第1話 夢見る貧乏令嬢


 ドラゴンの背中から見える大きな夕日に、姫が歓声を上げる。

 姫はたなびく豊かなブロンドの髪を片手で押さえ、傍らに寄り添う騎士を見上げた。

 「私は今まで、こんなにも世界が広いということを知らずに生きてきたのですね」

 「これから知っていけばいいのです。……私が、ずっと姫様のお傍におりますから」


 そうして二人は、お互いの想いを確かめ合うように唇を重ねたのだった。



 そこまで読んでから、私はページに革製のしおりを挟み、そっと目を閉じた。

 ああ――。これが、同じ世界で起こり得ることだなんて!


 騎竜隊の騎士と姫君の禁断の恋に思わず身もだえする。

 もちろん、ここまでドラマティックな物語が日常にごろごろ転がっているとはとは思わない。

 けれど、ドラゴンは実在する世界最大の爬虫類だし、騎竜隊はこの国の王家が擁する重要な実力組織だ。

 資源豊かなこの国、ラケルタ国が、今まで他国からの侵略を許さなかったのは、ひとえにこの国の固有種である大型のドラゴンと、それを自由に使役することで絶大な力を誇る騎竜隊がいるからに他ならない。


 つまりこれは、『もしかしたら自分の身にもこんな素敵なことが起こるかも……』と全国の乙女に夢を見せてくれる素晴らしい物語なのだ。

 きっと、この後ヒロインとヒーローは、様々な困難に引き裂かれそうになりながらも、最後は幸せな日常を手に入れるのだろう。

 冒険とロマンスが詰まった本なら、それがお約束の展開だった。


 雄大なドラゴンの背に乗って、素敵な殿方と空を飛ぶことが出来たらどんなに素敵かしら……。


 うっとりとため息をついてから、私は手にしていた本を棚へと戻した。

 繰り返し読んだせいで少し擦れた背表紙を見たその瞬間、夢見るように本の世界をさまよっていた心が、あっという間に現実へと引き戻される。


 ああ、そうだ。お父様の書斎にいかなくちゃ。


 父親が帰ってきたら書斎に顔を出すようにと言われていたことを、すっかり忘れていた。

 私はベッドから立ち上がって、大きな姿見の前に立つと、裾のレースが少しほつれたドレスを整える。

 このドレスを従姉から譲ってもらったのは、何年前のことだっただろうか。

 古くても清潔さを保ち、丁寧に繕えば長く着られる。

 シンプルですとんとした形の水色のドレスは、やや流行遅れではあるものの、動きやすく慎ましやかで気に入っていた。

 襟元も整え、コルセットを締めた背中をしゃんと伸ばしてから、真っ直ぐ姿見に向き直る。

 鏡の中から、澄んだブルーの瞳がこちらをじっと見つめ返した。

 少しくせのある、たっぷりとした黒髪はそのまま後ろに流す。


 私の名前はクラウディア・メルヴィル。

 愛称ディア。貧乏貴族の一人娘である。

 ひいおじいさまの代までは王都の宮廷貴族として仕えていたらしいのだけれど、おじいさま曰くライバルに陥れられたことがきっかけで、田舎の屋敷を与えられ、ていよく王都から追い払われてしまったのだという。


 とはいえ、没落しかけではあっても、私は貴族の箱入り娘だ。

 ドラゴンに乗っての冒険も、自由な恋愛も、両方縁遠いものだった。



 父の書斎は、屋敷の一番上の階にある。

 ドアを開けると、そこには父であるマイルズ・メルヴィル男爵と、その妻であり私の母であるアンネ・メルヴィル男爵夫人……それから、小さな頃からこの屋敷に勤めているメイドのリイナがいた。

 彼女は私よりほんの少しだけ年上だ。

 先日の台風の際に屋根が壊れてしまったらしく、リイナは甲斐甲斐しく水滴がこぼれてくる箇所にバケツを置いている。その数、3つ。


 うちの屋敷は、一般的な貴族の屋敷よりもひと回りほど小さく、その上老朽化が進んでいた。

 最近はますます貧窮してきたため、使用人もほとんど解雇し、人手も少なく、なかなか補修まで手が回らない。

 屋敷を常に綺麗に保つには、膨大な金が必要なのだ。


「もういいぞ、リイナ」

「かしこまりました。それでは失礼いたします」


 リイナはお父様とお母様に丁寧な礼をしてから、ドアの方へと向かった。

 出ていく際に、私と一瞬目を合わせる。これは幼い頃からの『また後でね』の合図だった。

 ドアが閉まるのを待ってから、私は唇を開いた。


「お父様、お話とは何のことでしょうか?」

「……そろそろ、お前の結婚相手を決めようと思う」


――やっぱり。

 そろそろこの話が来ると思ってたわ。


 いわばこれは、貴族の娘としての義務のようなものだ。

 政略結婚によって、貴族同士の繋がりを強固にし、家をより安定したものにしていく。

 それはごく当たり前のことで、私自身も、幼少の頃から見知らぬ誰かに嫁ぐのが当然だと思って生きてきた。

 まして傾きかけた家であれば、これほど重要な意味を持つイベントはない。

 きっとお父様は、前々から候補を絞り、相手の家との相談を重ねていたのだろう。

 ある程度婚約が現実的になるまで、私に知らされないのは当然のことだ。


 物語の中のような恋愛に憧れたとしても、それは所詮遠い世界の出来事。

 そんなことはわかっていたはずなのに。


 動揺を悟られないようこっそり息を吸うけれど、母親の目は誤魔化せなかった。


「クラウディア、不安もあるでしょうけれど、これはあなたにとっても素敵なお話なのよ」

「分かっています、お母様」


 頭では分かっていても、心の整理をつけるにはまだもう少しかかりそうだ。

 私は微笑んで、自分と同じ色をした、お母さまの澄んだ瞳を見つめ返す。

 そうすると、少しだけ心が落ち着いていった。

 清楚な雰囲気をまとった、落ち着きのある女性であるお母様は、小さな頃から私の憧れだった。


「失礼のないよう準備を整えておきます」

「立派な心掛けです。うちは裕福ではありませんが、遡れば由緒正しい家系です。どんな時も、高潔な心を持って、冷静さと道徳を忘れず……」


 その瞬間、お母様の言葉が途切れ、その目は窓辺にくぎ付けとなった。

 視線の先を追った私は、すぐその原因に気づく。

 っ……いけない。

 私がすぐさま対策に出るよりも早く――


 ――書斎に、細い悲鳴が響き渡った。


「いやぁ! トカゲがいるわ!!」

「お、お母様、落ち着いて! 今私が窓から逃がしますから!」

「いやぁぁぁ!!」


 母親は爬虫類が大の苦手なのだ。

 屋敷に忍び込んだ蛇を見つけて、その場で卒倒したこともある。

 私は慌てて窓辺のトカゲを掴もうと試みた。


「あら、しっぽが切れちゃった……」

「しっぽが切れたですって!? いいやあああ!!!!」


 お母様は普段の冷静さを投げ捨てて逃げ惑い、やがてバケツに足を取られひっくり返った。


「お母様! 大丈夫ですか!?」


トカゲをそっと窓の外に逃がしてやってから、お母様の傍に駆け寄る。


「ううっ……大丈夫よ……」


 返ってきた返事は、心なしか半泣きだった。

 お母様はどうしてこんなに爬虫類が苦手なのかしら。

 こんなに可愛いのに。


「まったく、君は仕方がないな」


 お父様はため息をついてから、お母さまを丁寧に助け起こした。

 お父様もお母様も、政略結婚で一緒になった。

 けれどこうして、仲良く助け合っている。


 ……私も、きっとうまくやれる。

 そうよ。どんな相手かも分からないまま、不安になるなんてことないわ。


「……詳細については、また後日お前に伝えよう。それまでに心の準備を整えておきなさい」

「はい、お父様」


 私はお父様に頷いて、書斎をあとにした。

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