三河と美濃

 末森の城を出て南東に向かう。西三河の豪族が不穏な動きをしているとの知らせがあったためだ。


「松平次郎三郎がこちらに通じたと噂になっておるでや。今川としてはこれ以上我らが三河に出られたくはなかろうず」

「左様にございますな。安祥の城周辺の豪族どもはこちらによしみを通じてきており、その動静をみた岡崎衆も揺らいでおるとのこと」

「東は今川と伊勢の和睦がなったと聞くでや。武田とはもともと盟を結んでおったゆえ、今川はほぼすべての力をこちらに振り向けられるわけじゃの」

 

 数名の供回りだけを率いて殿(信長)がやってきた。

「海からの攻勢は佐治が防いでくれるでな。鳴海の山口次郎と合力して兄者の後ろ巻きとなるのでや」

「かしこまってございまするに」

「うむ、南の守りはおのしが頼りでや。今は爺様の後始末に忙しくてのう」

「後始末にございまするか?」

「うむ。津島の市を取り抱えたのち、長島の市を焼いておるでや」

「な、なるほど……」

「坊主どもに頭をさげるは下策なれど、一度は詫び言を言うことになるやもしれずでなん」

「さすがに当国で加賀のごとき真似は致しますまいが」

「あれは守護の富樫がやらかしたのもあるそうだでなん。百姓どもが一揆に身を投じるは現世の望みを絶たれるからにほかならず。いくさ、天災による飢饉、疫病、人の命は紙切れよりも軽い世であらあず」

「……殿の望みはいかなる世にございまするか?」

「きまっておろうが。百姓が人売りに子を売らず、家族がひとところにとどまって平穏に暮らせることでや」

「それは……夢のような話にございますな」

「飢えず、争わず、平穏に日を送る。そういった時代はこれまでもあった。今がおかしいのでや。なればそのおかしいことを一つ一つ正す。そうしておけばいつかは太平の世になろうがや」

「左様にございますな。我が子、いや、孫の世にはそのようになっておればと思いまするに」

「大丈夫、三十年後には何とかなってると思う」

 ひょっこりと喜六様が現れた。

「ほう? 喜六よ。我らが父上ほどの歳になるころには天下は治まっておると申すか?」

「ええ、尾張の平定もほぼなってますし、松平を麾下に置ければさらに当家の戦力は上がります。三河武士は精強ですからね」

「だが扱いづらい連中であるぞ」

「はい、ですから竹千代を旗頭にすればよいかと。あの子は長じれば竜か虎か、天下に通じる弓取りになりますでしょう」

「ふむ、たしかに根性は大したものじゃ。我の遠乗りにあの年でついてきおったからのう」

「うぇ!?」

 喜六様がげんなりとした顔を見せる。

「兄上は脳筋だからなあ」

「ふむ、尾張の今の兵力なれば遠江の今川までなら互角以上に戦えよう」

「ええ、ただ総動員の決戦は危険が大きい。豪族を取り込んで戦力差を詰めるのが先決でしょうね」

「うむ、三河においては松平の名がそれなりに通っておろう」

「もう一つ、押さえておきたい家があります」

「ふむ?」

「吉良家ですよ」

「……なるほどな。三河の正当な支配権はかの家が名目上は持っておるか」

「もともと斯波の家とつながりが深い家でもあります。話を通すことはできるかと。あとは美濃の情勢を探っておきましょう。マムシ殿と六尺五寸殿の反目のうわさが伝わってきております」

「舅殿と義兄殿がか。確かに義兄殿の母上は主より下げ渡されたと聞くが」

「ええ、その血筋の疑惑、あるいは期待をもって土岐家の存続をにおわせてきた。けどそれは斎藤家をもむしばむ毒となった」

「ふむ、今ならば調停も可能か?」

「そう、ですね。例えば隠居様を尾張にて引き取るという交渉はできましょう。しかし、同盟を維持できるかということになりますと……」

「義兄殿がまことに土岐の血筋ならば、我らとの縁もないということにならあず」

「ですね。それに美濃の国衆が総動員されればまた加納崩れの憂き目を見ます」

「此度は負けぬ、とはたやすくは言えまいな」

「権六、頼みがあります」

 殿と喜六様の話を遮るまいと隣で聞いていたこちらに矛先が向いた。

「はっ!」

「一色領は津島に近い。そこから川をさかのぼって川筋の者とつなぎを付けてください。兄上の家臣の生駒殿が伝手を持っておられます」

「ははっ!」

「ところで兄上。生駒殿の妹御のこと、義姉上に話はついているので?」

「ぐふっ!」

 茶をあおろうとしている殿がむせた。

「というか、普通にバレてますからね?」

「ん? 喜六ヨ、キサマハナニヲイッテオルデヤ?」

 小刻みに茶碗が震えており、全身の震えは気合で押しとどめている。

「ああ、もう。僕は忠告しましたからね? あ、あと、塙の所にいる方、身ごもっておられますよ?」

「なぬっ!?」

「兄上、肚をお決めなさい。義姉上は懐の広い方ですよ」

「う、うむ。父親になるというに妻の一人も御せぬでは面目たたぬでや」

 

 その日は殿はとぼとぼと帰られた。その日の晩、清須の城では、凄まじい絶叫の後、なにやら悩ましい声が一晩中聞こえてきたという。


 生駒屋敷は犬山の南西にあり、もともとは犬山の十郎様に仕えていたそうだ。生絹や皮革を扱っており、川筋の者からは毛皮や材木を仕入れていた。

 主の八右衛門が船に乗り案内を申し出てくれたので、共に船に乗る。生駒家の家人が竿を操り、川船はすいすいと川をさかのぼる。

 

「川筋の者は川並衆を名乗っておりまする。川筋に領地を持つ土豪どもの集まりにて、渡し賃などを取ることもあり、またこのあたりの地勢を知り抜いておりますゆえ、神出鬼没の出入りで討伐軍を幾度も退けておりましたでや」

「なるほどなん。たしかに葦が生い茂っておる。足元もぬかるんでおるゆえ進退には苦労するに違いなし」

「柴田様は歴戦の武者にございますな」

「うむ? それほどのことはないでや」

「いいえ、たいがいのお侍様は、山賊の類と言うことで油断をし、足元も見ずに攻め入り、袋叩きに遭いますのでや」

「それは油断が過ぎると言うものであらあず。まあ、儂も先日、殿にしてやられたでな。その過ちを繰り返さぬよう胆に銘じておるだわ」

「頭役の蜂須賀小六は、楠流の軍法を心得えておりなかなかに油断のならぬ男にござる。しかし味方に付ければ頼もしき武者にてございまするに」

 生駒八右衛門は笑みを浮かべつつ様々のことを教えてくれた。

 真っ向から野戦を挑んでくる武士よりも、こういった野伏せりの類の方が力を発揮する場面もあるのではないか。

 喜六様は、凝り固まった儂の頭に新たな智を植え付けてくれたように思えた。


 蜂須賀の小六は気持ちの良い男であった。こちらは助力を頼む立場ゆえに礼節を示したのもよかったようだ。

 屋敷の中庭で。川筋の男どもと相撲を取る。みな屈強の武者どもで、勝っても負けても歯並みをあらわして大笑する。

 差し出された酒を一息に飲み干すと手を叩いて歓声を上げた。


「権六殿や。儂が貴殿に毒を盛るとは思わなんだかや?」

「楠流を自称するは勤王の士にあらあず。無論いくさ場において奇襲やだまし討ちは普通のことゆえ驚かぬ。そのうえでおのしらは恥を知るもののふゆえ、卑怯なことはせぬと思うた。故に儂に毒を盛るなどあり得ぬことじゃ」

「がはははは! なんとも胆の太き男でや!」

「それにのう、おのしらは昔、斯波の家に仕えておったと聞く。なれば儂も斯波の家に連なるものでや」

「うむ、しかしのう。家柄だけで食っていける世の中にあらずか。相応の力がなければ危くて我らも合力できぬでや。そこを分かってくだされや」

「うむ、して儂、ひいては上総の殿は合力にあたいするかのん?」

「すぐに主従の縁を結ぶはちと難しきことではあるが、権六殿は信じるに値するでや。あとは働きに応じて、と言うことでいかがかのん?」

「よからあず。承知でや。なれば八右衛門殿は清須の殿に首尾をお伝え願うでや」

「かしこまってございまするに」

「貴殿らに頼みたいことはのん。美濃の物見でや」

「ふん、濃尾の川筋は儂らがなわばりの内でや。明後日には噂の類をまとめて一色の城に届けさせるでなん」

 小六はこぶしを握ってその胸板をドンと叩く。

 そのまま情報のやり取りは生駒八右衛門殿にお願いすることとした。初めに受けた報告では、やはり親子の間で対立の兆しが見えるようであった。土岐家臣であった者どもが、新九郎義龍殿を担ぎ上げ、讒言によってその中を割こうとしている。人間疑心にとらわれるとそれしか見えなくなる。今は抜き差しならぬ情勢とはいまだ言えぬゆえに殿は静観の構えだが、川並衆以外にも美濃に入れる細作を増やして居る。


 そんなある日、美濃より使者がやってきた。斎藤入道道三殿が、殿と面会を申し入れてきたのだ。

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