男は私ひとりだけではないのです
10月12日(月) 曇
今の気分は最悪です。週末から今日にかけては思い出したくないような出来事の連続でした。
まず金曜日と土曜日。この2日は予約が一件も取れませんでした。GoToイートが浸透して利用客が増えたためでしょう。両日とも雨だったので外出せずに済んだのは助かりましたがすっかり気分が滅入ってしまいました。
日曜日はなんとか夕方にひとつだけ予約が取れました。3日間降り続いていた雨がやんだので自転車で行こうとしたら、運の悪いことに出掛ける直前から降り始めました。
「ツイてないな」
仕方なく自転車を諦め、傘を差して店に向かうと泣き面に蜂、さらにツイてない出来事が起こりました。出迎えてくれるはずの彼女の姿がなかったのです。お休みなのか、別の時間帯勤務なのか、たまたま職場を離れていたのか、まあそれがわかったところでどうなるものでもありません。
意気消沈していつもようにディナーセットを注文。少しも美味しくありませんでした。私にとって彼女は料理を引き立たせてくれる最高の調味料なのです。
仕方ないね。
ああ、そうですね。こんな愚痴を書き連ねるのは実に見苦しいことです。雨が降るのも予約が取れないのも彼女がいなかったことも起こるべくして起きているのですから。
私にとっての不幸も他人にとっては幸福。雨が一滴も降らなければ野菜農家が困るでしょうし、他の人だってGoToイートを利用したいでしょうし、彼女だって休みなしで働くわけにはいきませんからね。
その点では週末の最悪もまあ仕方のないことです。この2日は完全に予約が埋まっていました。ポイント付与は諦めて予約せずに行ってもよかったのですが、私の中の「お得への執着」がそれを拒みました。予約が増えたのは、きっと最近よく見かける家族連れの皆さんでしょう。これからは週末の利用は諦めたほうがいいかもしれません。
「そして今日、月曜はもう最悪!」
予約はなんとか取れました。しかし取れた時刻は午後9時半です。幸い雨は降らなかったので午前中に食料品の買い出しに行き、昼食と夕食を済ませてから自転車でファミレスへ向かいました。
「いらっしゃいませ」
この軽やかな声を耳にした途端、それまでの暗かった気分がいっぺんに吹き飛びました。4日ぶりの彼女の声。彼女の姿。私にとって彼女は疲れた体と心を一瞬で回復してくれる最高の栄養ドリンクなのです。
月曜夜のファミレス。
人はまばらでした。私の他にはおひとり様の男性客が1人。2人連れの男女が1組。それだけです。
何回も利用していて気づいたのですが、店が許容している予約は一つの時刻に一件だけのようです。その時刻に誰かが予約を入れれば、店の混雑状況にかかわらず他の人はもう予約できない、そんなシステムみたいです。ですから予約が取れないからと言って店が満員であるとは限らないのです。
「お久しぶりですね」
「なかなか予約が取れなくて」
今では彼女とこんな会話を交わすまでに親しくなっています。
注文はどうしようか迷いました。夜8時以降の食事は脂肪が付きやすいと聞きます。ただでさえ運動不足気味なので重い食事は避けたいところです。しかしポイント付与のためには1000円以上利用しなくてはなりません。
それでは夜食の定番ラーメンでも食べようかと思っても、ファミレスのメニューにそんなものがあるはずありません。さんざん迷った挙句、これまで一度も食べたことがないドリアをいただくことにしました。
最近外食ばかりで目に見えて腹回りがたくましくなりつつあります。これからはランチやディナーでもセットメニューばかりでなくヘルシーな料理を注文したほうがよいかもしれませんね。
「何だろう、あの口の利き方」
書きたくありません。思い出しただけで胃がムカムカしてきます。しかしこれはどうしても書き留めておかなくてはなりません。2人連れの客は静かに食事をしていたのですが、おひとり様の客はどうにも態度が悪いのです。彼女に対して非常になれなれしく接するのです。
「知り合い?」
あるいは私と同じように常連客なのかもしれません。もしそうだとすればこれまで一度も目にしたことがない人物なので、きっと夜が遅いこんな時間ばかりに来店しているのでしょう。
気になった私はそれとなく男の様子を観察しました。年は30才前後でしょうか。10年くらい
テーブルに置かれているのは角ハイボールと唐揚げ。それだけで何時間も粘っているような感じです。今はコロナの影響で午前零時閉店ですが、24時間営業中ならいつまでも居座り続けるような
「あの男、この店の近くに住んでいるのかも」
そう推理したのには理由があります。いくらいい加減な男でもアルコールを飲む以上、車やバイクでは来ていないはずです。しかしこの辺りにバス亭はないし最寄りの駅は徒歩で40分以上かかります。そんな距離を往復するくらいなら駅に近い店で飲むはずです。にもかかわらずこんな交通の便の悪い店で飲んでいるということは、ここが手軽に立ち寄れる店、つまり生活圏の範囲内にあると考えるのが一番理に適っています。
「みずぅ~、飲みたいなあ」
右手に持ったコップを高く掲げる男。どこまで厚かましいのでしょう。水やおしぼりはセルフであることくらいわかっているはずなのに。あまりの傍若無人さに私は少しイライラしてきました。しかしこの後、さらに私をイライラさせる出来事が起きたのです。
「いつまでも甘えん坊さんでは困りますよ」
そう言ったのは彼女でした。そして男が掲げたコップを取ると水を入れて男に手渡したのです。目の前で繰り広げられる信じがたい光景に私の心臓は凍り付きそうになりました。
「はいどうぞ」
「ありがとさん」
「飲み過ぎると明日の仕事に差し支えますよ」
「これくらい飲んだうちに入らねえよ。余計なお世話だ」
このセリフを書き終わった瞬間、全身の血が逆流するほど怒りが込み上げてきました。それはもう一般客と店員の遣り取りではありません。あの男と彼女は相当親密な仲、そう、少なくとも私などよりもっと昔からの知り合いであることを認めざるを得ませんでした。今の私があの男のように水を頼んだら、はたして彼女は入れてきてくれるでしょうか。わかりません。自信がありません。試してみる勇気もありません。
「ドリアはどんな味だったっけ」
それからの私は完全に心ここにあらずの状態でした。2人連れの客が帰って店内が私とあの男だけになると男はさらに饒舌になりました。私は全神経を耳に集中させて彼らの会話を盗み聞きしました。初めて食べるドリアの味はさっぱりわかりません。何を口に運んでいたかも思い出せないほどです。
「ありがとうございました。またのご利用をお待ちしています」
彼女との会話がほとんどできないまま店を出ました。暗く落ち込んだ心を抱いて夜道に自転車を走らせました。彼女の声と姿を聞けたのにこれほど気分が落ち込んでしまったのは初めてでした。
「今週の重要経済指標、金曜日の米国小売売上高」
気晴らしに為替レポートの閲覧や投資戦略の検討をしたり、今週の予定に目を通したりしたのですが何も頭に入ってきません。
ただ、あの衝撃から数時間が過ぎた今、こうして文字として書き記したおかげで私の頭は冷静を取り戻し始めています。考えてみればそれほど異常なことではありません。いや、むしろ当たり前のことではないでしょうか。
彼女はおそらく30才手前、男友達の1人や2人いたところで少しも不自然ではありません。逆にそれは彼女の魅力の証明でもあります。出会って10日足らずの私ですらこんなに親しい間柄になっているのです。数か月、数年通っている客がいたとしたら、セルフの水を入れてきてあげるくらいの間柄になっていたとしてもおかしくはないでしょう。
「家族ってパターンもある!」
自分で書いて噴き出しそうになりました。ラブコメ漫画やアニメで多用される勘違いシチュエーションのひとつです。まあそれは出来過ぎだとしても近所に住む幼馴染だとか高校の同級生だとか「親密な間柄なのが当たり前」なパターンはいくらでもあります。思い込みでヤキモキしていても仕方ありません。
「人生明るく前向きに」
それが上手に生きるコツ、そして投資を長続きさせるコツです。憶測であれこれ考えず彼女に直接尋ねればいいのです。あの男とはどんな関係なのですかって。ヤキモキするのはそれからでも遅くありません。
ああ、何だか気分がスッキリしてきました。人間、何事も気の持ちようですね。そうそう忘れていました。これまでにないくらい最悪の4日間だったわけですが、たったひとつだけ良いことがあったのです。
彼女の名前を知ることができました。
聞き出したわけではありません。さすがにまだそんな仲ではないですからね。あの男が口にしたのです。ちゃん付けで呼んでいました。それを聞いたときの私の驚き、想像できますか。
「母と同じ名前だ!」
またも天は私に味方してくれました。姿だけでなく名前まで母と同じなのです。もちろん音で聞いただけなので字はわかりません。当てはまる漢字がいくつもありますし平仮名の可能性もあります。その点ではまだ母と同じだと断言はできませんが、少なくとも音は同じなのです。ただの偶然では済ませられない運命のようなものを感じています。
よかった、日記の最後を明るい話題で締めくくることができて。これで今晩も熟睡できそうです。おっと、もうひとつ明るい話題がありました。雇用統計の後にポジった105円ロングが106円で決済されていました。100ピピ取れましたよ。10月は幸先の良いスタートです。
もっとも今の私は取引にはほとんど興味がありません。新規のポジションは持たずにしばらくお休みしようと思います。手持ちのポジはスワップポイント目的のトルコリラ以外全て決済注文を入れてありますので、放置したままでも問題ありません。
不思議なものです。これほどまでに投資に対する興味が薄れてしまったのはこの3年間で初めてです。今の生き方に別れを告げ、別の道を歩き始める時が来ているのかもしれません。
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