第8話 顔のない君へ
「私の肖像画を描いてよ。」
そう約束したのはいつの話だっただろうか。
キャンバスを絵の具で塗り固めていた時、ふと思い出した。
幼少時代、絵ばかりを描いていた私は「男のくせに女みたいだ。」とよくからかわれていた。
そんな時、くしゃくしゃに丸められゴミ箱の中に投げ入れた私の絵を小さい手で一生懸命に伸ばしていた彼女を見た。
「何をしているんだい?それは僕が捨てた僕の絵だ。」
きっとからかうネタにでもするのだろうと私はつい声を荒らげてしまった。
すると彼女は私を見てふわりと笑った。
「あなたの絵は素敵だわ。こんなに優しい絵を描けるんだもの、将来はきっと有名な画家ね。」
鉛筆の濃淡のみで描いた風景画を大事そうに持つ彼女に心を奪われた。
「ねぇ、私の肖像画を描いてよ。」
その言葉に私は2つ返事で応えた。
その日のうちに、放課後の教室で彼女の顔を描いた。あの時の優雅に椅子に腰を掛け陽に照らされた彼女程、美しいものを私は見た事がない。
「できた!これで、いいかな。」
私は消し跡の残る拙い絵を彼女の前で広げて見せる。
「とっても上手ね!私この絵を一生の宝物にするわ。額縁に入れて、部屋の1番よく見える所に飾るんだから!」
まだ未発達な絵を彼女はとても喜んでくれた。
「大人になったら、うんと上手に君を描くよ。こんな顔の形もなってない絵なんかよりずっと素敵な物をプレゼントする。」
彼女を目を少し見開いてクスクスと笑いだした。
「えぇ、待ってるわ。約束だからね、できたらちゃんと私のところへ持って来てちょうだいね。」
数ヶ月後、彼女は亡くなった。
前から病気を持っていたそうだった。
最後まで大事にこの絵を持っていたと彼女の母親から、あの時の絵を渡された。
額縁に入れられた子供のお遊びのような絵を、一生の宝物だと笑ってくれた。そんな彼女はもう居ない。
気づけば大粒の涙を流していた。絵の中の彼女はこんなにも笑っているのに。
彼女の母親にそっと抱きしめられ、私が泣き止むまで背中をさすってもらった。
それから数十年、色々な事があった。今では孫もいるような歳だ。
嫁もいない老いぼれた爺が、誰に認められるまでもない絵を描き続けている。
近所では変人と囁かれていた。だが、私は彼女と約束した彼女の肖像画の作成に取りかかった。
風景画、動物画、人物画、あらゆる物を描いてきたため、そこそこ上手くなった方ではないかと自負している。
だが、見せる相手はもうこの世にはいない。
1つ咳払いをすると、口から生暖かい赤の絵の具が垂れてきた。
「はて、寝ぼけて絵の具でも飲んだかな?」
1人ごとを喋ると、口の中に鉄の味がじわりと広がる。その瞬間、胸に酷い痛みが走った。
胸を抑え込んで蹲る。動悸が、息切れが激しくなる。脂汗が額を流れ、どうしようもない吐き気が襲う。
しばらく蹲って唸っていると、症状が落ち着いてきた。
今のは一体なんだったのだろうか。きっと絵を描き続けた生活の乱れを見て見ぬふりしていたツケが来たのだろう。
「もう長く無いのならば、彼女の絵を最期にしよう。」
そう決めて、私は下絵の描いたキャンバスに向かう。
「彼女の指はスラッと長くて上品で、髪の毛は栗色でおさげがよく似合っていたな。そして服は白いワンピースが良く似合うと思っていたんだ。輪郭は丸みを帯びていて……」
口に出して思い出を確認しながらキャンバスに絵の具を塗り重ねていく。
数週間が経ち、ようやく顔に取り掛かろうと言うところだった。
彼女の顔が全く思い出せなかったのだ。
「目は……優しくて……いや、つり目だったかな?鼻は…シュッとして…うーん、違うような気がするな。」
筆を持つ手が震えていく。記憶の中の彼女がボヤけて行く。
「彼女は、まるで花みたいな笑顔をする人だった。」
それだけ覚えていた私は、ぽっかりと空いた彼女の顔に花畑を描き足していった。
ひまわりのような明るさ、薔薇のような凛々しさ、かすみ草のような儚さ、たんぽぽのようなあどけなさ。
どんな笑顔だったかだけは覚えていた。それぞれのイメージを全て書き込んだ。
ようやく完成した彼女は、栗色のおさげで白いワンピースを着た花だらけの顔だった。
「せめて、ちゃんと描きたかった。そうして彼女の墓に立てかけて置きたかったな。」
そうして私はアトリエを出た。時刻は夜で街灯もない田舎町は闇に覆われたように暗かった。
母屋で簡単な夕食を取り、ベッドに潜って寝室の灯りを消そうとした時だった。
またあの胸の痛みが襲った。まるで肺を鷲掴みにされたような苦しさが嘲笑うように私を締め付ける。
治療院でもらった薬を出そうとベッド脇の小棚の引き出しを開いた。
意識が朦朧としてどれが薬かも分からない。手当り次第に掻き回していると、小さくまとめられた紙が落ちる。
薬をまとめた紙かと思い、上手く動かせない手で紙を広げた。
「こ、これは……」
その紙には、幼少時代の彼女が映っていた。ようやく彼女の顔を思い出せる。
そう思ったが、目眩の酷いこの眼で彼女の顔はしっかりと見る事ができなかった。
「あぁ、せっかく、見つけたのに……どうして……探していたんだ……もっとよく顔を見せておくれ……。」
灯りの元に紙を敷いて一生懸命近づいて見るが、もう私にはそれを見る力さえ無かった。
沈み行く意識に身を任せ、私はベッドに寄りかかるように息を引き取った。
「ねぇ、いつまで寝ているの?」
金色の輪を頭に浮かべ、白銀の翼を広げる幼少時代の彼女がいた。
「懐かしいな、そうか。君はそんな顔をしていたのかい。」
そういうと彼女は、あの時と変わらず色々な花を詰め込んだような笑顔を見せた。
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