あの視線は気のせいなどではありません

 10月7日(水) 曇


 今日も行ってきましたGoToイート。

 利用し始めてからまだ3日なのに食事の回数は5回です。初日はランチしか予約できませんでしたが翌日からはランチとディナー両方を予約しました。本当はもっと予約して来店したいのですがポイント申請は1日2回までなのですよね。まあポイントを使わず全て自腹で払えば何度でも来店できますが、さすがにそこまで頻繁に足を運ぶと呆れられてしまいそうなので。


 呆れられる? 誰に?


 言うまでもなく彼女にです。5回ともあのファミレスを利用しています。他の店には行っていません。そして5回とも彼女に会えました。しかも5回とも彼女が注文を取り、料理を運び、会計をしてくれたのです。他にも店員がいるのに、ですよ。


 たんなる偶然。


 そうかもしれません。たまたま手が空いていたのが彼女だけだった、それだけのことなのかもしれません。

 でもそれ以外にも感じることがあるのです。

 視線です。

 それほどあからさまなものではないのですが、なんとなく気配を感じてそちらに目を遣ると彼女がこちらをじっと見ている、そんなことが何度もあるのです。これを偶然と言えるでしょうか。

 そうなるとこちらも妙に気になってしまって、他の客の対応をしている彼女の横顔を眺めたりしてしまうのですが、そんな時に限って彼女もこちらに顔を向けたりするのですよね。私のチラ見がばれても彼女は嫌な顔ひとつしません。それどころかいつもの優しい微笑みを見せてくれるのです。


 これはもう偶然とは言えないでしょう!


 そうそうこんなモノもいただいてしまったのでした。

 これを見るたびに嬉しくなります。昨日、夕食の後に彼女から手渡しでもらったのです。


「よければお使いください」


 それはクーポン券でした。ドリンクバーとデザートの割引券が5枚つづりになっています。どうして私に、そう思いました。なぜならそのクーポン券を他の客に渡している姿を一度も見たことがなかったからです。私だけへのサービスなのだ、そう考えていいのではありませんか。


 そしてそのクーポン券を切っ掛けにして今日はさらに親交を深めることができました。ランチを注文するとき、クーポン券を使ってドリンクバーを付けようとしたのです。すると、


「申し訳ありませんがそれは使えません」


 との返事。

 これには面食らいました。昨日「お使いください」と言って渡されたクーポン券を今日利用しようとしたら「使えません」と言われたのですから。慌てて有効期限を見ても今月末までです。頭が混乱してしまいました。


「理由を教えてくれませんか」

「はい、それは……」


 そうして彼女は丁寧に説明してくれました。実に単純な話でした。そのクーポン券はスープ付きセットなどのセット料理には利用できないのです。私が注文したランチセットにはスープバーが付いているので使用不可となってしまうのでした。そしてクーポン券の裏にはそれらのことがきちんと説明されていることも教えてくれました。

 自分の無知があまりにも恥ずかしくて私は体が震えました。そこに穴があったら確実に入っていたことでしょう。


「わかりました。それでは単品なら利用できるのですね」


 急いでグランドメニューに目を通しました。どれもこれも高額な料理ばかりです。だからと言ってフライドポテトのような安価なものでは昼食になりません。結局500円を少し上回るスパゲッティを注文することにしました。


「これにします。これならクーポン券を使えますよね」


 メニューを指差してそう言ったのですが返答がありません。またヘマをやらかしたのだろうか、私の心臓が高鳴りました。けれどもそれは思い過ごしでした。


「使えます。でも……」


 そうしてまたも彼女の説明が始まったのです。ランチセットはライスの他にスパゲッティをメインにした料理もあるのです。それにはサラダとドリンクバーがセットになっているのでスパゲッテイ単体にドリンクバーを付けるよりもはるかにお得なのでした。


「少しお高くなりますがこちらのセットにされてはいかがですか」

「そうですね。ではそれでお願いします」

「クーポン券はまた別の機会に使ってくださいね」


 ああ、なんという至福の時間だったことでしょう。あれほど長時間彼女を独り占めできたのは初めてでした。いや、母以外の若い女性とあれほど親密に会話したのは生れて初めてではなかったでしょうか。


 どうです、これでもまだ彼女が5回とも私に応対してくれたのは偶然だと言えますか。普通の店員ならば私の損得など気にせず言われたままのオーダーを通すはずです。しかし彼女は違っていました。私の不利益にならないよう気を遣ってくれたのです。そのうえ私の希望に沿うようにアドバイスまでしてくれたのです。私に対する扱いは一般客とは明らかに違うと言っていいのではないでしょうか。


「どうして特別扱いしてくれるのかな」


 今日はずっとそのことばかり考えていました。為替のチャートを見ていても何も頭に入ってきません。そう言えば今日は夜半過ぎにFOMC議事要旨公表があるのでしたね。いつもなら発表後の為替の動向が気になって発表前からソワソワドキドキするのですが、今夜は別の理由でソワソワドキドキしています。まるで名作映画を鑑賞し終わったときのように、彼女との長時間の会話の余韻が今もまだずっと続いているのです。


 彼女が私を特別扱いする理由、それはきっと彼女も私と同じ気持ちを抱いているから。


 そうとしか考えられません。他にどのような理由があるでしょうか。好意を抱いた相手でなければあれほど親切に接することなどできないはずです。

 予感はありました。2日前に初めて彼女の顔を直視したとき、私は運命のようなものを感じたのです。6日前から始まったGoToイートキャンペーンがなければ外食などしなかったでしょう。5日前に届いた母からの手紙がなければ今の生活に疑問を抱くことはなかったでしょう。自転車で行ける距離でなければあのファミレスに予約などしなかったでしょう。

 これらの事象が積み重なった結果、私は彼女に出会いました。若き日の母によく似た彼女に。全てが私と彼女を引き合わせるために動いているような気がします。やはりこれは運命です。運命ならば従わざるを得ません。運命に抗することほど愚かな行為はないからです。



 10月8日(木) 雨


 朝からシトシトと降り続く、自転車乗りにとっては憂うつな一日。そして今日は予約を一件しか入れられませんでした。きっと「無限回転寿司」となどというGoToイート攻略法が広く流布されたからでしょうね。日を追うごとに予約可能な時間帯が激減しているのです。

 今日も午後3時という食事をするには中途半端な時間しか予約できませんでした。そのうち一件も予約できない日も出てきそうで、それを思うとますます憂うつになってしまいます。


 ただこんな時でも天は私の味方でした。それまでシトシト降っていた雨が午後2時半頃に上がったのです。歩いて行こうと思っていた私は予定を変更し自転車でファミレスに向かいました。憂うつな気分が少しだけ晴れました。


「勇気を出してよかった」


 まずはこれを書いておかなくてはいけませんね。GoToイート利用者が増えてくれば予約を入れづらくなり、その結果彼女とは毎日会えなくなるかもしれない、そんな危機感が私を後押ししてくれたのだと思います。今日は私から話をしてみたのですよ。これもまた人生初の試みだったと思います。


「何にしようかな」


 今日の私は迷っていました。すでに昼食は家で済ませていたのでそれほど空腹ではなかったのです。軽めの食事にしたいところですが、最近GoToイートの規約が変更になりディナーの場合は1000円以上の注文でなければポイントが付かなくなりました。すでに午後3時を回っているので嫌でも1000円以上の料理を頼まなくてはなりません。


 迷った末に選んだのは期間限定のパフェとフライドポテトでした。それでも1000円には届きませんが私には考えがあったのです。


「ご注文はお決まりですか」


 こうして文字にするだけで物柔らかな彼女の声が聞こえてくるようです。私が料理名を告げると彼女は首を傾げました。


「それでは1000円になりませんが、よろしいですか」


 そう、この心配りこそが彼女の本質と言っていいでしょう。客に還元されるポイントなんて店員にはどうでもいいことなのに、わざわざこうして注意を促してくれるのです。その優しさに感動しながら私はドリンクバーの割引クーポン券を一枚渡しました。これを加算すれば1000円になるのです。彼女の顔が明るく輝きました。


「ようやくクーポン券を使えましたね。おめでとうございます」


 他人の幸福を我が事のように喜んでくれる、本当に心のきれいな女性です。この雰囲気なら大丈夫のはず、私は彼女に顔を向けるとゆっくりとした口調で尋ねました。


「ひょっとしてアニメのおそ松さんを楽しんでいるのではないですか」


 唐突すぎる? いえいえ、そんなことはありません。昨日、水とおしぼりを取るために席を立ったとき、店内の目立たない場所で休憩している彼女の姿が目に入ったのです。椅子に腰かけてスマホを操作していました。そのスマホのストラップがおそ松さんだったのです。彼女は一瞬驚いた表情をしましたが、すぐ笑顔になり弾んだ声で答えてくれました。


「はい。あなたも観ているのですか」

「いえ、私は観ていません。でも母が観ているのです。実はあなたは母の若い頃にとてもよく似ているのですよ。だから何だか他人と思えなくて」

「そうなのですか。実は私も……いえ何でもありません。それでは注文を繰り返しますね……」


 やはり運命としか思えません。顔が似ているだけでなく趣味まで母と同じなのです。これまでまったく出会いがなかったのは彼女と私を結び付けるための神の采配ではなかったのか、そんな気さえしてくるのです。

 この3年間で貯金も増えました。毎月の利益も会社員の手取り程度には出せています。彼女と一緒になるに当たって何の不都合も見当たりません。あとは私がもっと勇気を出せるかどうかにかかっているのです。そして彼女もそれを待っているに違いないのです。

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