第5話 その男、高所恐怖症につき

 私はドラゴンの親子ににこやかに見送られていた。


『行ってらっしゃい、おねえちゃん!』

『おめでとう。気を付けてね』

『ひ、他人事だと思って……!』


 泣きつきたくなったけれど、考えてみれば彼らにとっては正しく他人事だった。

 しかもなんだか、祝い事としてとらえられている様子さえある。


 落ち着くのよクラウディア。

 パニックになって現実逃避をしたいところだけれど、なんとか正気を保たなくちゃ。

 

 キースさんは私に手綱を付けた後、慎重に地面に降りた。

 そして、手綱を引くようにして私の前を歩き出す。


「行くぞ。俺についてこい」

『う……』


 おそらく、抵抗すれば簡単に逃げられる。

 けれど暴れればキースさんに怪我を負わせてしまうことは容易に想像できた。


 それにここで逃げたとしても、この体のまま屋敷に戻るわけにはいかない。

 姿を見せたが最後、あの爬虫類嫌いのお母様は卒倒しかねなかった。

 今はついていくしかないと判断して、私は黙って歩き出した。


 私、本当にドラゴンになっちゃったのね……。


 キースさんの後ろをとぼとぼと歩きながら、しみじみと実感する。

 しっぽでバランスを取るような態勢は、慣れるまでまだ少し時間がかかりそうだった。


 さっそく背中に乗って飛べと命令されなかっただけ、少しほっとしている。

 どうやったら飛べるのかなんて想像がつかないし、飛んでしまったら最後、もう身も心もドラゴンになってしまうような気がした。


 これから私はどうなるのかしら。


 お父様やお母様、リイナは、きっともう私が屋敷に帰っていないことに気付いているだろう。

 リイナは昨夜からずっと心配してくれているかもしれない。

 大切な人たちのことを思って、胸が締め付けられた。


 ふうと憂鬱なため息をつくと、目の前に転がっていた小石が飛ばされていく。

 かぎ爪のみならず、ただのため息でさえなんだか強い。

 か弱き乙女として生きてきてかれこれ18年の私は、自分の体の変化に戸惑いっぱなしだった。


 それにしても、キースさんはどうして私に乗らないのかしら?

 騎竜隊にとってのドラゴンは、馬と同じような存在だろうに。


 ふと疑問に思って、少し前を歩くキースさんの後ろ姿を眺める。

 まばゆい金髪は少し癖があるようで、毛先がふわふわと後ろ頭で踊っていた。

 二十代前半くらいかしら。

 もしかしたら若干幼く見えるだけで、もう少し上かもしれない。

 引き締まった体は線が細く見える。

 けれど、軍服の袖から見える手首や、背中の張り具合は、体を鍛えている人特有のごつごつとした感じがあった。


 もしかして、こうやってわざわざ歩いていくのも修行の一環だったりするのかしら……。


 そんなことを考えながら、どのくらい歩いただろうか。

 やがて足元には草の絨毯が広がり、前方にはこんもりとした緑が見えてきた。


「ブルーノ、王都へはあの森を通るぞ」

『あの、私の名前はクラウディアなんですけど……』


 伝わらないと分かっていても反論せずにはいられない。

 

「なんだ、もう腹が減ったのか? 仕方ないな、これを食え」

『違いま……ちょっ、げほっ、干し肉を口にねじ込まないでくださいっ!』


 意志の疎通ができないことが、こんなにも辛いことだなんて!

 私は翼をばたつかせながら、口の端にひっかかった塩辛い肉をなんとか飲み込んだ。


 しばらく一人と一匹で歩いていると、鬱蒼とした森が目前に近づいてきた。

 このまま前進すれば、私の翼が木々につかえてしまいそうだ。

 どうするのだろうかと思っていると、キースさんはふと足を止め、なぜか私に寄り添った。


 その途端、よく分からない愛しさが湧いてくる。

 傍らにいるこのか弱くて小さな生き物を守らなければならないような気がしてくるのだ。

 

 庇護本能とでも呼べそうな、初めての気持ちに戸惑う。

 考えてみれば、私たち人間も、自分たちよりも小さな動物を保護し可愛がることがある。

 高い知能があると言われるドラゴンが、似たような気持ちを抱くのも無理はないのかもしれない。


 ドラゴンが人間の守護者だと言われるのは、その温厚な性格ゆえだと思っていた。

 まさか、こんな理由があったなんて。


 ……人間の私よりもずっと大きくて強い男の人を可愛いと思うなんて、変な気分……。


「ふう……」

 

 私の胴体に軽く背中を預け、物憂げなため息をつくキースさんの顔色は、心なしか青ざめていた。


 ……疲れてるみたいね。

 森を行くのは無理がありそうだし、やっぱり私に乗って移動した方がいいんじゃないかしら。


 伝えられないことをもどかしく思っていると、キースさんがこちらを見上げて唇を開いた。


「お前の大きさでは、森の中を通るのは難儀だな。……森の上空を通ることにするか」

『そうしてください』

 

 驚かせないように、小さく鳴いて応える。


「お前は優しい目をしているな」


 ふいに穏やかな声で言われて、どきっとする。

 そしてキースさんは、私を見上げたまま、そっと両腕を伸ばした。


 ……? なにかしら。


 私は不思議に思いながらも、首を下げて、顔を近づけた。

 キースさんは私の首元を抱きしめるようにすると、私の鼻先に額をくっつける。


「……なぜだろうな。お前とは、きちんと飛べるような気がする」


 少し冷たそうな容貌とは裏腹の、温かな声音にどきっとする。

 けれど、その語尾はわずかに震えているように聞こえて、なぜか落ち着かない気持ちになった。




 しばしの休憩を終え、私の背中にキースさんがよじ登る。


 ……今さら気づいてしまったのだけれど。

 そもそも私、飛べるのかしら?


 鳥だって、雛のうちから羽ばたく練習をするという。

 急にドラゴンの体になった私が、危なげなく空を飛べるかというと、不安しかなかった。


「ブルーノ、飛べ」

『クラウディアです』

「良い返事だ。行け」


 相変わらず会話がかみ合ってはいなかった。

 キースさんの声音はどこか固く厳しく、さっきまでの優しさは窺えない。

 となると、これはもう命令であって、私が渋ったところで勘弁してくれるものではないのだろう。


 とにかく、やってみるしかない。

 両翼を広げて、私は想像だけを頼りにはばたかせる。

 あたりに風が巻き起こり、背中でキースさんが身を伏せたのが分かった。

 ふいに、ぐんと体が持ち上がる。


『わぁ……!』


 思わず感動して声がこぼれる。

 まるで空に吸い込まれていくように、体は軽く上昇していった。

 高く昇った太陽が近づいて、鱗を焦がすような熱を伝えてくる。


 ――空を飛ぶって、こんな気分なのね。


 翼を動かすことに労力はいらない。

 本能に従って風をきると、まるで暑い日に水浴びをしているような気分になった。

 雲一つない真っ青な空を自由に飛ぶのは、今まで味わったことがないくらい心地いい。

 このまま太陽の側まで、どこまでも高く昇っていけそうな気がした。

 思わず我を忘れて飛ぶことに没頭していると、背中から声が聞こえてきた。


「も……、っ……落とせ」

『はい? なんですか?』


 キースさんが何か言っている。

 ごうごうと耳元で響く風の音のせいでよく聞こえず、聞き返すと――


「もっとスピードと高度を落とせと言っている! 怖いだろう!?」

『す、すみません!』


 とっさに謝ってから、ふと違和感に気づく。

 ……怖い?

 竜騎士が、ドラゴンに乗って空を飛ぶのを怖がっているの?


「……やっぱり、これ以上の高さは無理だ」


 キースさんの凛とした声が、今はあからさまに震えていた。


「そもそも、俺が騎竜隊に入るのは無理があったんだ。いくらなんでもこんな調子じゃ――」


 私の首にしっかりすがりついたまま、ぶつぶつと呟くキースさんが心配になってくる。


『大丈夫ですか……?』

「落としたら承知しないからな」

『だ、大丈夫です! 任せてください!』

 

 ――さっきの『お前は優しい目をしている』とか、『うまくやっていける気がする』っていうのは、きっと自分を奮い立たせるためだったのね。


 呆れたような気持ちになる一方で、この高さでは恐怖を感じるのも無理はないように思えた。

 キースさんはたぶん、私よりもずっと強くて、立派な男性だ。

 けれど今この時は、私に命を預けた小さな存在だった。


 ……この人を守らなくちゃ。

 

 芽生えたその気持ちは、人間の守護者たるドラゴンの本能のせいなのか、キースさんの信頼に応えたいがゆえなのか――。

 私は自分の行く末に関する不安を胸の奥に押し込めると、前方を見据えた。


 今はとにかく、この人を無事に王都に届けることだけに集中しよう。


 ゆっくりと速度と高度を落としていくと、安堵したようなかすかな吐息が首元にかかった。


「ありがとう、助かった。……すまない。これからお前の相棒になるというのに、情けないところを見せた」


 キースさんが、ばつの悪そうな声で言う。

 言葉の通じない生き物を従わせようとするには素直すぎるその言動に、私は少しだけキースさんの人柄が好きになった。

 いえ、でも。

 それよりもなによりも。

 高い場所に恐怖を感じているらしいこの人が、よりによって王家の騎士団が誇る騎竜隊に所属しているという事実に、ほんのちょっぴり不安になってしまったのだった。

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