った願い」っていうの? 日本語だと、ちゃきっと決まらないけど、まあ、そんなもん』
海瀬の願いが叶えられた結果、ふと湧いて出たアイデアのように、海瀬の脳内に存在を始めた存在、それが当方、あるいはこの語りということだ。
「……」
海瀬はむっつりと黙り込む(もともと、声に出して話していたわけではないけれども)。たいそうご不満らしい。こんなのは「願いが叶った」とは言わないぞ、と。この業界にアフターサービスという概念がないのが、おあいにくさまだった。
程なくして、海瀬の名前が呼ばれた。診察後の手続きを済まると、何某メンタルクリニックを出る。海瀬は、折角書いてもらった処方箋も鞄に突っ込んだまま、薬局の前を素通りして、十月も上旬、先走り気味なハロウィンムード漂う駅前の通りを、歩いて行った。
素直に帰るのかと思いきや、道を逸れ、少し奥に入ったところにあるカフェに入店した。
一部の壁が鏡張りで、広いような印象を与える店内。ブレンドコーヒーを注文して、シックさを演出するために配置されたようなお姉さんの対面に腰を下ろす。
「どうも……」
「あ、海瀬くん、どうだった?」
お姉さんの反応には、海瀬の陰気な挨拶に釣り合わない張りがあった。彼女のことを、海瀬はゆうこさんと呼ぶ。友達の年上の恋人だという。込み入っている。そういう知り合い方なのに、サシでお茶をしてしまうのは、倫理的によろしいのかと心配だった。
「この幻聴のことは、はっきりしませんでした。抑うつっぽい感じなので、とりあえず軽い薬を飲みながら、継続的に診ていって判断するとか……」
「そうなんだ──それについて『声』さんのコメントは?」
「医者の言った通りだって」
ゆうこは目を細めた。なんとも面白くもないコメントをしてしまったと、申し訳ない気持ちになる。
「じゃあ、やっぱり、それが海瀬くんの願いの叶った形なんだよ」
「『声』もそう言ってます。でも──俺は、頭の中で話せる人格を作ってくれって願ったわけじゃないんです」
「なんて願ったの」
「……それは、教えられません」
「はー、ま、だよね」
ゆうこは余裕ある大人らしく、理解ある態度だ。願いが本当であればあるほど軽々しく話せない、そういう機微をわかっている。
「もうそしたらお腹くくって、一生付き合ってく覚悟した方が良いんじゃないかな」
「この声と?」
「そうそう。ロボトミーするわけにもいかないでしょ」
言いながらゆうこは、海瀬のおでこに狙いをつけて人差し指をねじねじする。今の海瀬ならその冗談を真に受けて、脳みそを破壊するためのハンマーを買ってしまいかねない。
「悪い冗談ですね……」
幸い、海瀬は苦笑で一蹴した。その指先は、コーヒーについてきたナプキンをつまんで、弄んでいる。落ち着かなさ全開だ。折り合う気も、前頭葉をちと壊す勇気もないということだ。
いい加減、こんな調子にも飽きてきていたので、少し口を出してみた。
『そんなに嫌なもんかな』
「じ、自分も聞こえてみればわかるっ!」
すると、海瀬は強い調子で言い返してきた。あまりにも強すぎて声に出してしまうほどに。
海瀬がはっとする目の前で、ゆうこは驚いたように目を見開いていたが、なるほどね、と同情を滲ませるように呟いた。
「それでもさ、仕方がないよ。なんとか、適応していくしか。曲がりなりにも、それが海瀬くんの願いの叶えられた形なんだから」
「そう……ですよね」
「嫌な奴なの、その声は?」
「なんか、初対面なのに、妙に馴れ馴れしく絡んでくる奴の雰囲気を感じます」
「いきなり頭の中に住み込むような人……だからね」
ゆうこは言いにくそうに、人、と表現した。まあ、確かに人だ。正しい。
海瀬は何も答えず、落ち着かないようにコーヒーカップの縁をなぞっていた。看護師が注射針を刺せる血管を探す時のような手つき。何を見つけようとしているのか、わからない。
「でも、本当に願いの叶え方を見つけるなんて、ね」
ゆうこはアイスティーを多めに飲んでから、言った。海瀬はカップから目をちらと上げ、ゆうこを一瞥すると、すぐに視線を落とす。
「だって、あの学校ではマジに願いが叶うよって、ゆうこさんが言ったから」
「言ったけど、それにしては本気だよね。私、方法教えなかったのに、海瀬くん一人で探しあてた」
「……そういう奴ですよ、俺って。知らなかったですか」
「ふふ、そうだね……」
ゆうこは面白そうに目を細める。海瀬の下手なごまかしを、微笑ましく見るように。
「まあ、どっちにしろ、願いが叶ったからそういう形になったんだよね……『猿の手』みたいに、願いを叶えるために起こってる不幸じゃなくて、叶った結果がその『声』ってわけなんだから、意図を確かめるためにもきちんと接していかなくちゃいけないんじゃないかな……」
『猿の手』とはイギリスの怪奇小説で、金が欲しいと聞けば、家族を事故死させ保険金をプレゼントするような猿の手の話である。こちとら金が欲しいと願われて出現したわけでもなし、ゆうこの言は妥当過ぎてぐうの音も出ない。そもそも出せない。
というか、それ以前に、こちらからずっと海瀬に言い続けてきたことでもあった。
「そう……ですよね」
そして、この年上好きの凡庸な男子高校生は、お姉さんのアドバイスならと、あっさりと受け入れるのだ。これには流石の脳の声としても、遺憾の意の何とやらである。
まあ、人の脳みそは、その裡に他者の意志を住まわせることへ強烈な不安を感じるようだから、こちらの言い分が届かないことも、無理のない話なのだろう。世知辛い。
「お前は、俺に何をしてくれる?」
帰路の電車の中、海瀬は耐えきれなくなったのか、訊ねてきた。
一応、ここから先は特に断りのない限り、脳内で意思疎通を図ろうとする台詞は彼が頭の中に反響させているだけのものと判断して欲しい。混乱を来さないように、こちらのセリフは『』で示す。
で、何をしてくれるか、という問いだが、端的に言って愚問だ。
『話し相手になるよ』
「それだけ?」
『十分じゃない? 周りを見てみなよ』
促すと、海瀬は視線だけで辺りを見回す。夕方、乗車率八割の車内、その乗客のうち二割ほどが連れ合いの誰かと会話を交わしている。
『どうしても、自分が一人の時って、群れてる人に劣等感を抱くでしょ……だけど、海瀬はもう、そういうことを気にする必要は無くなった。いつでもどこでも話せるわけだからね』
「……」
海瀬は考えるように黙り込む。こちらもこれ以上、無用なことを言わないようにした。ただでさえクーリングオフ寸前なのだから、よい印象を持たせなくてはいけない。
しかし、言葉が出てこないので、返す手もなく、しばらく一般単身旅客の状態が続いた。
そして、いくつか駅を過ぎ、家への最寄り駅が近づいてきたあたりで、海瀬はようやくやりにくそうに言ったのだった。
「……何を話せばいいんだよ」
どこの調査か知らないが、日本人の六割は人見知りだという統計がある。しかも、日本人の九八%がその素因である不安症を持っているらしい。面と向かって言葉を交わすだけで気苦労が大変なら、頭の中をや──ということなのだろうが、そうなのか。
『わかんない。まあ……雑でいいんじゃない?』
「雑ね」
『あとは秘密の共有にはもってこいでしょ。原理的に他人にバラせないしさ……』
目配せをするように告げる。端的に、秘密をひとりで抱えるのは心理的な負担になるし、海瀬には「願いを叶えること」の共犯者であるゆうこにも言えないことがある。
海瀬は短く息を吸った。
「俺の頭の中にいるんだから、勝手に秘密でも記憶でも知ることはできないのか?」
『できないけど、察しならつくね。海瀬が何を願ったか』
「……へぇ」
言ってみな、とばかりに海瀬はぐっと顎を引く。
『孤独でなくしてくれ、ってとこでしょ』
ふっと、首の力が抜けた。
「それもあるけど、多分違う」
『えーっ、多分て何?』
「というか、叶った願い本人が願いを知らないのか……」
『知らないよ。当方赤ちゃん未満の存在ですんで』
「……俺のことも知らない」
『うん。何でゆうこさんの言葉を真に受けたのかもよくわからない』
海瀬は「何でも願いが叶う」的な吹聴をあっさり真に受けるような軽い男には思えず、むしろ内心で小馬鹿にするような印象だったから、だいぶ引っかかる場面ではあった。
その問いに、海瀬はつと視線を落とす。心の内で石につまづき、踏みとどまってからもう一度歩き出すべきか、と迷っているような間。
やがて、映画のナレーションのように、ゆっくりと語りだした。
「──一年前、父親が死んだんだ。病気で」
ない耳を疑うほど、重い情報。
まあ、確かに、それくらい重いところにこそ、本当に叶えるべき願い事はあるのだろう。
……父親の死を皮切りに、海瀬は色々なことを喋った。一晩中喋った。それこそ、修学旅行消灯後の暗い天井を見ながら、声だけでする会話みたいに。
けれども、ここではお話をテンポ良く進めるべく、その内容は割愛させてもらう。
心配しなくても、この先時間はいくらでもあるし、後に大事なことはきちんと説明をする。必要だと思うことは、適宜こちらから注釈する。その方が明らかに読む方が楽なのだ。とりあえずは、この約束を以って勘弁して欲しい。続く。
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