第2話 異形との遭遇

 ゴブリンだ。


 そう。

 ゲームにおいて序盤の雑魚モンスターとしてスライムと並び評される、あのゴブリンである。

 もちろん現実に見るのは初めてだが、ゴブリンとしか思えない人型の異形が森から現れ、棍棒を片手に近づいてくるのだ。

 しかも三人……三体か?

 いや、単位はどうでもいい。


 どう見ても友好的とは言い難い、好戦的で下卑た笑みが、俺を獲物として見下しているように思えてならない。

 身長は1メートルくらいだろうか。

 前かがみのガニ股姿勢だから、実際はもう少しあるかも知れない。


 肌は病的にくすんだ緑色で、頭と身体は丸いがその大きさに対して手足は細い。

 大きく横に開いた口からは長い舌が見え隠れし、頭の大きさに対して目が少女漫画のように大きく、不気味に釣り上がっている。

 髪の毛は無く、頭頂部には角のようなコブがあった。


 小さくて手足は細いなら、身体は軽そうだ。

 身体的な特徴はほぼ人間と同じ。ならば構造も人間と同じと考えて良いだろう。

 そこから考えれば、ガニ股で前かがみの姿勢が持久戦に向いているとは思えない。

 仮に瞬発力があったところで、あの細さとアンバランスさだ。

 きっと人間のような器用な動きは出来ないはず。


 しかし細腕と棍棒の不可解な組み合わせが頭にちらつく。

 あの細い腕の倍は太い棍棒を、片手で持っている姿には、酷い違和感がある。

 棍棒自体が軽いのか、あるいはあの細さでそれだけの腕力があるのか。

 頭をよぎった嫌な想像に、知らず息を呑む。


 俺はゴブリンと戦おうと考えている。

 危険なのは承知の上だが、もし逃げられてしまえば、仲間を集める可能性がある。

 周りに逃げ場が無いから、数で来られると体力的に勝ち目が無い。

 だからゴブリン達と目が合ってしまってからは、足を止めている。


 だって自分の体力に自信が無いから!


 大体、運動なんて昇段試験で三段になって以来だから十五年ぶりか。

 まあ、まともに運動なんかやっていない。

 俺もゴブリンに匹敵する体力の無さだと自信を持って言える!


 だから可能な限りこちらは体力を温存しつつ、向こうに僅かでも不利な要素を押し付けながら、かつ短期決戦で勝負をつけるしかない。

 これが間違った思い込みじゃない事を信じて。


 草の無い場所から、右側の丈の長い草むらの中へ移動した。

 もう戦いは始まっているのだ。

 ゴブリン達は、三十メートル程度のところまで近づいてきている。

 まだ走り出さない。


 ゴブリン三体の内、二体が左右へ広がった。俺を包囲しようとしているのか。

 俺は、さらに右へ移動し、俺の右へ回り込もうとしていたゴブリンの移動経路を潰す。

 ゴブリンは包囲の位置取りを崩さないよう、三体とも俺に併せて右へ移動しながら位置を修正……思っていたより賢い。


 気付かれないよう草を根っこから土付きで一束引っこ抜いておく。

 残り二十メートル。まだ走り出さない。

 くそ、早く走り出してくれないと位置取りが厳しくなる。


「わあっ!」


 俺は驚かせるように強く一歩踏み鳴らし、大きく声を上げた。


「ギシャアアアアッ!」


 その一声の威嚇に緊張が弾け、ゴブリンは狂ったように声を上げて襲い掛かって来た。

 左側、正面、右側の三方向から同時に駆け寄ってくるのを確認。内心で少しだけ息を吐く。

 ゴブリンの動きは計算どおり。

 ただ、草むらの中でも速度が意外に速い。

 無理に引き付ける必要は無さそうだ。


 急いで草の無い左側に出る。

 動きに気付いたゴブリンは慌てて追ってくる。

 ――が。

 急に大きく曲がった前と右のゴブリンの速度が、ガクンと遅くなるのが見えた。

 しかも変なうめき声がしたと思ったら、右のゴブリンが足を滑らせて転んだようだ。

 ナイス転倒。


 これで包囲は崩れた。


 転んだ右ゴブリンを尻目に、あまり速度の落ちていない左ゴブリンに全力疾走。

 頭まで隠れるほど草は長くないのでゴブリンの動きは見える。

 俺は左ゴブリンが草むらから出るタイミングに合わせ、勢いそのまま顔面に飛び膝蹴りをお見舞いした。

 体重の乗った膝が顔面に直撃した左ゴブリンは、走ってきた勢いも重なり、鉄棒の逆上がりのように脚から縦に一回転し、うつ伏せに倒れた。


 倒れた左ゴブリンは、ひしゃげた鼻から血をドクドクと流し痙攣している。

 おそらく死んではいないだろう。

 しばらく意識は戻らないだろうし、戻ってもすぐには動けないはずだ。


 殺しても仕方ないという決死の覚悟で出した膝蹴りだった。

 ……が、直撃すると確信した瞬間、思わず力を抜いて自分から打点を外してしまった。

 当然だが、やはり命を奪うことに強い抵抗があった。

 殺せなかったという危機感と、殺さずに済んだという安堵感とが胸の中で渦巻く。


「ギシャアアア!」


 感傷は後回しだ。

 吼える前ゴブリンが草むらから出てくるタイミングで、引き抜いておいた土付きの草をスリングのように顔面に投げつける。

 根に付いた土が取れないよう慎重に投げたので、あっさり手で防がれたが、その際に砕けた土が顔にかかってゴブリンの目を潰す。

 その隙を逃さず一気に距離を詰め、再び飛び膝蹴りを――と思った瞬間、目の前に棍棒が現れた。

 咄嗟に棍棒を右手で左に払い、左手で今しがた棍棒を投げた前ゴブリンの右腕を取った。

 そして、その腕を手前に引き寄せながら返す右の手刀を頚動脈に打ち込んだ。


「グヴッ……!」


 首を打たれた前ゴブリンは、その場に崩れて苦悶に喘ぐ。

 体重を乗せてやるのは初めてだった。

 その為か打点がずれ、力の乗りも中途半端となり、相手を昏倒させるには至らなかった。

 本来は体重を乗せた手刀で頚動脈を切りつけ、相手を一瞬で技だ。

 しかし棍棒を避けた為に体勢が崩れて勢いが落ち、狙いも体重の乗る方向もズレて普通のになってしまった。

 苦悶している前ゴブリンに、トドメを刺すかと迷っていたら、転倒から立ち直った右ゴブリンが草むらから飛び出してきた。


「フギッ!」


 思い切り振り下ろされた棍棒を慌てて避ける。

 棍棒は、ついさっきまで俺が立っていた地面に、ずしんと重たい音を響かせた。

 前ゴブリンの腕を掴んだ時に感じたが、こいつら結構骨が太く、筋肉も薄いながら鍛えられているのか、見た目に合わない重さがあった。

 こいつら思ったよりもずっと腕力がある。

 棍棒が直撃したら、俺の方が先ほど倒したゴブリンのようになるだろう。


「――っ!」


 あえて考えないようにしていた命の危機をうっかり意識してしまい、すっと肺が冷めた。

 心拍数が上がる。

 呼吸が荒くなる。

 そして手足の動きが緊張で強張るのを感じ、ハッと思い直してさらに距離を取った。

 相手もこちらの緊張を察知したのか、同じく俺と距離を取り始めた。


 恐怖を拒否するように、大きく息を吐いた。

 無理やり緊張を忘れるよう努め、自分とゴブリンに意識を集中する。

 改めて位置関係を確認する。


 正面には呼吸困難でうずくまっている前ゴブリン、その向こう側右前方に右ゴブリン、俺の左後方で倒れている左ゴブリン。

 それぞれ位置を確認すると、俺は右ゴブリンを視界に捉えたまま、うずくまる前ゴブリンに向かって走る。

 右ゴブリンも俺に併せて駆け出した。


 悶絶している前ゴブリンを背にする位置へ移動。

 棍棒を振り上げ突進してくる右ゴブリンの前に立つ。

 攻撃位置を誘導するため、右半身に構えて重心を右前に置く。

 ここは運とタイミングと、そして俺の度胸が勝負だ。

 左胸がキュッと縮む。


 棍棒が振り下ろされる瞬間、上体と共に重心を左後ろへ移動。

 左手で棍棒を払い、半身を翻して右ゴブリンの脇へと滑り込んだ。

 そして翻した勢いで、左手を添えた棍棒を、うずくまる前ゴブリンの後頚部に無理矢理誘導し、二人分の力で思い切り叩きつけた。


「――っ!」


 やむを得なかったとはいえ、に肝が冷える。

 ゴブリンを殺したのだ。


 実際に手を下したのは自分ではない――そう思いたくて、小狡い手段に縋った。

 何年か前の雨の夜、対向車の影から飛び出してきたイタチのような小動物を車で轢いた事がある。

 突然過ぎてハンドルを切る事も出来ず、前輪で「ごりっ」という嫌なリアリティを伴う『命を踏み砕いた』感覚に怖気が走った。

 でも、あの時は気持ち悪い感覚を引きずったものの、後続車に追われるまま走り去ったので死体は見ていない。

 けれど――。


「う……オエ……」


 前ゴブリンの首はありえない形に折れ曲がり、血を噴き肉を割いて、破損した棘突起が露出していた。

 初めて見た死体を前に、嘔吐感が込み上げ声が漏れる。

 なるべく見ないようにする。

 我慢。今は我慢だ。



 ゴブリンは、まだあと一体残っているのだ。

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