第3話 いざ酒場へ!~魅惑の黄金色~

 酒場のドアを開いた途端、活気ある声が耳に飛び込んできた。


「こっちにビール追加で!」

「あいよ!」


 ウェイトレスが張りのある声で答えて、テーブルにジョッキをどんと置く。

 店内は談笑の声に満ちていた。それは決して社交界で聞くような上品なものではない。

 けれど誰もが心の底から楽しそうで、私はその光景に圧倒されてしまった。


 茫然と立ち尽くしていると、空いたジョッキを片付けようとしていたウェイトレスがこちらを向く。


「あらお客さん、突っ立ってないで好きな場所に座っていいのよ。もしかして、酒場は初めて?」

「はい。あの……リイナという友人に、ここが素敵な場所だと聞いて来たんですけれど……」

「ああ、リイナちゃんのお友だちね。いいわ、奥のテーブル空けてあげる」


 どうやらリイナはここの常連らしい。

 ジョッキを持ったままの手で奥を示されて、私はおそるおそるそこにあるテーブルについた。


 色々な方がいるわ。


 目を丸くしたまま、私は店内を見渡した。

 隣のテーブルに座っているのは、旅人と思しき剣を脇に差した男性と、眼帯をした男性だ。

 楽しそうにジョッキをぶつけ合うと、一気にその中身を飲み干し、肩を抱き合って大きな声で笑う。

 こちらまで聞こえてくる会話の内容から察するに、どうやら偶然この酒場で出会って意気投合したらしい。


 楽しそうなその様子を見ながら、私の唇には、いつの間にか笑みが浮かんでした。

 こんな光景は、貴族の社交場では決して見られない。

 基本的には、誰かの紹介なしで初対面の相手にいきなり話しかけることは失礼にあたるとされている。

 特殊な催しなどは別として、あんな風にその場で仲良くなって、あまつさえ気兼ねなく相手に触ることなどできないのだ。


 そんな風に仲良く飲んでいる人たちがいるかと思えば、隅のカウンターにひとり座りグラスを傾ける女性もいる。

 一人でもどこか楽しそうな様子で、彼女は細い指でグラスに入っていたチェリーをつまむと、ぱくりと口の中に入れた。


 ここは、本当に自由な場所なのね。


 貴族社会に馴染めず、かといって庶民として暮らすわけにもいかず、きゅうきゅうに締め付けられていた心が、ふっと軽くなる。

 それはまるで物語に没頭している時のように、心地いい感覚だった。

 

「お客さん、お待たせ。ご注文は?」

「ええと……そうだわ、ビールでお願いいたします」


 やってきたウェイトレスに即答すると、ほどなくして泡がこんもりと盛られたジョッキが運ばれてきた。

 わあ……。

 金色の液体の中で、小さな泡が下から上へと昇っていく。


「初めて飲むなら、イッキはやめときなね」


 ウェイトレスさんが茶目っ気たっぷりに私に忠告をして、去っていく。

 私はこくりと喉をならすと、ジョッキを手に取った。


 思ったよりも重さのあるジョッキをゆっくりと傾け、ひと口飲む。

 に、苦い……。

 けれど、喉を通った後は、何か爽やかな後味が残った。

 不思議な感覚にまじまじとジョッキを見ていると、見知らぬ男性が急に私の向かいに腰かけた。


「姉ちゃん、酒は初めてか? おじさんが飲み方を教えてやろう」

「え? どちら様でしょうか」

「いーじゃん名前なんてさ。ほら――」


 テーブルの上に置いていた左手を握られそうになって、びくりと身を竦ませたその瞬間――


「だーめ。この子はワタシと飲むんだから、おじさんはどっか行きな」


 男性の肩に、後ろから手が置かれる。

 その手を辿って視線を上げると、そこには綺麗な女の人の姿があった。

 私の視線に気づいた女性が、妖艶な笑みを浮かべる。

 黒を基調とした、床まで引きずる優美なデザインのローブは、まるで占い師か童話に出てくる魔女のようだ。

 髪は燃えるような紅で、絹糸のような滑らかさで背中へと流れている。


「ちっ……。わーったよ」


 男性は悪態をつくと、向こうに去っていく。

 それを茫然と見送っているうちに、彼女は当然のように私の向かいに腰かけた。

 小さめのテーブルを挟んで、魔女さん(と心の中で呼ぶことにした)は頬杖をつき、まじまじと私を見る。

 そしておもむろにこちらに手を伸ばし、長い指で私の唇に触れた。


「っ……な、なにを……」

「泡が唇についてたよ。本当に飲み慣れてないんだね」


 あ……、拭ってくれたのね。

 子どものように口元を汚していたことに気付いて、頬が熱くなる。

 そうだわ。まずはお礼を言わなくては。


「助け船を出していただきありがとうございます」

「気にしないで。キミはああいう手合いをあしらうのも、こういう場所自体にも慣れてないみたいだし。お友だちと来たわけでもないみたいだけど……もしかして、親に内緒で家を抜け出してこっそり来たとか?」

「どうして分かったんですか?」


 驚いて聞くと、魔女さんは小さく笑った。


「当たり? 悪い子だね。でも嫌いじゃないよ、そういうの。度胸がある子は、可愛い」


 女性にしては低めのハスキーな声で言われて、思わずどきりとする。


「どうも。ありがとうございます」


 社交の場でもこんな風にあけすけな言葉で褒められたことはなくて、私は曖昧な返事を返した。


「魔女さんも、とてもお綺麗です」

「魔『女』……?」

「あっ、ごめんなさい、つい。服装がそんな感じだったので」


 慌ててそう弁解すると、魔女さんはにっこりと笑みを浮かべた。


「いいよ、似たようなもんだし。ワタシはウィリスっていうんだ。そう呼んで?」

「ウィリスさん」


 少し不思議に思いながら、その名前を繰り返す。

 ウィリスというのは、一般的には男性の名前だ。

 妖艶な容姿とのアンバランスさが、かえってミステリアスな魅力に拍車をかけていた。


「キミは?」

「クラウディアです。ディアとお呼びください」

「ディアちゃんか。なんだか高貴な名前だねえ」


 そう言ってから、ウィリスさんはジョッキを持ち上げた。


「ディアちゃんの酒場デビューに、乾杯!」

「か、かんぱい!」


 ワイングラスを合わせるよりも景気よく、ジョッキをがちっとぶつけ合う。

 二口目のビールは、やっぱり苦いけれど、喉を通る爽快感が心地よくもあった。

 何よりも、『金色の飲み物』というだけで、なんだか心惹かれるものがある。

 

「……ねえ、それで、どうしてこんなところに来たの?」

「え?」

「ディアちゃん、庶民じゃないでしょ」


 またしても急に言い当てられて、ぎくりとする。

 どうしてバレたのかしら。

 いいえ、それよりも、これは誤魔化すべき? それとも今更そんなことをしても無駄かしら……。

 アルコールがまわりかけた頭で必死に考えていると、ウィリスさんが見透かしたように言葉を続けた。


「何も、いいとこのお嬢さんが屋敷を抜け出してここに来てることを叱るつもりじゃないよ。ただ、何もないのにこんなところに来るわけないだろうと思って」

「ウィリスさん……」

「こういう場所だからこそ、話せることもあるでしょ? せっかく偶然会えたんだから、今夜はディアちゃんの話を聞きながら楽しく飲みたいなー」


 優しい口調に、思わず涙がこみ上げる。

 この人の声には、人を信用させる不思議な響きがあった。

 その上、私はどうやらアルコールのせいで感情が抑えられなくなっているようだった。


「実は――」


 私は、婚約話が持ち上がっていることをウィリスさんに話した。

 お父様が『そろそろ結婚相手を決めようと思う』と言ったということは、私の知らないうちにある程度候補が絞られているということだ。

 この先の人生、まだ顔も知らない人と歩んでいかなければならない。

 まだ恋もろくにしたことがなく、世間慣れもしていないのに、貴族の奥方としてしっかりしなければいけない。

 そして何よりも嫌なのは――貴族の娘として生まれたからには当然受け入れるべき運命に、怖気づいている自分自身だった。


「だから、自分の気持ちをなだめるためにここに来たんです。少し冒険をして、非日常に身を置けば、すっきりして未練もなくなるんじゃないかと思って」

「……なるほどねー。貴族サマも大変なんだ」

「大変……いえ、きっと当たり前のことなんです。私が甘えているだけで。貴族の家に生まれたからには、果たすべき役割があると思っています。ただ、すぐには心の整理がつかなくて」

「当たり前って言うけどさ」


 ウィリスさんが言葉を切って、じっと私を見つめる。


「やっぱり、自分の人生が自由にならないっていうのは、受け入れがたいことだよ」


 その声に、少しの感傷のようなものがあったのは気のせいだろうか。

 私の気持ちに寄り添ってくれるかのような優しい言葉に、胸がじんとなった。


「……強さが欲しいです」

「強さ?」

「はい。全てを受け入れる強さか、あるいは――」


 反抗する強さ。

 それは言葉にできなかった。

 あまりにも自分勝手だと分かっていたから。

 家にとってためになる相手に嫁ぐこと以外に、私に何が出来るというのだろう。

 それでも、どうしても願ってしまう。

 今までたくさん読んできた物語の登場人物のように、私にも、何か他に生きる意味があるんじゃないかと――。


 そんな子どもじみた思いを口にする代わりに、私はジョッキを飲み干した。

 一気に喉を通るアルコールに、体が熱くなる。


「ちょっと、大丈夫?」

「……だ、だいじょうぶです……」


 私はぐでんとカウンターのテーブルに突っ伏した。

 テーブルはひんやりとしていて、おでこが気持ちいい。

 ああ、世界はなんて優しいなんだろう。

 こんな風に、みっともない私の本音を聞いてくれる人がいる。

 そう思ったら、今度は不思議なくらい幸福な気持ちが湧き上がってきた。

 思考はふわふわとして、まぶたが重くなる。

 

 ――これが俗にいう『泥酔状態』だと知るのは、もっと後のことだった。


「ねえ……。キミに、とっておきの魔法をあげようか」

「え……?」


 今度は頬をテーブルにくっつけて、ぼんやりとしたまま聞き返す。

 傾けた頭のぶんだけ上下が逆になったウィリスさんが、私にそっと囁いた。


「まだ研究段階だし、うまくいくか分からないんだけど……きっと、身も心も強くなれるよ」


 ウィリスさんは、リイナが言っていた『魔法使い』だったのだろうか。

 一瞬そんなことが頭をよぎったものの、初めてのアルコールに警戒心を剥ぎ取られた状態では、もう何も考えられない。


「本当ですか?」

「本当本当。ね、どう? 試してみない?」


 どこか艶っぽい声で囁かれる言葉は、抗いがたい誘惑だった。


「……試して、みたいです」

「じゃあ決まり。酔っちゃったみたいだし、少し眠れば?」


 ウィリスさんの言葉に甘えて、まぶたを閉じる。


「……次に目覚めた時を、楽しみにしておいで」


 そんな言葉を最後に聞いて、私は心地いいまどろみへと落ちていった――。 

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