第3話 未知なる声

 気持ちの悪い感覚が、胸の中でぐねりと蠢く。

 腹の底から逆流しそうなものを、大きく口を開けて空気と一緒に飲み込む。

 代わりに、喉から酸っぱい吐息が漏れた。


 心臓は変わらず内側から胸を叩き続けている。

 顎が震える。呼吸が定まらない。

 こんな状態では酸素もまともに吸えやしない。


 胸に手を当て逸る心臓を抑制したいが、まだ構えを解くことはできない。

 仲間を倒され動揺したゴブリンは、こちらの存在を忘れ戸惑っていた。

 俺はゴブリンの次の行動を予想し、静かに、そしてゆっくりと、ゴブリンと森とを遮る位置へ移動する。


 大丈夫。

 身体は震えているが、俺の小賢しい頭は回っている。

 ゴブリンはまだ動かない。

 しかし俺も体力と精神力を一気に消耗し、攻勢に出る力は無い。

 ここで初めて右手だけ構えを解いて、暴れる左胸を押さえつける。


 ああ、駄目だ。

 手の平では全然圧が足りない。

 肋間ろっかんに指を立てて、僅かでも心臓に近い位置から圧し当てる。

 心臓は、でたらめに打ち鳴らすドラムのように暴れていた。

 指を強めに圧し込む。

 そのまま指に力を込めながら、ゆっくり大きく息を吸い、そして細く、長い息を吐いた。


「…………!」


 深呼吸が聞こえたのだろうか。

 ゴブリンはハッと我に返る。

 そして未だ構えを解いていない俺を見て、片足を半歩引いた。


 おっと、まずい。

 ゴブリンが逃げ出しそうだ。

 俺は半身中段の構えを解いて、自然体に近い隙の大きい構えに変えた。

 これ以上は危ないからやらないが。


「ギ、グギ……?」


 何を言っているかは分からない。

 しかしどこか困惑しているようだ。

 どうやら構えが緩くなったのを見て、逃げるのを止めるか迷い始めたようだ。

 頼むぜ、このクッソ広い荒野で追いかけっこ……なんて展開は辞めてくれよ。

 そんな体力、現代のアラフォー社会人に無いからな。

 逃げられるのは困るが……さて、ここから先の戦略が無い。

 

「…………」


 対峙している右ゴブリンから意識を放さず、最初に倒した左ゴブリンに目を向ける。

 倒れたままで、動いた様子は無い。

 しかしこれ以上時間をかけると、こいつが復活するかも知れない。

 早く終わらせたいのに、嫌な膠着状態に陥ってしまった。

 ……と、そんな事を考えていた。


 その時。


『……し…も……』


 全く予想していない声に、思わず周囲を見回してしまった。

 イヤホンをしているかのように、声は俺の耳にしっかりと届いている。

 しかし声はまだ遠く、ハッキリと聞き取れない。

 ラジオのチャンネルを合せているかのように、声が近くなったり遠くなったりしている。


『も…もし……えますか?』


 徐々にチャンネルが合ってきたのか、言葉を聞き取れるようになってきた。

 声が高い。女性か。

 しかし周囲を見渡しても声の主はどこにも見当たらない。

 そして、そんな事をしている状況ではないと思い出した時には、棍棒を振り上げたゴブリンが目の前に迫っていた。


「ガギャァァァ!」


 思わず棍棒から頭を守ろうと腕を上げながら「ガ行が多いなこのゴブリンは」などとおかしな事を考えていた。

 これは一種の走馬灯だったのかも知れない。

 直後、右腕の衝撃と共に激痛が全身を貫いた。


「ぐあぁぁぁぁ――――!!!」


 衝撃で骨が砕ける感覚に瞬間己を見失う――が、かろうじてゴブリンを蹴って距離を取る事だけは忘れなかった。

 蹴り飛ばされて倒れるコブリンと、蹴った反動で俺が倒れるのは同時だった。


 倒れた瞬間、再び激痛が全身を走り、俺の気力も体力もごっそり奪っていった。

 職業柄か。残された左手で、骨折箇所らしき場所を探る。

 骨折は初体験だが、尺骨が真っ二つに折れている事はハッキリと判った。橈骨は無事か。


『もしもし、聞こえますか?』


 くそっ、この声のせいで!

 こんな荒れ果てた荒野で、この右腕は治るのか!

 右腕が使えなくなったら仕事が出来なくなる!

 俺が二十年積み上げてきた感覚と経験が失われてしまう!

 こんな訳の分からない場所の、こんな訳の分からない事で、俺の全てが無くなってしまうのか!


『あの……もしもし? 聞こえていますか?』


 知り合いに電話でもするかのような、ひどく能天気な声が再び耳に届く。

 痛みも忘れて頭に血が上った。


「うるさいっ! お前のおかげでゴブリン相手に今死にかけてる!」

『えっ、大丈夫ですか!? 今どこにいますか!』


 声は俺の言葉に戸惑いながらも、要件より先にこちらを案じる言葉をかけてきた。

 少なくとも気遣いはされている事を知って、少しだけ頭の血が下りた。


「そんな事は俺が聞きたい! ここは一体どこで、どうして俺がこんな所にいるんだ!」

『その説明は後で。今は周囲の風景で特徴的な物があったら教えてください!』

「分からん、周囲には何にもない! サバンナみたいだ!」

『サバンナ……荒野ですね。他に特徴は無いですか。例えば木とか山とか川とか!』


 そこまで話してゴブリンが再び襲いかかってくるのが見えた。

 今度は注意を忘れない。

 うっかり右腕も構えを取ろうとして激痛で意識が一瞬飛ぶ。

 攻撃への対応が遅れる。


「ぐっ……!」


 振り下ろされた棍棒を、上半身は避けられた――が、下半身までは避けられなかった。

 骨には当たらなかったものの、大腿直筋を削り取るように棍棒が通り過ぎた。

 衝撃と共に、右足からガクンと力が抜ける。

 

「ちぃ……!」


 棍棒を振った勢いが強すぎたのか、つんのめったゴブリンの頭部が目の前にあった。

 それを見て、ゴブリンの頭を左脇に抱え、後方に倒れるようにジャンプ。

 このまま角度を合わせて地面に倒せば、自身と俺の重みで頸椎を――

 

 そこまで考えて、咄嗟にゴブリンの頭を放した。


「グギャッ!」


 ヘッドロックから解放され、ゴブリンは顔面から地面に突っ込んで呻きを上げる。

 同時に、俺も可能な限り右腕をかばいながら受け身は取った。

 ――が。

 それでも衝撃で右腕に激痛が走り、声を上げるよりも息が止まった。

 俺に出来たのは、痛みの波が引くまで耐えることだけだった。


『スキル使えますか? 今のあなたは何らかのスキルを持っているはずです』

「……スキル?」

『意識したらステータスが見れるはずです』

「異世界転生かよ。いよいよ夢かうつつか分からなくなってきたな」

『その判断は後でご自由に。おそらく普通のゴブリン程度なら問題にしない程度のスキルはあるはずです』

「意識しろったって……そんなん言われても」


 目の前のゴブリンから、ちょっと意識逸らした結果がこの右腕だ。

 うわ、めっちゃ腫れて膨らんでるし!

 少し見ない間に、右腕は空気をパンパンに詰めたゴム手袋みたいになっていた。


「グ、グギギ……」


 首を壊す覚悟が出来ず手を放してしまったが、それでも痛めるか捻るかしたのだろう。

 立ち上がったゴブリンは、後頭部を押さえ、首を左右に動かしていた。


 また、チャンスを逃したか。


 しかし人の身体を整える為の技術を、他者を壊す事に使いたくなかった。

 手技に殺しのイメージを残したくない。

 その目的に反する事に使いたくない。

 この技術を生み出し伝えてきた先人達や、教えてくれた先生達に顔向けできない。


『あの……スキルはどんなものがありましたか。知ってるものなら使い道を教えられます』


 ああ、そういえばそういう話だったっけ。

 俺が戦闘中なのを悟って、声は少し遠慮する事を覚えたようだ。

 ゴブリンに目を向けると、喉にもダメージを受けたのか咳き込んでいた。

 これなら少しは大丈夫かと、ステータスを確認してみる。

 具体的にどうするのかは全く分からないが、異世界ラノベはWebで良く見ていたので、そのノリをイメージしてみた。


「おおぅ、ほんとに出た!」


 目の前に半透明のウィンドウが現れる。不思議な感覚だ。

 いや、今は確認だ。

 名前、レベル、技能、称号……他にもありそうだがそれは後回し。


***********************


 名前:松木手 才悟(マツキデ サイゴ)

 Lv:1

 技能:格闘、身体鑑定、身体洞察、生成魔法、身体操作

 固有技能:マンガボディ、精密接触


***********************


 よし、全然わからん!

 ただひとつ分かるのは、レベル1なので弱そうだという事くらい。


『どんなスキルがありましたか?』


 ようやく俺がステータスを確認したことで、声の主は少し安堵したようだった。

 しかし考えてみたが判断も判別もし難い、微妙なスキル名が並んでいた。

 どう説明したものかと考えていると、半透明の画面の向こうに再びゴブリンが襲いかかって来るのが見えた。


「ちょ……これ、どうやって消すんだ!?」


 ステータス画面が邪魔でゴブリンの攻撃が良く見えない。

 動きにくくなる事を承知で、仕方なく草むらの中まで下がり、改めて間合いを取り直す。

 とりあえずステータス画面は邪魔なので消えてもらう。

 意識したら出てきたのだから、意識しなければ消えるはず。

 理屈は分からないが、邪魔な半透明の画面は消え、視界はクリアになった。


『戦闘系スキルがあれば、ゴブリンくらいなら――』

「うるさい! しばらく黙ってくれ!」

『…………!』


 声には出さないが、息をのんだような反応だった。

 タイミングの悪い向こうも向こうだが、こっちもかなり無礼な対応をしている。

 しかしそれでもこちらの状況を悟り、従ってくれているのは一種の救いだった。


「言葉が悪くて申し訳ない。終わったら呼ぶから、もう少し待っていてくれ」

『……何も出来ず申し訳ありません』


 見ず知らずの場所で、理不尽な脅威にさらされ、救いを求める相手すらいない。

 それでも、こんな右も左も分からない孤独な世界の中で、己を気遣ってくれる相手が居る事実は、俺の焦りと恐怖を和らげてくれる。

 気が付くと、俺は笑っていた。


『どんな形でも良いです、生き残ってください。私が必ず助けに行きます』


 その言葉には、嘘偽りの無い、確かな想いと力が込められていた。

 それは、気力も体力も少ない中、腕の怪我も加わって挫けそうな俺の心に、再び力を宿らせるのを感じた。


 身体の震えはもう消えていた。

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