春来たれり

 稲生での試し合戦で、三郎様の武略は見事というほかなかった。

「我が鷹狩りに出るたびに平手の爺は顔をしかめておったがのん。尾張の川が雨が降るとどの程度の深さになるか、我以上に知っておるものはおらんがや」

 

「領内のことを知らずしていかに戦えようでや。美作は儂の手勢が現れたときにはおもしろき顔をしておったでなん」


 日ごろ遊び歩いているように見えて、実はどこでいくさになっても戦えるよう物見をしておったそうじゃ。

 

「兄上、恐れ入ってございまするに。儂は兄上の家来となって犬馬の労を尽くすでや」

「勘十郎よ。おのしは頭かしこく、物事をよく知っておるでや。習い、覚えた知識は使いこなせねば意味がない故にのん。励むがよからあず」

「ははっ!」

「おのしは礼法に詳しく、また領内の土豪どもの受けが良いでや。我と彼らを取り持ってくれぬかのん」

「ははっ! かしこまってございまするに」

 

 本人同士は仲が悪いということはなかった。それでも側近どもが様々な言葉を伝え、本人同士が語る機会がないままに疎遠となっておった。

 また、三郎様は頭の回転が速すぎて、言葉がぽんぽんと飛び跳ねるように出てくる。喜六様がそこを諫めてくれたようで、ほかの者にわかるように言葉を増やしてくださった。

 それによって家臣どもも、三郎様の考えを多少なりともわかるようになってきておる。

 

「うむ、家督は三郎が継ぐ。儂は隠居して武衛様のおそばに仕えることとなっておるでや。勘十郎(信勝)、孫三郎(信光)、三郎五郎(信広)は連枝として三郎を助けてやってくれい」

「ははっ!」


 弾正忠家の分裂の危機は避けられた。清須の陥落はすでに決まったことのようになっており、三郎様が清須に入り、那古野には勘十郎様が入られるそうじゃ。


 清須衆の大敗を見て、岩倉からもよしみを求める使いがやってきた。次男の信時殿を武衛様の小姓として仕えさせるというが、実質は人質と言うことであろう。

 信安様は隠居され、信賢殿が家督を継ぐそうじゃ。


 そうこうしておるうちに、犬山の信清様が那古野へ武衛様を訪ねて参った。


「武衛様にはご機嫌麗しく、誠にめでたきことにございまするに」

「うむ、十郎よ。此度はいかがしたか?」

「はっ、先年より伯父上の武名を聞き、誠に恐れ入ってございまするに。伯父上の下知を受けたく、ご紹介を頂けたならまことにありがたき仕儀にて」

「弾正忠に降ると申すか。よかろうず。儂が一つ骨を折ってやるだわ」

「ははっ、ありがたき仰せにてございまする」


 殿の姫を犬山に嫁がせることで話は決まった。これより十郎様も連枝として仕えることとなった。

 先日盟を結ぶことと相成った岩倉の信賢殿も殿の姫を娶ることと相成り、上四郡は戦わずして味方になった。


 そして清須攻めの下知が下る。発端は坂井大膳の蓄電であった。東に向けて去って行ったということは、今川に通じておったにほかならずとのうわさが立っている。


「頃合いでや」

 美濃国境はすでに最低限の兵だけを残して動員された。岩倉衆三千。犬山より二千。那古野衆千五百、末森衆千、そして殿の旗本衆が三千。

 合わせて一万を超える兵が集った。


「取り囲め!」

 南北から攻め寄せる軍勢になすすべもなく城を取り巻かれる。先年の生出によって焼けた城下の復興もまだ進んでおらぬ。

 城兵はここが最後と斬り死にの覚悟を決めている。死兵を相手どって手負い死人を出すのは本意ではないと、開城の交渉をすることとなった、


「彦五郎、降伏すりゃあ命までは取らんでや。おとなしく出てきしゃんせ!」

 大手門より殿が呼びかける。すでに番衆は集まらなくなっていた。家来が裏切っておったことに気づかなかったと間抜けな主君と面目はちり芥のごとくであった。


「弾正忠。儂は腹を切るでや。儂が死にざまをその眼に焼き付けるがよからあず。貴様も負ければこのような憂き目になるのでや!」

 大手門の矢倉に駆け上がると、もろ肌を脱ぎ、一気に腹を掻っ捌く。介錯の家来もおらぬありさまに、尾張に名を知られた守護代の末路としてはあまりに哀れであった。


 こうして清須は落ち、尾張一国は武衛様のもと一統と相成った。ときに天文二十年の春のことであった。



「権六、おのれは腰が太きでなん。並みの帯では足りぬがや」

「それはおふくろ様が儂を大きな子として生んでくれたからでや。ありがたきことにてあらあず」

「うむ、うむ」

 晴着を着付ける女中たちを見守りながら親父は目に涙を浮かべていた。これで孫でも生まれたらいかなることになるやらと思うと、自然と笑みが浮かぶ。


「なんじゃ、権六よ。はやくも嫁御のことを思うておるか。顔がにやついておるで」

 涙を浮かべたことをごまかそうとしておるのか、親父が儂をからかってくる。

「左様、三国一の嫁を迎えるのじゃ。うれしゅうての。子が生まれたらさぞや親父はかわいがってくれようと思うとさらにうれしく思うがや」

「ぐふっ……このたわけが! これ以上親を泣かせるでないわ!」

 泣き笑いの顔に、女中どもも笑みを浮かべる。


 清須が落ちて二月。初夏のころ、草木は青々と生い茂り、田畑の作物も大きく背を伸ばしておった。

 末森城代の役目は変わらず、この城は喜六様が居城となることとされていた。勘十郎様は独り立ちされ、那古野城主となっておられる。

 清須の城には三郎様が入られ、弾正忠を名乗られることとなった。それとは別に上総介の名乗りを始める。

 これは親王任国にあたる国の介官を自任することで、主上を助け賜らんとする意思を示すと同時に、今川への挑発も兼ねておるようだ。

 今川治部の嫡子、五郎氏真も上総介を名乗っており、こちらが正統であると宣言したこととなる。斯波武衛家の悲願である遠江奪還を目指すという意図の表れであろうか。


 殿は隠居され、備後守を号された。戦奉行の役割はそのままであり、武衛家の軍権を握ることは変わらない。

 尾張より大きく軍を動かすこととなれば、殿が指揮を執ることも変わらない。いわゆる院政のようなかたちだ。

 このやり方は別に珍しいことではない。当代が若いときは先代が後見し当主としての経験を積ませるわけである。

 虎と呼ばれた殿の武威はあまねく東海に響き渡っており、尾張一国を平定したことでさらにその威信は膨れ上がっておる。

 西三河は矢作川西岸の豪族どもは三郎五郎様のもとにひそかに使いを出しておるとのことだ。


 日が沈み、あたりが闇に落ち始めるころ、たいまつを掲げた一行が一色の居館の前に到着した。

 婚礼とは昏いときに行われる礼をさす。故に花嫁の行列は夜に着くのが習わしであった。

 行列とは別に殿はすでに到着されており、澄酒をあおって大変上機嫌であった。


 列の中央にあった輿の御簾が上げられる。

 艶やかな着物をまとわれたつや殿が裾を払って当家の門前に降りられた。


「権六様。不束者でございますが、末永くよろしくお願いします」

 おしろいをはたく必要もないほど透き通った肌に、わずかに朱がさす。口元に塗られた紅が儂の目を引き付けて離さなかった。

 今声を発してもまともな言葉が出てこぬと思い、咳払いをする。

「ん、んんっ! 柴田権六、あなた様を生涯賭して守りまするに」

「ふふ、わっちは貴方様の妻にございまするに。かしこまった言葉遣いは無用にてお願いしますわなも」

「は、ははっ!」

「だから……」

「相すみませぬ。ですが、これが儂のありようにございまするに」

「ふふ、仕方ない殿方ですわな」

 苦笑を浮かべつつ差し出された手を取る。その指先はわずかに震えていた。壊れ物を扱うように注意を込めてその指を握る。

「では」

「ええ」

 長年連れ添った夫婦でもあったかのように馴染む手をとり、すでに出来上がっている広間へと向かう。

 そこには婚礼を祝う同輩、家来ども、そして主筋の方々が笑いあう姿が広がっていた。

 

「余興でや!」

 いきなりもろ肌を脱いだ殿が立ち上がり、ふんどし一つの赤裸で大杯の酒をあおりだした。

「兄上!」

 つや殿が般若のように眦を釣り上げ広間に突進する。

「おう、妹よ! 嫁ぎ遅れにならず誠に重畳でや!」

「余計なお世話じゃこの慮外者!」

「殿! 服を着てくださいませ!」

 平手五郎殿が殿の脱ぎ捨てた服を手に駆け寄り、その姿を見た古参の家来どもが手を叩いて大笑いする。


「殿も今では大名でござると行儀よくしておらっしゃるがのう、若いころは津島の悪所に入り浸って、いろいろとやらかしてござるだわ」

 親父がやれやれとばかりに肩をすくめる。

「三郎様のことを全く言えぬ所業ではないかや」

「うむ、そのことを知っておる故に三郎様も反発したにちがいなし」

 背後からうめき声が聞こえた。つや殿が裾を払い、そのしなやかなつま先は殿の股座に突き刺さっている。

 広間にいた男どもは腰が引け真っ青な顔いろをしていた。

 真っ白な顔色をして殿が気を失われる。平手五郎殿が殿の足を引きずって広間の隅っこに移動させ、必死で介抱していた。

 その姿を見て再び大笑いが巻き起こる。


 広間のど真ん中で仁王立ちする我が妻は、この上もなく美しかった。儂はそのままひょいと抱き上げ、足で襖を開いて隣の部屋に入った。

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