彼女は母によく似ていたのです

 10月2日(金) 晴


 本日午後9時半発表のアメリカ雇用統計の影響はほとんどありませんでした。予想通りです。現在105円台進行中。指標の影響を考えて104円ロングは午前中に利確しておいたのですが、その必要はなかったかもしれませんね。まあ130ピピ取れたので良しとしましょう。


 ♪白ヤギさんからお手紙ついた。


 そうそう母から手紙が届いたのです。黒ヤギさんみたいに読まずに食べたりしませんよ。ちゃんと読みました。ありがたいことに母は1クール、3か月ごとに手紙を寄越してくれるのです。なぜ1クールかと言うと母はアニメが大好きでその感想を誰かに言いたくて仕方ないようなのです。


「夏アニメは女子高生釣りアニメがマイベスト! 10月から始まる秋アニメはおそ松さん3期が楽しみ」


 などと書いてありました。もちろん最近世間を賑わせている鬼退治の映画もすでに観に行ったようです。


 なぜ手紙? 電話は? メールは? ラインは?


 今時珍しいですよね、手紙でやりとりをするなんて。母は口ベタでよほどのことがない限り電話を使いたがらないのです。そして携帯やスマホのたぐいは未だに所有していません。ぜいたく品だと思っているようです。もちろん実家にネット環境はありません。


「母さん、変わらないなあ」


 父を早くに亡くしたひとりっ子の私は幼い頃から母とふたりだけの生活でした。死亡保険金と遺族年金、そしてパート勤めの母の給料でどうにか生計は立ちましたがそれでもつましい生活でした。いつか母に楽をさせてやりたい、それだけが子供の頃の私の願いだったと思います。

 怒りに任せて会社を辞めてしまったとき、真っ先に頭に浮かんだのは母の悲しむ姿でした。無職になってもアパートを出て実家に帰らなかったのは、あんな田舎では就職先どころかバイトだって簡単には見つからないから、ということもありますが、一番大きな理由は女手ひとつで私を育ててくれた母に顔向けできなかったからに他ありません。


「おまえの好きにすればいいよ」


 母の口癖をこうして文字にすると優しい声が聞こえてくるような気がします。いつもそうでした。進学先を都会の大学に決めたときも、地元ではない企業に就職したときも、2年もたたずに退職してしまったときも、母は決して反対の言葉を口にしませんでした。そして私の思うがままにさせてくれたのです。ありがたいです。

 日記なんかに書かず直接ありがとうと言ってあげればもっと喜ぶのでしょうが、面と向かって礼を言うのはさすがに照れくさいですね。今回も手紙で返信することにしましょう。


 慈母の涙の成分は水と塩分だが、分析できない愛情がこもっている。


 科学者ファラデーの言葉。母は私の前で涙を流すことは滅多にありませんでした。けれども陰でひっそりと泣いていたのは知っています。

 実家を出てから3か月ごとに送られてくる手紙にも弱気な文章は一切ありません。だからこそ、その行間からにじみ出てくる母の寂しさが余計に胸を打つのです。子供と離れて暮らす親の喪失感がどれほど深いものなのか、恋人さえいない私には想像もできません。せめて愉快なアニメでも観て気を紛らわせてくれればと願うばかりです。


「短期的には上げ基調っぽい?」


 母には申し訳ないのですが今の私の関心事は親の心情ではなく為替の動き。ジリジリと円安進行中。104円台に落ちたのはほんの一瞬でした。この調子だと来週は105円台で推移しそう。ひょっとして106円台もある? もう一度ロングをポジっておこうかな。まあ来週からGoToイートで外出が多くなるので枚数は少しだけにしておきましょう。



 10月5日(月) 曇


 今月から始まったGoToイートキャンペーン、一体誰が考えたのでしょうね、補助が半額程度のトラベルはまだしもイートの負担は最初のみ。それ以降はポイントで飲み食いできるなんて大盤振る舞いにもほどがあるでしょう。まあそのおかげで久しぶりに外食をする気になったので文句は言えませんが。


 先月のうちにいくつかの予約サイトに登録。今日の昼、さっそく食べに行ってきました。ファミレスに入るのはそれこそ十数年ぶりってレベルです。

 そこそこ賑わっていましたがおひとり様は私だけみたいでした。別に恥ずかしくなんかありませんよ。最近は「一人席」を用意してくれている店だってたくさんあるんですからね。


「こちらへどうぞ」


 通されたのは4人掛けテーブル。どうやらここのファミレスには「一人席」はないようです。ひとりで4人分も占領してしまうとどうにも心苦しくて仕方ありません。変に気を遣ってしまうのが私の悪い癖です。

 注文したのはランチセット。もちろんライスは大盛りです。無料ですからね。GoToイートでは数十円の調味料を注文してポイントを稼ぐなんて手法もあるようですが恥ずかしくてできません。度胸のある方が羨ましいです。

 それにしてもこのお値段はどうなのでしょう。ランチなのに少し高すぎませんか。税込みだと800円近くします。牛丼並2杯分ですよ。昔はもっと安かったような気がするのですが。500円のポイントが付かなければ絶対に利用しない値段設定です。


「105円半ば。小動きだな」


 為替の動きがどうしても気になって、こんな場所でもスマホでチェックしてしまうのですよね。先週のクローズ値からほとんど変動ありません。金曜日にポジったロングはプラスを維持していて一安心。


「お待たせしました」


 料理が運ばれてきたところで気がつきました。スプーンやフォークなどの食器ボックスは提供されているのですが、肝心のお水がまだ出されていないのです。言いました。


「あの、すみませんがお水をもらえますか」


 今、このセリフを文字にしただけで顔から火が出るほど恥ずかしくなります。少しの間をおいて定員さんのすまなそうな声が聞こえてきました。


「申し訳ありませんがお水はセルフになります」


 知りませんでした。子供の頃は持って来てくれたように記憶しているのですが。この店だけなのか、それとも全てのファミレスがそうなっているのか、事前にもっとリサーチしておくべきでした。


「あ、え、そうなのですか。失礼しました」


 さすがに焦りましたね。セルフと言われてもどこへ行けばよいのかわかりませんし、どのコップにどうやって水を入れればいいのかもわかりません。席を立ってまごまごしている私にその店員さんはこう言ってくれました。


「ご案内しましょうか」


 昼時でそこそこお客が入っているのこの申し出。なんて親切な店員さんなのでしょう。彼女は私をドリンクバーの場所まで連れて行ってくれました。そして水だけでなくランチとセットになっているスープバーや紙のおしぼりなども自由に使ってよいと説明してくれました。これほど他人に親切にされたのは何年ぶりでしょうか。水入りのコップと紙おしぼりとスープカップを手にした私に向かって、店員さんはにっこりと微笑んでくれました。


「ごゆっくりどうぞ」


 その時、私は彼女の顔を初めてまじまじと見ました。驚きました。まるで芸能人のように美しい女性だった、というのもありますが、もっと驚いたのは母に似ていることです。年は20代後半でしょうか。私の母はすでに50才を超えているので二回り以上も年が離れていることになります。それなのに私は彼女に母の面影を見たのです。


「最後に母さんを見たのはいつだったかな」


 今でこそほとんどアパートにこもりっきりの生活をしていますが、学生時代も会社勤めの頃も盆と正月だけは人並みに帰省していました。辞表を叩きつけたのは9月でしたから、3年前の夏を最後に母の姿を見ていないことになります。

 母は年にふさわしい老け方をしていました。顔の皺、白髪、肌のたるみ。飾りっ気のない母は化粧をほとんどしません。素顔でも十分魅力的なのです。そしてファミレスの彼女の微笑みまた魅力的でした。

 しかし私が彼女に見た母の面影は3年前のそれではなく、もっと昔、まだ幼稚園の頃の母の面影に違いありませんでした。社会の厳しさも人付き合いの煩わしさも知らない幼い頃の私。疲れるまで遊んでお腹いっぱい食べて眠るだけの日々。その傍らでいつも優しい眼差しで見守ってくれた母。これまでの私の人生において一番幸福で輝いていた頃の母の面影を私は彼女に見たのです。


 初恋?


 どうなのでしょうね。中学や高校の時にもちょっと気になる女の子はいました。しかし今のこの感情とは少し違うように思います。好きというよりも一緒に歩みたい、苦楽を分かち合って長い人生の旅路を共にしたい、そんな思いが強いのです。伴侶、そう伴侶です。この言葉が一番しっくりきます。


「ん、動いたのかな」


 為替チャートは今も見ています。しかし今日の昼から見え方が大きく変わってしまいました。これまでの意気込みがウソのように興味が薄れてしまったのです。金曜日にポジったロングは106円で指値注文しました。相場がどうなろうと変更するつもりはありません。


 会社を辞めてからの3年間、チャートは私の全てでした。この動きに人生の全てを賭けている、そう断言できるほどにのめり込み、寝食を忘れてその動きを注視し続けていました。

 けれども今は違います。私の両目が彼女の笑顔を捕捉したとき、私の価値観に大きな変動が発生したのです。為替取引や金儲けよりもっと大切なものがある、彼女の笑顔は私にそう告げているような気がしました。


「こんな生活とは決別すべき時なのかな」


 一度ぬるま湯に浸かってしまうとそこから抜け出すのは容易ではありません。心の底では今の生き方は間違っているとは思っていても、それを変えるための一歩がなかなか踏み出せないのです。でもひとりではなくふたりだったらどうでしょう。彼女と一緒なら今の生活を変えられるのではないでしょうか。現に今、私の脳内の大部分を占めているのは為替ではなく彼女の笑顔なのですから。


「これが最後のチャンスかもしれない」


 努力してみようと思います。すでに最初の一歩は踏み出されているのですから。あとは諦めずに歩き続けるだけです。

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