立ち向かうべき相手は彼女ではないのです
10月26日(月) 晴
月曜、104円台後半のスタート。米新築住宅販売件数。水曜、カナダ、ブラジル政策金利。木曜、日銀会合2日目、政策金利。金曜、ユーロ圏GDP速報値。
今週も104円台の小動きが続きそうな予感。無理に取引することもないですね。
「落ち着け、深呼吸して落ち着け」
今の私は興奮気味です。今週の経済指標を書き連ねて気持ちを静めようとしています。ああ、前の日記からもう5日もたってしまったのですね。あの日から今日まで実に不毛な日々でした。読書もネットも動画も、読んでも眺めても鑑賞しても、まるで頭に入ってこないのです。
もちろんポイント目当ての外食には一度も行っていません。彼女と顔を合わせて気まずい雰囲気になるのが嫌、というのもありますが、何を食べても美味しさを感じられないのがツライのです。せっかくの料理は楽しく食べたいですからね。
「この5日間で行っていたこと」
本当に未練がましいと思います。自分がこれほどまでに女々しい男だったとは恥ずかしい限りです。食事には行きませんでした。それは間違いありません。けれどもファミレスには行っていたのです。中には入らずただ建物を眺めるだけ。そして従業員出入り口から彼女が出て来ないかしばらく待っている、そんな時間を過ごしていました。
「さらにもうひとつ」
書かずともわかるでしょう。彼女のアパートにも行っていたのです。呼び鈴を押す勇気などありません。ファミレスと同じく玄関から彼女が姿を現さないか窓から顔を出さないか、それを期待して待っている、それだけです。結局彼女の姿は一度も見ることができませんでした。
そして5日目の今日になってようやく目が覚めました。こんなことをしていても仕方がないことに。私は振られたのです。彼女は私を拒絶したのです。たとえ本心ではなかったとしてもそれが彼女の出した結論なら受け入れるしかありません。
「これを最後にしよう」
今日の夕方、日が傾き周囲が夕闇に沈み始めた頃、私は自転車で彼女のアパートに向かいました。踏ん切りを付けるための最良の方策、それはこちらからも彼女に別れを告げることです。今日は勇気を出して呼び鈴を押そう。そしてもう一度彼女の気持ちを確かめ、それでもダメなら潔く諦めよう、そう心に決めたのです。
もちろん彼女が在宅しているかどうかはわかりません。けれども今日は彼女の休日ではないかと私は推察していました。
今月11日、彼女は店にいませんでした。5日後の16日が最初のデート。さらに5日後の21日が2度目のデート。つまり彼女は5日ごとに休みを入れていると考えてよいでしょう。2度目のデートから5日目の今日26日も休日の可能性は大です。ならば在宅している可能性も大です。私は期待に胸を弾ませながらペダルを踏み続けました。
「いた!」
なんという幸運でしょう。私の推察通り今日は休日だったようです。彼女はいました。しかも扉の向こう側ではなく扉のこちら側、アパートの敷地に立っていました。これなら最大の難関である「呼び鈴押し」の試練をクリアせずに彼女と話ができます。
「ここからは歩こう」
私は自転車を降りました。通行の邪魔にならないよう電柱の陰に自転車を置き、物陰に隠れながらアパートに向かってそろりそろりと歩きました。私の存在を気づかれたくなかったのです。その理由は簡単です。突然あの男が現れたからです。
彼女だけならまだしも、男も交えて3人で話し合って円満な結論が導き出せるとは思えません。それにあの男がいれば彼女は絶対に本音を明かさないでしょう。前回と同じく拒絶の言葉が返ってくるだけ、話をするまでもなく結果は見えています。
「外で何をしているんだろう」
見つかりそうにないギリギリの場所まで近づいて私はふたりを観察しました。会話をしていますが言い争いをしているような口調ではありません。軽い世間話という感じです。時々通りの向こうを見るような仕草もしているので誰かを待っているのかもしれません。
「あの男、早くどこかへ行かないかな」
最も望ましい展開は男だけが中へ入ってしまうことです。彼女ひとりだけならこちらも気軽に話し掛けれらます。ふたりが一緒に中へ入った場合でも呼び鈴を押して彼女を連れ出せばなんとかなりそうな気がします。最悪の展開は彼女だけが中へ入ってしまうことです。こうなるとあの男を無視できません。呼び鈴を押そうとすれば向こうが話し掛けてくるに決まっています。結局3人で話をすることになるでしょう。
「どうする、日を改めるか」
私はジリジリしながら待ちました。どちらも中へ入ろうとしません。やがてふたりの様子が変わり始めました。言葉の遣り取りが多くなったのです。口調が次第に激しさを帯び始め、今では口喧嘩のようになっています。男だけでなく彼女もかなり気が立っているようです。こうなるともう諦めるしかありません。こんな状態では冷静な話し合いはできないでしょうから。
「帰ろう」
深くなった夕闇の中、元来た道を戻ろうとしたとき彼女の悲鳴が聞こえました。
「きゃあ!」
振り向いた私の目に映ったのは敷地のコンクリートに転がっている彼女の体でした。何が起きたのかまったくわかりませんでした。戻ろうと目を離したその瞬間に何かが起きたのです。彼女は上体を起こすと右手で右ほおをさすりました。男は手を差し伸べましたが彼女はにべもなく払いのけました。
「まさか、あいつ、彼女をぶったのか」
激昂した男に右ほおを殴られ、その勢いで倒れてしまった、そうとしか考えられません。その場面を想像した瞬間、全身の血が沸きたつような怒りを覚えました。あの男と一緒にいたら彼女は絶対に幸せになれない、そう確信しました。
彼女はふらつきながら立ち上がると中へ入ってしまいました。男は手持無沙汰な様子でまだ立ったままです。私は物陰から出ました。もうコソコソするのはやめです。堂々とアパートの敷地へ入り男の前に立ちました。
「なんだ、あんた」
「話がある。来い」
「はあ、どうして赤の他人の言うことを聞かなくちゃいけないんだよ」
「赤の他人じゃない。私は彼女と2度食事をした。君のことも彼女から聞いている。いいから来い」
「……ああ、あんただったのか」
私が彼女の食事の相手だと知って男も興味を持ったのでしょう。素直に従ってくれました。なぜ私が男と話をしようと思ったのか不思議に感じますか? 考えを変えたのです。私が話をする相手は彼女ではなく男のほうなのだと。男から彼女を奪い取るのではなく、男に彼女を諦めさせる、そちらのほうが良策だと思われたのです。
この辺りは住宅地で近くに公園もあります。私と男は公園に入ると照明灯の下に立ちました。
「あんたのことはあの女から聞いているよ。ずいぶん仲がいいみたいじゃないか。で、俺に何の話があるんだい」
あの女とはひどい呼び方です。まるで彼女が赤の他人のような口振りではありませんか。私は語気を強めて尋ねました。
「単刀直入に言おう。どんな理由があるにせよ女性に手を挙げるなんて男として最低だ。君は彼女を愛しているのか。彼女を幸せにできると本気で思っているのか」
呆気に取られたような男の顔。それはすぐ笑いに変わりました。
「ははは。何を言い出すのかと思ったら愛しているかだって。幸せにできるかだって。こりゃいいや。はははは」
「何がおかしい。私は真面目に訊いているんだ」
「はははは」
男はひとしきり笑った後、顔をぐいっとこちらに近づけ凄みのある声で言いました。
「勘違いしてもらっちゃ困る。俺とあの女はそんな関係じゃないんだ。それに俺は殴ったりしていない。女が転んだんだ。あんた何も聞いてないみたいだな。いいよ、教えてやろう。金だよ。あの女は借金を抱えているんだ。これ以上首が回らないってくらいしこたま借りてんのさ」
「借金……」
思ってもみなかった返答でした。そしてあり得ない返答でした。理知的で清楚で誰にも優しい女性、それが彼女なのです。借金に窮しているなんて考えられません。
「でたらめを言うな」
「信じたくないのなら別にいいさ。好きにしろよ。じゃあな」
男が歩き出しました。慌ててその肩をつかむと一気にまくし立てました。
「待て。それならその借金とは何だ。どうして彼女は金を借りているんだ。どうしておまえがそれを知っているんだ。どうして一緒に住んでいるんだ。どうして彼女はおまえの言うことなら何でも聞くんだ。どうして」
「ああ、うるさいなあ。そんなにいっぺんに訊くなよ。俺は金貸しさ。あの女から金を取り立てるのが俺の仕事だ。それからあんたは誤解している。一緒に住んでなんかいない。監視しているだけだ。金を払わず夜逃げされちゃあ探し出すのに一苦労だからな。まあ、あの女は毎月きちんと払ってくれるから最近は週に数回しか顔を見せていないけどな」
「じゃあ彼女は本当に……」
男の言葉を全て信じたわけではありません。しかし彼女がこんな男と関わりを持っている理由としては十分納得できるものでした。そして彼女の言った「私は立派な人間じゃない」「私はあなたを不幸にする」という言葉にも納得がいきます。私の口から深いため息が漏れました。
「どうして彼女は金なんか借りたんだろう」
「知らねえよ。あの女に直接訊けばいいだろう」
訊いて話してくれるでしょうか。いや何としても訊き出すしかありません。彼女はすでに大きな不幸の中にいます。彼女ひとりでは這い上がれないような大きな不幸の中で苦しみもがいているのです。このまま見捨てることはできません。私が救わずして誰が救うというのでしょう。
「わかった。それだけ聞けば十分だ」
今度は私が歩き出しました。すると、背後からまるで私を引き止めるかのように男の声が聞こえてきました。
「あんたも物好きだね。あんな女のどこに惚れたんだよ。悪いことは言わない。これ以上関わりにならないほうがいい。これは俺からの忠告だ。あの女の陰には何人も男がいる。ひとりやふたりじゃない。これ以上深入りするとあんたはきっと痛い目に遭う。その時になって後悔しても知らないぜ」
それは忠告というより脅し文句に近いものでした。男が何人もいるとはきっと他の闇金からも金を借りていることをそう言っているのでしょう。多重債務に陥れば抜け出すのは容易ではありません。やはり私が助けてあげなくては。
「大きなお世話だ。ほっといてくれ」
「そうかい。ならひとつだけいいことを教えてやろう。あの女の明日の勤務終了時刻は18時45分だ。その頃に通用口の前で待っていれば会えるぜ」
それは本当に意外な言葉でした。「どうして私にそんなことを」と言いながら振り向くと男はすでに歩き始めていました。公園の闇の中へ消えていくその後姿を私は黙って眺めていました。
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