言葉の裏に隠されているもの

 10月20日(火)曇後晴


 今週の経済指標、金曜日、消費者物価指数。多分影響なし。

 ドル円小動き。とりあえず105円半ばショートポジる。


 気が紛れませんね、こんなことを書いても。2日前の衝撃からまだ立ち直れずにいます。今日はファミレスには行きませんでした。そんな気分にはなれなかったのです。そして明日も彼女との食事には行きたくないのです。


 ようやく取り付けた2回目のデート。本来ならウキウキ気分で明日という日を迎えるはずだったのに、今は重い石を飲み込んだように憂うつな気分です。

 実は昨日、ファミレスへ行ったのです。すでに予約を入れてありましたし、キャンセルは店の迷惑になりますからね。

 私の煩悶とは裏腹に彼女はいつもと同じ笑顔で迎えてくれました。当たり前です。あの男との関係を私が知ったなんて夢にも思っていないでしょうから。


「今日は元気がありませんね」


 さすがです。私の様子がいつもと違うことにすぐ気づいてくれました。


「最近儲けが少なくて」

「無理せず頑張ってください」


 満足に話せたのはそれだけでした。本当はもっと話がしたかったのです。あの男とはどこで知り合ったの、いつから一緒に住んでいるの、どこまでの関係なの。しかしそれらの質問はただ私の頭の中を堂々巡りするだけで声になることはありませんでした。結局何も聞き出せないまま昨日は店を出ました。


「これって早合点イベントなのでは?」


 そんなことも考えました。ありふれた映画やマンガの手法です。気になっている女子が見知らぬ男子と歩いている。恋人がいたのかと絶望すると実は兄だった、というラブコメの古典的エピソード。今回の出来事はこれにそっくりではありませんか。


 もう一度よく考えてみましょう。


「あの男が部屋のチャイムを鳴らしたら彼女が出てきた」


 確認された事実はこれだけです。この出来事だけで「あの男と彼女は恋人同士で一緒に住んでいる」と結論付けてよいものでしょうか。先の例のようにあの男は彼女の恋人ではなく兄、あるいは親戚のひとりかもしれません。一緒に住んでいるのではなくあの男が何かの用事で訪れただけかもしれません。そもそもあのアパートに彼女が住んでいるという確証さえありません。あそこは彼女の友人の部屋で今日遊びに来ていたら、たまたま友人の恋人であるあの男が帰宅した、というパターンだって考えられるのです。


 希望的推測。


 そうですね。こじつけにすぎないことはわかっています。あの時彼女は「おかえり」と言ったのです。一緒に住んでいるのは間違いないでしょう。

 それにあんな男が彼女の兄や弟だとは思えません。性格も容姿も何もかも違いすぎます。友人の部屋に遊びに来ていたのならその友人が出迎えるはず。彼女が出迎えるのは不自然です。結局これらの仮説は全て私の願望の反映にすぎないのです。

 ああ、信じられません。不釣り合いすぎます。どうしてあんな男と付き合っているのでしょう。蓼食う虫も好き好きとは言いますが、それにしたってあんな男を……。


「明日だ。明日で全てがはっきりする」


 こうして悶々としていても事態は進展しません。やはり彼女に直接尋ねるしかないでしょう。明日、食事の席できっちり話を付けたいと思います。



 10月21日(水) 晴


 良い天気でした。こんなにしっかりと晴れたのは何日ぶりでしょうか。そして私の心に青空が戻ってくるのはいつになるのでしょうか。


「完全に終わった」


 今日、はっきりと彼女から言われました。思った通りの返答、そして私にとっては最悪の返答でした。

 しかし今の私はまだそれを受け入れられずにいます。諦めの悪い男と軽蔑されても構いません。うまく言えませんがあの言葉が彼女の本心だとはどうしても思えないのです。

 ああ、話が先走ってしまいましたね。2回目のデートは順調な滑り出しでした。心地良い風が吹く秋晴れの昼下がり。あんな問題さえなければ心行くまで楽しめたことでしょう。


「ここも素敵な店ですね」


 私の前に座る彼女はいつもと変わらぬ笑顔を見せてくれました。まずは食事を楽しもう、話はそれが済んでからにしよう、そう決めていたので私もできるだけ普段通りに接しました。


「今日は指輪をしていないのですね」

「ええ。彼が何も言わなかったので」


 彼、という単語を聞かされて思わず頭に血が上りました。夜のファミレスで親しく話していたふたり、アパートの玄関で聞かされた「おかえり」の声、そんな光景が脳裏によみがえり、図らずもあの男に対する嫉妬の念が湧き上がってくるのを感じました。


「どうかしましたか」

「いえ。さあ食べましょう」


 味はさっぱりわかりませんでした。何を食べたのか、どんな料理だったのか、それさえも思い出せません。その時の私の胸の中はどす黒くモヤモヤした霧のようなもので埋め尽くされていたような気がします。

 やがて最後の甘味が運ばれてきました。腹が膨れれば感情もまた穏やかになります。今の精神状態なら大丈夫と判断した私はある単語を口にしました。


「えっ」


 私の言葉を聞いて箸を持っていた彼女の手が止まりました。不審に満ちた目で私を見ています。私が放った単語はあの男が行き着いたアパートの名称でした。


「なぜ、それを知っているのですか」


 彼女に訊かれて私は話しました。何もかも正直に話しました。尾行などという恥知らずな行為を告白すれば間違いなく彼女に嫌われる、それはわかっていても話さずにはいられませんでした。隠し事はしたくなかったのです。そして彼女にも隠し事はしてほしくない、そう思いました。

 私の話を聞き終わった彼女の顔にはすでに笑みはなく能面のような冷たさが貼り付いていました。


「そうですか。何もかも知られてしまったのですね。最近、あなたの様子がおかしかった理由がやっとわかりました」


 凍てつく氷のように冷やかな声。こんなに温もりのない彼女の話し方は初めてでした。私は何も言いませんでした。話したいことは全て話したのです。今度は彼女が話す番です。しばらくの沈黙の後、彼女は淡々と話し始めました。


「あなたが思っている通りです。私がお付き合いしているのはあの男、あなたが迷惑な客だと言ったあの男なのです。一緒に住むようになって一年ほどです。意外に思われますか。でも事実です。前回指輪をはめていけと言ったのは彼です。今回何も言わなかったのも彼です。その彼の言葉にただ従うしかないのが今の私なのです」


 彼女の告白を聞いても私はさほど驚きを感じませんでした。むしろある種の安堵を覚えていたのです。これまでは仮定にすぎませんでしたが、これでようやく裏付けが取れたのですから。


「どうしてあんな男と……」


 何も言わないつもりでしたのについ言葉が転がり出てしまいました。能面だった彼女の顔が曇りました。不愉快という感じではありません。どうしようもない哀しみをこらえている、そんな表情です。


「それをあなたに教える義務はありません」


 その声も震えていました。我慢できないような感情が彼女の中に湧き上がってきているようです。


「知られたくありませんでした。あなたにはずっと隠しておきたかった。もちろんそれが叶わない願いであることはわかっていました。いつか知られてしまう時が必ず来る、それならその時まで黙っていよう、そしてきっぱり別れよう、そう思っていたのです。でもその時がこんな形で訪れるなんて思ってもいませんでした。残念です。もう店の外で会うのはやめましょう。お店には来てくださいね。あなたは大切なお客様ですから。今日はありがとうございました。」


 彼女は軽く頭を下げると立ち上がろうとしました。私は慌てて引き留めました。


「待ってください。一緒に住んでいるとは言っても結婚も婚約もしていないのでしょう」


 彼女は無言で頷きました。


「それならあの男に縛られる必要はありません。彼を捨てて私と付き合ったところで誰からも責められはしないのですから。私はあの男よりも劣っていますか。私よりあの男のほうがあなたを幸せにできると本気で思っているのですか」


 私は食い下がりました。このまま別れてしまってはあの男から彼女を取り戻すことは二度とできない、そんな気がしたからです。彼女は唇を噛み締めていました。悔しさなのか悲しさなのか、その理由は私にはわかりかねました。


「人には運命があるのです。運命に逆らおうとしても苦しいだけです。私はもう自分の運命を受け入れるしかないのです。それが私を不幸にするとわかっていても逃れるすべはないのです。あなたは私を見誤っています。あなたが考えるほど私は立派な人間ではありません。もしあなたと一緒になったら私があなたを不幸にするでしょう。あなたには私よりもっとふさわしい女性がいるはずです。私のことはもう忘れてください。さようなら」

「あっ、待って!」


 彼女は席を立つと私の声から逃げるように小走りで店を出て行きました。私は後を追うこともできませんでした。これほどまでに決意が固いのならどんな説得の言葉も彼女の凍り付いた心を溶かすことはできない、そう思われたからです。


「とても幸福には見えない」


 こうして日記を書きながら今日の出来事を振り返っていると、彼女は全てを語ってはいないような気がしてくるのです。少なくとも今の彼女は幸せな暮らしをしているとは思えません。彼女の言葉の端々からあの男に対する嫌悪が感じられました。そんな男とどうして一緒に住んでいるのでしょう。彼女が言っていた逃れられない運命とは何なのでしょう。


「言葉と心は真逆なのでは?」


 運命から逃れられないと言いいながら実は自分の運命を変えたい、それが彼女の本音なのではないでしょうか。でも彼女ひとりで変えるのは無理、だから私の手を借りたい、だけどそんなことをすれば私まで不幸に巻き込んでしまう、だから別れた方がいい、不幸になるのは彼女ひとりだけでいい、それが彼女の言葉の裏に潜む真実だったのではないでしょうか。


「彼女が抱えている不幸」


 それが何なのかわかれば解決の糸口が見えてくるかもしれません。しかしどうやって知ることができるでしょう。彼女に訊いて素直に話してくれるとは思えません。それにあんな別れた方をしてしまってはファミレスで顔を合わせることすら気まずく思えます。八方塞がりの迷路の中を彷徨い歩いているような気分です。


 104円半ばで決済。


 円高進んでいますね。適当に出しておいた決済注文が約定したみたいです。100ピピ取れました。あんまり嬉しくありません。ディスプレイに表示される金額が増えれば幸せになれるなんて、どうしてそんな馬鹿な考えに囚われていたのでしょう。投資はもう私を幸福にはしてくれないようです。

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