新たな名
宴の翌朝、広間では酔いつぶれた侍どもが呻吟の声を漏らしていた。
す、と襖を開いて、死屍累々の有様を薄眼で見た後、再び閨に戻る。
そこには身支度を整え終わったつやが座っていた。
「あなた様。わっちに名をくださいませ」
「名前? いかなることでや?」
「父よりもらった名なれど、わっちはあなた様の妻となりました。それに、主家の姫と言う立場も、あなた様が付けた名を名乗れば少しは感じが変わるかも、ですわな」
「うむ、そなたがそう望むならばちと考えてみるでや」
「はい、お頼み申しますわなも」
妻の顔を見れば機嫌良き様であった。
「儂の一番大事なものはのう、昨日からそなたになったでや。……いちと名乗ってくれぬかや?」
その一言に、妻は目から涙をあふれさせた。
「あなた様、その名前はそれほどに大事なものにございまするか?」
「うむ。そなたの顔を見ておるとふと浮かんだ。もしやもすれば前世の女房の名かもしれぬ、さらに言えばそなたの前世の名、とはさすがに絵物語のようだがや」
「いいえ、いいえ、わっちはその名前が胸にすとんと腑に落ちましてございますわな」
「左様か。気に入ってもらえたならばよい、でや」
「はい、では実家の弾正忠家は商いで大きくなった家にございます。よって、市と名乗りまするに」
その名前を聞いてなぜか儂の魂そのものが揺さぶられたような心地になった。二人互いの身体を抱き寄せて、涙を流す姿は異様であったであろうが、それでも何か大事なものを取り戻した。そのような心持であった。
婚礼の宴はそれから二日続いた。初日の醜態が嘘のように殿は立派な身なりで市の父親代わりを勤めておられた。
「市とな。ふむ、良き名にあらあず。権六のことを頼むでや。こやつにはいつもいくさ場の最も過酷なところを任せてしまう。それゆえ自らも気づかぬうちに疲れをためてしまうことがあろうず」
「いえ、殿、そのような」
「身内となったでや。そのような水臭いやり取りはとろくさいでや」
「はっ、それでも主従のけじめは付けまするでや」
「よい、それを忘れる権六でないと思うておる。儂は良き弟を持ったでや」
「権六、そのお言葉を終生忘れませぬ」
宴の翌日から末森の城に出仕する日々に戻った。
「たあああああああ!」
朝の鍛錬で喜六様が儂に木刀を打ち込んでくる。速さはないがまっすぐに打ち込まれる剣筋をみて、この方はいっぱしの侍大将になれる方だと確信する。
「ふん」
かつんと打ち込まれる木刀を横から叩き、そのまま面を打つべく木刀を伸ばすと、喜六様はそのまま踏み込んでこられた。
儂の切っ先をかいくぐり、そのまま懐に飛び込んでそのまま突きを放ってくる。力こそないが判断は速く、迷いがない。
そのまま三度打ち込みをするが、きれいに外され、そのまま反撃してくる。
「うむ、お見事な腕前にて」
「お世辞は良いよ。僕がいくさ場に立つとしてもそれは陣頭に立って戦うことじゃない」
「大将たる者はみだりに刀槍を振るうものにはあらせられぬものにて」
「ああ、せいぜい後ろから権六のいくさぶりを見守っているよ。その手柄も見逃さないようにね」
「良き心がけにございまするに」
正午を過ぎた。今日の予定は在郷の巡回で、いまの喜六坂が最も力を入れている仕事でもある。
上総介の殿は一銭斬りの布告を出された。盗みを働いたものは額面が一銭であったとしても、理非を問わず斬刑に処すとの苛烈な内容だ。
実際に、数名の罪人が斬られ、中には有力な家臣の縁者がいたという。
「火起請をいたすでや。こやつが無罪ならばこの手斧を取り落とすことはなからあず」
火起請とは、真っ赤に焼いた斧を素手に受け、それを神棚に置くことができれば潔白であるとの神事だ。
「こやつが取り落としたのちに、我が事を成せばこやつは成敗するでや。左様心得よ」
かくして、咎人は斧を受けた瞬間に取り落とし、三郎様は顔色一つ変えることなく、悠然と歩んで神棚に斧を置いた。
「よいか、疑いある者を詮議するは構わぬ。しかし、横紙を破って我が決めた掟を破ろうとするものは火起請にて我が受けて立つでや。わかったかや!」
わが身を焼いてまで掟を守らせようとする姿に、悪心を抱いていた者は震えあがり、また小姓衆の鍛錬と称して山賊や野党の討伐をたびたびおこなった。
美濃方面と三河国境を除き終り領内の治安は急速に安定した。
「此度の守護代様は恐ろしき方にて有らすが、百姓には優しきお方でや」
「さようにあらあず。彼の武辺者の戦奉行様のお子にあらせられるゆえだなん」
「うむ。なんにせよ守護代同士の小競り合いがなくなって暮らし向きがようなったでや」
「だのん。いくさに駆り出されることがなくなって野良仕事ができることが幸せだで」
農民たちは野良仕事に精を出し、荒れた田畑は急速に復興した。その背景には喜六様があった。
「やあ、新しい鍬の使い勝手はどうかな?」
「へえ、おかげさまで、前よりも楽に耕すことができるわなも」
「うん、困ったことがあったら末森の城まで来るんだよ」
「ありがたやありがたや」
「喜六様は文殊菩薩の使いだで」
喜六様が農民に貸し与えたのはなにがし備中と言う鍛冶師が作った備中鍬と言うものだった。
また駄馬にひかせる大きな鍬などを作らせ、新田の開墾に大きな力を発揮している。
「ふむ、作柄にはやはり違いが出ているね」
水路を挟んで二つの田では、稲が伸びて穂を実らせ始めていた。
向かって右の田は喜六様が唐の書物から見つけたやり方で作付けがされている。
種もみをまず洗ってひげ根を取り去る。のちに一升桝に水を満たし、種もみを入れ、手でかき混ぜる。その時に浮いた軽いものは掬って取り除く。
のち喜六様が定められた量の塩を水に混ぜ、かき混ぜるとそれまで沈んでいた種もみが浮かんでくる。
そうやって実の詰まったもみだけを使うのだという。
向かって左の田は、耕した土に直接種もみをばらまいただけだ。生えてくる稲も太かったら細かったりでバラバラで、一部は病気を持っていたのか枯れているところもある。
枯れたところは引き抜いて行く。それだけでも手間が大きい。この作業を手早く行わないと近くの稲も枯れていくのだ。下手すると田んぼ一面が枯れ、収穫ができなくなる。
一方、喜六様の指揮を執る田は、種もみを水につけて一晩おく。
木枠に種もみを敷き詰め、上から田の土をかける。日当たりのよい場所に置き、水を均一に駆けてしばらく置くと芽が出てくる。
半月ほど様子をみて、生えてきた苗が五寸ほどになるまで育てる。
同時に田の土を起こし、かき混ぜる。ここで新調した鍬や、大きな鍬を使い、深く掘り起こす。
水を入れた田になにやらからくりを入れて歩き回っていた。田の土に同じ間隔で穴が開いており、苗をその穴に差し込むように植えるよう下知があった。
均一に植えられた苗は夏の日差しを浴びて青々と生い茂る。
「こうやって均一に植えれば土の中の滋養が同じだけ行き渡るんだよ」
「ほほう」
「植える範囲にばらつきがあると、滋養が多いところと少ないところができる。そうすると実り方にもばらつきが出る」
「ふむふむ」
「権六、ただ返事したらいけないよ」
「ごほっ!」
「ふふふ、権六は正直だよね」
「申し訳ありませぬ。武骨者ゆえ、学問と言われてもとんとわからず」
「いいさ、共に学んでいこうよ。例えば兵一千を一月戦場に立たせるにはどれだけの物資が必要か、とかさ」
「は、ははっ」
「これはさ、そろばんっていうんだ。唐の国から伝わったものでね。あとはこの字だけどね、大秦国(ローマ)から伝わったものだ。数を表してるんだけどね。見やすいでしょ」
「ほう!」
幼いころから字を学び、多くの書物を繰り返し読まれた喜六様の知識量は古老をはるかにしのぐと言われておった。
喜六様の知恵で左右の田の実りには大きな違いが出ておる。世話をする農夫も驚きを隠せない。
もともとの作付けをした田は、とくに不作と言うわけではないのだ。この田だけが異様なほどの実りをしている。
「来年はこのやり方をもっと広めよう」
「はっ、それがよろしいかと思いまするに」
喜六様は帳面に何やら書き込んでおる。そこには大秦国の数字を中心に何やら書きつけられていた。
「あとでどういうことか教えてあげるけども、この村のことは極秘扱いにしてるからね。兄上に報告を上げないとだ」
「は、ははっ」
秋にはこの田は他の田よりも倍近い収穫を上げた。
「大見栄を切った手前、うまく行ってよかったよ」
喜六様はそうおっしゃるが、初めからこのようになると考えていらっしゃったのだろう。
収穫した後の穂を瞬く間に落とす千歯こきなどの道具類をみて儂は確信した。
「この方は上総の殿とは別の才を持っておられるでや」
「権六、喜六を元服させるでや。諱は父上からもらって、秀孝といたせ。貴様が烏帽子親となるがよい」
末森から納められた税の量を見て殿(信長)の目の色が変わった。すべての田で同じことができるかはまだ何とも言えないが、同じ広さの田で倍の収量が上がればそれは織田弾正忠家の力がまさに倍になることを意味する。
「うへえ、僕まだ十一なんだけどなあ」
普通の若君は元服となれば勇み立ち、喜びをあらわにするものであったが、喜六様は肩をすくめていた。
「めでたきことにございまするに」
「ああ、そうだね。権六、これからも頼むよ」
喜六様はふわりと笑みを浮かべた。それは最愛の妻によく似た面差しであった。
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