とある竜の物語

えら呼吸

第1話

「貴様は……それでも誇り高き竜の一族か!!」


 ――鬱蒼と生い茂る森の中、太陽の木漏れ日が燦々と降り注ぐ緑の中、一つの怒号が木霊しました。大気と木々を震わすその声に、森の動物達は逃げ惑います。


 その声の主は、一頭の竜でした。


 綺麗な深紅の体躯と翼を持ち、何やら鼻息を荒げています。

 時折、口の中から炎が零れる所を見ると、どうやら余程に頭に血が上っているのでしょう。何故これほどまでに怒っているのか、瞳も深紅を彩るその竜の視線を辿ってみました。


 そこには、もう一頭の竜が寝ていました。


 己を支えられる唯一の巨木に翼を広げて凭れ、だらしなく両足を投げ出していました。深紅の竜の咆哮を物ともせず、両手を胸で重ねて、ただ安らかに目を瞑っています。

 彼にとって、ここはお気に入りの場所なのです。


 その巨木を中心に円を描くように木々は無く、白い小さな花がその中を埋め尽くし、日光が優しく綺麗に降り注ぐ。

 そこはまるで天国の公園を思わせる雰囲気に満ち溢れ、心を浄化されるようでした。

 それを心地よく受け止めているであろう漆黒の竜は、やはり穏やかに目を瞑っています。

 この場に似付かわしくない姿形をしていようと、巨木の影がそっと包んでくれていました。


「聞いているのか、貴様は!!」


 抑え切れない炎を吐き零しながら、深紅の竜は大きな口で叫びます。

 その衝撃で目の前の巨木が揺れ、擦れ合う葉っぱの音が騒然と鳴りましたが、漆黒の竜は依然と目を開きません。

 その竜にとっては、そんな葉っぱの音は、子守歌の様でしかありませんでした。


「――――」


「ぬぐッッ……! もういい、貴様などに頼んだワタシが馬鹿だった…。貴様はそうやって、血を汚しているがいい!!」


 牙を悔しげに噛み締めた深紅の竜は、背を向けてそう吐き捨て、深紅の翼を広げて飛び立ちます。怒りによってしならされた翼は、たった一度で深紅の巨体を一瞬で持ち去りました。

 その時に叩きつけられた風が辺りに吹き荒れ、小さな花達が舞い上がりましたが、やがて静寂を取り戻しました。


 ――一連の事象が嘘のように、またこの場には穏やかな雰囲気が漂っていました。

 隠れ潜んでいた森の動物達は姿を現し、日課である散歩なり食事なりを楽しみます。

 そしてこの漆黒の竜もまた、日課である昼寝を続けます。


 すると――、一匹の猿が木々の中から飛び出してきました。

 太い腕だけで枝から枝へ飛び移ってきたのか、最後には勢いをつけて華麗に宙を回転し、見事に花の中に着地。そのまま両手両足で地面を駆けながら、寝ている竜の傍まで駆け寄ります。


「旦那ァ、起きて下せェ旦那ァ!」


 器用に直立し、両手を振って漆黒の竜を起こしにかかります。慣れ親しんだ口調を聞くと、どうやらこの両者は知り合いのようです。

 しかし、未だ安らかな表情の竜は、一向に目覚めようとはしません。


「…まったく…、本当は起きてるくせに。旦那ァ、そのまま起きないってんなら、例のアレをぶちかましますぜェ?」


「――――」


 一瞬、竜の耳がぴくりと動きました。

 それを確認した様子もなく、猿は当たり前のように竜の胸によじ登り、鼻先を見て悪戯に頬を吊り上げました。

 そして徐に片手を臀部に添えたかと思うと、悪戯な表情のままソレを片手に排出しました。

 汚臭を放つ焦げ茶色のソレを振りかぶったその時――。


「――ッッッ!!? ま、待て猿、ソレはやめぬかっ!」


 竜が目を開きました。

 同時に猿を遠ざけようと、必死に体を起こします。


 その行動に驚いた様子もなく、猿は後ろ向きにくるくると宙を回り、また見事に着地しました。もうソレは必要ないのか、前を向きながら手を振って、汚らしいソレを投げ捨てました。


「始めっから起きてくれりゃアいいのに。それならわざわざあっしも手を汚さずに済むんですぜェ?」


「阿呆を抜かせ。そんな起こし方自体が間違っていようがっ」


 竜は猿にそう言いながら、自分の体を必死に探っています。体にソレが付着していないのを確認して、安堵の溜め息を吐きました。


「……それで、ワシに何か用か?」


 再び巨木に凭れて、竜は猿に問いました。

 疲れたようにその表情は険しいものでした、恐らくこの前鼻先に向かってぶつけられたソレの臭いが、嫌な記憶として蘇ってきたのでしょう。


「へい。あのですね旦那ァ、東の谷で何やら在ったみてェなんです。あっしとこれから見に行きやしょうよ」


「断る。何故ワシがその様な事を――」


「んしょっと…」


「待て待て待て!! わかった、行けばいいのだろ行けば!?」


 猿が何を準備しているのか察知した竜は、飛び起きて必死に制止します。


「流石旦那だァ。話が分かる」


「…………」























「うひょひょおぉぉぉぉ――!」


「こら、はしゃぐと落ちるぞ」


 遥か上空、長く伸びた竜の首の付け根を跨ぐ猿は、普段はお目にかかれない空からの景色に興奮していました。

 風を切る感覚がとても楽しいのか、高さを恐れる事なく目を輝かせています。


「お前…ワシを連れ出したのはこれがしたかったからだろ…?」


「ありゃ、バレちまいやしたかィ。いやァだってですねェ、この景色は翼を持つ者しか見れねェですし、それに乗っけてくれるのは旦那しかいないじゃないですかァ」


 にやにやとしながら、宥めるように首をさする猿。地上の景色しか知らない者からすれば、遥か上空から眺める様々な色は、とても綺麗で好奇心を擽るものなのです。

 だからわざわざ竜の日課を邪魔してまで、一緒に行こうと誘った猿なのでした。


 顔を横に向けて、そんな子供みたいな猿を横目で覗いていた竜は、溜め息を吐いて前を向きました。

 しかしそんな猿の楽しげな笑顔は悪くないと思ったのか、竜は小さく微笑んで、大気を翼で薙いで更に加速しました。


 ――竜とは本来、他種との交流を拒みます。

 それは、生き物の中で自分達こそ至高の存在だと思っているからです。とても身勝手で愚かしい考え方かも知れませんが、そう思ってしまうのも無理はありません。


 現に、人間以外で竜に刃向かう者など在りはしませんでした。その強者を示す力は勿論の事、何より生き物としての逃走本能を優先させる、圧倒的な存在感を放っていたからです。

 竜を視界に捉えた者は直ぐに思考を停止し、『逃げる』事のみを身体に託します。

 適わないのだから、そんな行動は仕方がありません。


 そんな他種の姿を認識して、竜は自分達が誇り高き存在だと信じていました。

 驕りではなく、ただ単純に、自身の有り様を認めているだけです。


 ……でもそれを、漆黒の竜は嫌っていました。


 生き物は皆変わりない、同じ生きとし生きる者、そんな心情を掲げていました。だからなのか、この竜に対しては他の動物達も友好的です。

 背に乗ってはしゃいでいる猿のように、人間以外は何者もこの竜を恐れません。

 竜もまた、そんな者達を拒まず、何だかんだと受け入れていました。


 一族の誇りを何とも思わず、人の開拓を何とも思わず、ただ気楽に一日を過ごす。

 そんな生き方を、漆黒の竜はさも気にかける事もなく、何となしに生き示していました。


「――着いたか。あそこの事か?」


「へい。あそこです」


 竜が確認を取ると、猿は指を指してそう言いました。

 竜は高度を下げます、そして谷の隙間で滞空し、隠れるような道を眺めていました。

 見れば一部が崩れており、また溶けたような跡がありました。

 きっと竜が暴れたのでしょう、元はゴツゴツした岩石が、冷えて固まって滑らかになっているのがそう教えてくれます。


「ついさっき――一時間ほど前ですかィ、ここで人と竜が一悶着あったらしいです」


「…この道を知っているのは、この国の一部の人間だけだ。滅多に人通りがある場所ではないのだが――」


 不思議に思っていた竜は、ある物を見つけました。傍までよってその破片を確認します。


「馬車のようだ。車輪の一部が燃えカスになっている」


「商人ですかいねェ。それならこの道も知っているでしょうし」


「だろうな。……まったく、害の無い者を殺しおってからに…」


 その破片を見て、竜の表情は曇っていました。

 人の侵略を食い止めるのはいい、でも…荷物を運んでいるだけで襲うのは、どうしても気分が悪かったようです。

 害になる物だけを取り除けばいいのではないか、これでは唯の殺戮者と何ら変わりない、と竜はそう思っていました。


「――……旦那ァ、何か聞こえやせん?」


「……何やら泣いている、な…。下からだ」


 竜は、その何かの音がする真下へと顔を向けます。

 猿も落ちないようにしがみつきながら、谷底を覗いてみました。

 するとそこには、馬車の残骸がありました。突き出た岩に引っかかるように、バラバラになった木が乱雑しています。

 音はそこから漏れていました。


「…行くぞ――」


 顔を谷底に向けて、尖った嘴と翼で風の抵抗を切り裂きます。突然の事で猿は驚きましたが、声を発する前に落ちまいと、降下する竜の首にしがみつきました。


 目的の、馬車の残骸には直ぐに着きました。

 足を下に向けて翼の羽ばたきで再び滞空します。

 馬車だった物は直ぐ目の前にありました、だから音が何なのかも聞き取れるようになりました。


 ――声でした。

 とてもか細く、彼らみたいに五感が優れている生き物にしかわからない程に、弱々しい誰かの疲れ果てたような泣き声でした。


「ふむ……猿、探ってきてくれ」


「わかってやすよ。もちっと近付いて下せェ」


 猿に言われた通り、竜は突起した岩石へと近付きます。

 横に回ると岩壁に翼がぶつかってしまう為、竜は岸壁と向かい合ったまま近づきます。

 でもそうなると、谷を吹き通る強風が横から当たってくるので、翼を取られて上手く位置が定まりません。猿が飛び移るにしても、この風では流されて谷底へと落ちてしまいます。

 そこで竜は、長い首を前に倒して、嘴で岩石の先端を挟みました。


「おぉ~、橋ですね旦那ァ。いやァお優しい」


「は…早く行かぬか阿呆! 首がつるではないか…ッ!」


 不自然な体勢、加えて己の巨体を維持なければならない竜は、小刻みに首を震わせて堪えています。

 悪いですねェ、などと本当にそう思ってるのかわからない猿の笑顔に怒りを覚えながらも、何とか猿を残骸へと移す事に成功しました。


 因みに、猿は竜の首とほぼ変わらない大きさですが、強靭な筋肉はそれを容易く支えられます。


「んーっと。この辺りかな…」


 猿が声の出所を探り出しました、凡そ見当がついた場所を遮る木材を丁寧に除いていきます。

 声がするのは中に空間があるという事ので、崩れないように慎重に事を進めます。

 それを見た竜は、もう大丈夫かと嘴を離そうとした瞬間――。


 突風が吹いてきたのはその時でした。


「っ?!」


 突然の事に、翼の羽ばたきが侵害されました。

 流された竜は反射的に嘴に力を入れ、飛ばされないように岩石に噛みついてしまいます。


 はっ、と咄嗟に嘴を離しましたが、もう遅かったようです。不可抗力とは云え、竜ほどの巨体に引っ張られてしまった岩石は、岩壁から更に姿を覗かせてしまいました。

 そして万物にふりかかる重力に従って、やがて傾き出します。


「うきゃ!?」


「まずい…!」


 体勢を立て直した竜が見たものは、今にも落ちようとする岩石に乗った、猿と丸まった布の姿でした。

 助けようとしましたが、先程の突風に触発されてか、谷に吹く風がより一層に強まっていました。

 これではまともに飛ぶことが出来ず、下手をすればまた流されて猿を巻き込んでしまうかも知れません。


 ――尚も岩石は傾き続けます。

 強風に押されている事もあり、崩れ落ちるのは時間の問題でした。


「仕方ない…。飛べ! 猿!」


「と、飛べって……。無茶言わんで下せェ旦那ァ!旦那の所まで届きやせんよォ!?」


「お前にとっては追い風だ。そのまま流されれば届く!」


 根拠の薄い竜の提案に、猿は苦い顔をして躊躇していました。

 目の前の空中に頼りになる存在がいても、底が薄暗くなる程の高さから飛ぶのにはやはり恐怖がありました。


 しかし、もう岩石は斜め下を向いています、本当に時間がありません。

 ――意を決した猿は目を瞑り、抱えた布の塊を落ちないようにと抱き締め、硬い足場から飛び立ちました。


 竜は身構えます。

 出来るだけ体の姿勢を保ちながら、両手を前に出して茶色の毛達磨を観察し続けました。

 右に少し流れる――ならばと右に位置をずらし、距離が少し遠い――ならばと距離を縮めます。


 そうした竜の判断力により、追い風で思いも寄らない跳躍を見せた猿は、何とか漆黒の掌に収まる事が出来ました。

















「――はぁ…、すまねェです旦那ァ。また助けられやしたね」


「気にするな。ワシのせいでもある」


 谷を後にした彼らは、疲れた表情でまた上空を飛んでいました。


 ――猿が言った“また”とは、昔の出来事からでした。

 

猿がまだ子供だったころ、人間に追われていた事がありました。食べ物を盗む悪戯好きが仇となり、我慢の限界だった商人達に殺されそうになっていたのです。


 そして、やがて追いつかれてしまった猿に剣が向けられます。

 涙を浮かべて死を覚悟した猿でしたが、急に吹いた暴風と共に目の前が黒くなりました。


 ――漆黒の竜が前に立ちはだかっていたのです。


 突然の乱入者に恐れてしまった商人達は逃げ出し、猿は一命を取り留めました。大して気にした様子が無い竜は何も言わずに去ろうとしましたが、猿は逃がすまいとしがみついて、惚れたなどと竜に叫び散らしました。


 それからもしつこく漆黒の竜につきまとい、何時しか“旦那”と呼ぶようになりました――。


「そういえば、その布は何だ? あの中にあったのか?」


「へい。見やすか? きっと驚きますぜ」


 猿は被さった布を外しました。

 竜は長い首を横に向けて、横目でその中身を確認します。

 人間の事だからどうせ貴金属か何かだろうと、竜はわかりきったように詰まらなさそうな眼差しを向けて、


「…………あぅ?」


 そして眼を見開きました。


 まだ言葉も知らないであろう丸い瞳は、驚く異形を見つめて愛らしい声を発しました。猿が抱える布に包まれていたものは、小さな赤子だったのです。

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