そんな関係だったなんて
10月17日(土) 雨
雨が降り続いて肌寒い一日でした。最近寒暖の差が大きくなってきたので体調には十分気をつけたいところです。
今週のドル円は105円台前半に膠着したままでほとんど動きがありませんでした。お休みして正解でしたね。気持ちにもだいぶゆとりが出てきたことですし、明日は為替レポートでも読んで久しぶりに投資戦略でも練るとしましょうか。
うふふふ。
今の私の気分を文字にするとこんな感じです。すっかり舞い上がっています。臨時収入があったとか応募していた懸賞が当選したとか、そんなことで喜んでいるのではありませんよ。彼女です。これも言うまでもないですね。
「いらっしゃいませ」
今日は雨なので歩いてファミレスへ行きました。土曜日は家族連れが多くて予約できない日が多いのですが、運よく朝一番の9時に取れました。出迎えてくれたのはもちろん彼女です。
昨日、あんな別れ方をしたのにまるで何もなかったかのように明るい声で挨拶してくれました。自分の感情を
「昨日はありがとう。楽しかったですよ」
「はい。ありがとうございました」
プライベートな事柄を口にしたのにやんわりと受け流されてしまいました。それでもさりげない言葉に込められた感謝の気持ちが伝わってきます。彼女ならではの気配りですね。
「やはり店の中では難しいな」
私は心に決めていました。もう指輪のことは一切忘れてしまおうと。そして昨日できなかったことを今日やろうと。
付き合い始める上において一番難しいのは、如何にして最初のデートを実行するかにあります。その関門をクリアできれば2回目3回目のデートは簡単に実行できます。最初のデートの別れ際に次のデートの約束をすればよいだけなのですからね。
しかし私はそれを実行できませんでした。このままの状態を放置していては、せっかく縮めることができた私たちの仲がまた離れていってしまいます。それを食い止めるためにも今日絶対に次の約束を取り付ける、そう心に決めたのです。
私はテーブルに着くとすぐ注文を出しました。
「このピザをお願いします」
「マルゲリータピッザァひとつ、以上ですね、えっ?」
驚いた彼女の声が妙にかわいらしく感じられました。その原因は私にあります。いきなり彼女の手を握ったのです。いや、彼女の手に握らせたと言ったほうが正しいでしょう。
「これは?」
「あとで読んでください」
実にありふれたやり方でした。次の約束を取り付けると言っても他の客や店員のいる店内でそんな私的な会話はできません。だからと言って店外で会話をする機会もありません。一度食事をしたとは言っても私と彼女はあくまでも客と店員という間柄でしかないのですから。
前回のように道で出くわすという偶然もないとは言い切れませんがいつになるかわかりません。仕事が終わる彼女を店の外で待つなどという不審者のような行動もできません。となれば紙に用件を書いてそれをそっと渡す、映画やマンガでお馴染みのこの古典的な方法が最も簡単で手っ取り早いではありませんか。
「さて、吉と出るか凶と出るか」
待っている時間がとても長く感じられました。背中には冷や汗が流れ始めていました。少し軽率だったろうか、もっとスマートなやり方はなかったのだろうか、そんな後悔も感じ始めていました。やがて彼女が料理を運んできました。
「お待たせしました」
それだけを言って去って行く彼女。やはり失敗だったかと思ったとき、料理の皿の横に小さく折り畳んだ紙片が置かれていることに気づきました。
「来た!」
急いで開きました。日付、時刻、そして駅名。書かれているのはそれだけでした。しかしそれだけで十分でした。彼女は私の誘いを受けてくれたのです。メモ手渡し作戦は大成功でした。
10月21日、昼12時。
きっとこの日が彼女の次の休日なのでしょう。待ち合わせ場所の駅名は前回と同じです。店のジャンルは書かれていません。特に希望はないようなのでまた和食にしました。もちろん別の店です。帰宅してすぐ予約しました。きっと喜んでくれるでしょう。
今度は純然たるデート!
前回は迷惑をかけたお詫び、そして借りていたハンカチの返却という名目がありました。しかし今回は何の理由もありません。ただ単に会って食事をしたい、それだけです。その申し出を受けてくれたのですから間違いなく私たちの仲は一歩前進したと言えるでしょう。
今日から4日間、またウキウキの日々が始まりそうです。来週の投資は休みましょう。こんなに浮かれていては正常な判断ができそうにありませんから。
10月18日(日) 晴後曇
ああ、何たることでしょう。ウキウキの日々が4日間続く予定でしたのに、一日目でウキウキは頓挫してしまいました。知りたくありませんでした。まさかそんな関係だったなんて。知りたくありませんでした。しかしいずれは知ってしまうことでもあります。ならば早いうちにわかってしまったほうが良かったのかもしれません。
午後4時45分。
今日一件だけ取れた予約です。またしても昼食には遅く夕食には早すぎる時刻でした。軽い食事で済ませたいところですが1000円以上の縛りがあるのでそうも言ってはいられません。これでまた太るなあと思いつつファミレスの扉を開けました。
「いらっしゃいませ」
残念ながら彼女の姿はありませんでした。きっと今日も早朝出勤でもう帰ってしまったのでしょう。その代わりと言っては変ですが別の人物の姿が目に留まりました。
「もしかして、あいつか!」
先週の月曜日、無礼な態度で彼女に接し、さらにはセルフの水まで汲みに行かせた客、あの恥知らずな男がテーブルに着いていたのです。一気に気分が悪くなりました。
それとなく様子をうかがうとテーブルの上にはまたしてもハイボールと唐揚げだけ。ひょっとして先週と同じようにこのメニューだけで23時まで粘るつもりなのでしょうか。あまりにも常識外れですがあの男ならやりかねません。
ただ前回と違う点がふたつありました。ひとつは服装です。上下は黒のスーツ。髪もビシッと決まって髭もきれいに剃られています。そして先日のような厚かましい態度は影を潜め、今日は静かに雑誌を読んでいます。彼女以外の店員には馴れ馴れしく接するつもりはないようです。恐らくあの男がでかい態度を取れるのは彼女だけなのでしょう。
「どうして彼女だけ?」
やはりただの常連客ではないようです。頻繁に店に来るだけの客ならどの店員に対しても同じ態度を取るでしょうから。つまりあの男と彼女の間には他の店員にはない別の繋がりがある、そう考えざるを得ません。
見ないでおこうと思ってもその男が気になって仕方がありません。スマホを見ながら、注文したパフェを食べながら、一緒に頼んだポテトをつまみながら、最後のクーポンを使って頼んだドリンクバーのコーラを飲みながら、私はその男を観察し続けました。
変わりません。今日は借りてきた猫のように静かです。空になった食器を片付けられた後は、無言で雑誌をめくったりスマホを操作したりしています。まるで別人のように紳士的な態度です。
「時間のムダだな」
すでに入店から1時間以上が経過していました。どうやら本当に23時まで粘るつもりのようです。私は会計を済ませ扉を開けました。
と、その時、その男も立ち上がりました。帰るつもりのようです。そして、それから私のしたことは。ああ、どうしてあんなことをしてしまったでしょう。あの時は倫理のタガが少し外れていたのかもしれません。私は一足早く店を出ると物陰に隠れました。そして遅れて出てきたその男の尾行を開始したのです。
「このまま帰宅するのか、あるいは別の場所に寄るのか」
それを知ったところで彼女とあの男の関係などわかるはずもありません。どうしても知りたいのならこんなコソコソした真似をせずあの男に直接尋ねれば済むだけの話です。
しかしそれは私と彼女の関係を告白することでもあります。私が尋ねれば男はこう言うに決まっています。「そんな質問をする君のほうこそ彼女とはどのような関係なのだ」と。藪をつついて蛇を出すような愚行は避けねばなりません。こちらの存在を知られぬまま相手の情報を得る、これこそが最善の策と言えましょう。
「自転車、大丈夫かな」
さすがに尾行に自転車は使えません。店に置いていくことにしました。すぐに撤去されるとも思えませんが長引くようなら途中で中断して引き返せばいい、最初はその程度の軽い気持ちで歩いていたような気がします。
午後6時の薄明に紛れ、適度な距離を取って男の後を追いました。酒が入っているせいか男は無警戒でした。こちらにはまったく気づいていないようです。わざわざ身を隠したりせずそのまま並んで歩いても気づかれないのではないか、そんな考えさえ浮かぶほどに男の注意力は散漫でした。
20分ほどで私の尾行は終わりました。男がアパートの敷地に入ったのです。私の住居と同じく2階建て全8戸、この辺りではよく見掛ける造りの建物です。
「真っ直ぐ帰宅しただけか」
なんとなく拍子抜けしてしまいました。男の
「どうしてチャイムを?」
それは玄関の鍵を開ける動作ではありませんでした。明らかに呼び鈴を押していました。つまり男は一人暮らしではなかったのです。
はっきり言って驚きました。と同時に驚いた自分を滑稽に思いました。30才前後の男が所帯を持っていたとしても少しもおかしくありません。むしろ独り者だと思い込んでいた私のほうがおかしいのです。そしてすでに妻がいるのならたとえ彼女と何らかの関係があったとしても今以上に親密になることはないでしょう。
これは大きな収穫でした。20分は無駄ではなかったのです。
「帰るか」
それなりの達成感に浸りながら店に戻ろうとした時です。玄関の扉が開きました。女性が出てきました。「おかえり」という声が聞こえました。
「馬鹿な……」
たぶん震え声だったと思います。一度だけでなく何回もつぶやいていたような気がします。日はとっくに沈みアパート周辺は闇に包まれていました。通りの街灯、アパートの門柱灯、玄関上部の照明。これらの光が照らしだしたのは彼女でした。玄関を開けてあの男を迎えたのはファミレスの彼女だったのです。
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