指輪の力がかくも偉大であったとは

 10月16日(金) 曇時々晴


 どん底です。


 ああ、もう金曜日なのですね。前の日記から3日もたってしまいました。この3日間はウキウキでした。あっという間に過ぎていきました。ファミレスにも何回か行きましたが彼女とはそれほど言葉を交わしませんでした。


 どうしてかって?


 今日のためです。思う存分彼女と会話するためにこの3日間はできるだけ彼女との交流を控えていたのです。

 毎日ビールを飲むよりも1か月我慢した後に飲んだほうが美味しく感じられるでしょう。それと同じですよ。

 そうです、今日は彼女と約束した食事の日だったのです。本当は翌日すぐに行きたかったのですが仕事のない日にゆっくり楽しみたいという彼女の意向に沿って、彼女の休日である今日まで3日間待っていたのです。


 どん底です!


 まさかこんなことになるなんて。人生一寸先は闇ですね。私にとって初めての女性との食事。初めての女性とのデート。期待するなというほうが無理というものです。そして期待が大きければ大きいほどそれが裏切られたときの落胆も大きくなるのです。


 準備は万端でした。


 選んだのは駅に近い和食の店です。最近ファミレスの洋食ばかりで少し和食が恋しくなっていたのでそこに決めました。彼女も和食は好きなようで賛成してくれました。

 残念なのはディナーではなくランチになったことです。翌日は早出のシフトが入っているので夜遅くなるのは気の毒だと思ったからです。彼女は夜でも構わないと言ってくれましたがさすがにそこまで好意に甘える気にはなれませんでした。


「こんにちは」


 待ち合わせの駅前広場にはすでに彼女が来ていました。初っ端から大失敗です。彼女を待たせないように約束の30分前に着いたのですが彼女はそれよりもさらに早くから待っていてくれたのです。


「お待たせしてすみません」

「気にしないでください。私が早く来すぎただけですから」


 いつもと同じ彼女の微笑みに心が癒されました。ベージュのカーディガンにカーキ色のパンツ。スカートを履いていない彼女の姿はとても新鮮に感じられました。普段とは違うワイルドな魅力。こちらの野生も目覚めてしまいそうです。

 もちろん私のほうだって負けてはいません。いつもはラフな服装で外出していますがこれでも元会社員。よそ行き服や勝負服くらいはちゃんと持っているのです。

 少し早いですが予約した店へ向かいました。


「落ち着いたいい店ですね」


 気に入ってくれたようでした。彼女には「和食の店」とだけ教えて具体的な店名は秘密にしていたのです。これで彼女よりも遅く来た最初の失敗は帳消しですね。

 料理はコースを予約しておきました。初めての店ですし、メニューを見て選ぶのが大変なことはファミレスで体験済みですから。


「忘れないうちにこれを返しておきます。おかげで助かりました」


 差し出したのは3日前に借りたハンカチです。ファミレスには毎日のように食べにいっていたのでその気になればもっと早く返せたのですが、ついでに手渡すような軽い気持ちではなく、きちんとした場できちんとお礼を言って返したかったのです。


「そんな、そのまま差し上げるつもりでしたのに。あら、これは?」


 ハンカチの裏には小さな包みを隠しておいたのです。すぐ気づいてくれました。


「お礼の品です。ハンカチと、それから今日の食事に付き合ってくれたことへの」

「開けてもよろしいの?」

「どうぞ」


 細やかな仕草で包みを開ける彼女。中身を取り出して小さく歓声をあげました。やはりおそ松さんの缶バッチにして正解だったようです。


「嬉しい。ありがとう。大切にします」


 玩具をもらった子どものように声を弾ませる彼女を見ていると、幼い頃の純朴な自分がよみがえってくるような気がします。やがて料理が運ばれてきました。


「わあ、美味しそう。いただきます」


 食事をする彼女を見るのは初めてです。とても品の良い食事作法、美味しさを素直に喜ぶ笑顔、そして周囲の者を和ませる明るい雰囲気。一緒に食事をしていてこれほど楽しくなれる女性は滅多にいないでしょう。


「少しだけ、飲んでもよろしいかしら」

「もちろんです」


 アルコールもかなりいける口のようです。私はやめておきました。自転車で来ていますからね。酒気帯びなら大丈夫ですが酒酔いの対象には自転車も含まれているのです。


 会話は弾みましたよ。どんどん自己紹介しました。会社を辞めて今は投資家として生計を立てている話をすると彼女は大きく頷きました。ファミレスでもスマホでチャートを見ているので、そんな感じの人なのかなと思っていたそうです。

 彼女もまた私に興味を持っていてくれたのだと知って嬉しくなりました。そして私の年収を知ったときの彼女の目の輝き。ようやく私を絶好の買い銘柄だと認識してくれたようです。


 もっと親密になりたい!


 食事をしながらそう思いました。残念なことに彼女の連絡先はまだ教えてもらえていないのです。私のほうは電話番号もアドレスも教えましたが、彼女にはやんわりと拒否されてしまいました。


「着信に縛られるのが煩わしくて電源はいつもOFF」


 だそうです。まあファミレスに行けば会って話もできるわけですし、彼女の自由な生き方は尊重しなくてはいけませんね。


 どこに住んでいるのだろう。実家なのか、一人暮らしなのか。


 仕事場のファミレスまでは徒歩通勤。今日も駅まで徒歩で来たと言っていました。ファミレスから駅までは徒歩で40分の距離。おそらくその中間あたりに彼女の住まいがあるのでしょう。


 妙だな。


 違和感がありました。食事作法は申し分ないのですが左手をあまり見せたがらないのです。椀や小鉢を左手に持つときも素早く潜り込ませてなるべく目立たせないような動作で食事しています。


 傷跡でもあるのかな?


 気になった私は彼女の左手を注視するようになりました。そしてその理由が飲み込めた瞬間、自分の描いていた将来の理想像が一気に崩れ落ちるような虚脱感に襲われました。彼女の左薬指には指輪がきらめていたのです。


「いつまでも隠し通せるはずもありませんね。ごめんなさい」


 私が気づいたことに彼女も気づいたのでしょう。伏し目がちにそう言うと左手を大きく開いて私に示しました。


「結婚されていたのですか」

「違います。独身です。でも、あの、その、親しくしている男性がいて」


 独身と聞いて少し安心しました。最悪のケースだけは避けられたようです。しかし絶望的な状況であることに変わりはありません。


「だけどファミレスでははめていませんでしたよね。これまで一度も見たことがありません」

「店では仕事の邪魔になりますから外しているのです。本当は今日もつけたくはなかったのです。でも彼に、指輪をはめていけって、強く言われて、それで仕方なく……あなたをだますつもりはなかったのです。ごめんなさい」


 悪意は感じられませんでした。本当は彼氏がいるのに恋人募集中のようなふりをしてたくさんの男を手玉に取る、そんな尻軽女たちの言い訳とは似ても似つかぬ誠意と謝罪の気持ちが彼女の言葉には込められていました。


「そうでしたか。いえ、別に謝ることはありませんよ。無理に誘ったのは私のほうですから。さあ、食事を楽しみましょう」

「やっぱり外します」


 驚きました。いきなり彼女が指輪を引き抜いたのです。まるで汚らわしいものにでも触れるかのような荒々しい仕草。そこには憎しみさえ感じられました。物静かな普段の彼女からは想像もできないような激しい口調と態度に、私は何も言えずただ眺めているだけでした。


「さあ、食事を楽しみましょう」


 先ほどの私の言葉を反復して食事を続ける彼女。私も食事を再開しましたがその後の料理の味はまったく覚えていません。どんな会話をしたのかも記憶にありません。我を取り戻したのは一人になって自転車にまたがったときです。ただただ空虚でした。


 今日の食事の後で次の食事の約束をする、その食事の後で映画へ行く約束をする、映画を見終わったあとに遊園地へ行く約束をする、遊園地から帰るときに旅行の提案をする……


 それが私の描いていたプランでした。そうやって彼女との距離を一歩ずつ縮めていけば、やがて私の思い描いていた将来の夢に到達できると考えていました。

 しかしそのプランは最初の一歩でつまずいてしまいました。左薬指の指輪、なんと恐ろしいアイテムなのでしょう。男女の仲を強力に結びつけるだけでなく、男女の仲を強力に引き裂いてしまう魔法のアイテム。それを目にしただけで男も女も自分の中にある恋心に修正を迫られるのです。


「あれだけの女性だもの」


 冷静になって考えてみれば当たり前のことでした。年はまだ教えてもらっていませんが話の内容から推察して恐らく私と同年代でしょう。女盛りの美貌に加えて整ったスタイル、穏やかで優しい性格、臨機応変な知性。これほどの女性がおひとり様なわけがありません。むしろ付き合っている男がいないほうが不自然です。そこに思い至らなかった自分は本当に浅はかでした。


「どんな男なのだろう」


 想像もできません。彼女にふさわしい立派な男なら諦めもつきます。が、今の私はそこに大いな疑念を抱いているのです。食事中は気が動転していて満足に考えることもできませんでした。しかし帰宅して頭を冷やし、こうして今日の出来事を振り返っているうちに、ひょっとしたら私は真実を見誤っているのではないかという気がしてきたのです。その理由は食事中に見せた彼女の態度にありました。


「明らかに嫌がっていた」


 どうして付き合っている男の話をしなかったのでしょう。どうして指輪を隠そうとしたのでしょう。そしてどうして指輪を引き抜いたのでしょう、指に刺さった忌々しいトゲを抜くような憎悪にあふれた仕草で。愛を約束して相手から贈られた指輪であればもっと大切に扱うはずです。


「ふたりの間にはすでに亀裂が入り始めている?」


 人の心は変わるもの。移ろいやすく儚いもの。その最たるもののひとつが恋愛感情です。

 彼女の気持ちになって考えてみましょうか。彼とはすでに倦怠期に入ってしまった。そんな時、突然自分の前に私という男が現れた。その男は明らかに自分に好意を抱いている。毎日顔を合わせるうちに気持ちが引き寄せられていく。そして今日食事に誘われた。無理矢理はめられた指輪が憎くて仕方がない。我慢できずに引き抜いてやった……もちろん憶測なので断定はできません。しかしこれまでの私に対する接し方。そして今日、食事中に見せた嫌悪に満ちた態度。全て私の憶測を肯定する事実ばかりです。


「まだチャンスはある!」


 そうです。日本は自由恋愛の国。結婚や婚約をしていない相手ならば誰と付き合おうと咎められはしません。愚かでした。たかが指輪如きでどうしてこんなに弱気になってしまったのでしょう。愛は惜しみなく奪うものと明治の文豪も言っているではありませんか。彼女を奪わねば私の幸福は成立しないのです。ならば躊躇は不要です。喜んで略奪者の汚名を受け入れようではありませんか。


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