後詰いくさ
「うむ、めでたきことでや。祝言の段取りは儂に任すであらあず」
「は、ありがたきことにて」
跪く儂の隣にはつや殿がいる。隣のというには多少の語弊がある。儂の腕にしがみついて離れてくれぬ。
「うふふふふー。やっと巡り合えたのです。わっちはもう離れませんわなも」
「う、うむ。儂も同じにてありまするが、人の目があり申して、でや」
「顔を赤くされて……かわいい!」
「か、かわ!?」
にこにこと笑みを浮かべながらつや殿は儂の頬をつつく。
「やれやれ。権六よ。そんなところでおっぱじめるでないぞ」
殿の一言につや殿は「きゃあ」と叫んで、儂の首っ玉にかじりつく。
「つ、つやどの。そろそろ離れてくださらぬか? 儂の心の臓が持たぬでや」
「あら、うぶなお方でありますなも」
ひらりと身をひるがえして儂の懐から出ていく。ふわりと焚き染めた香が漂う。
「殿、いくさにございまするか?」
「おう。清須衆を叩くでや。今まで儂を下に見てこき使ってくれた礼をせねばなるまいが」
「……殿は決意されたのでございますな?」
「うむ、三郎がためにもう少し働いて見せるでや」
「御意にございまする。なれば儂の武辺。殿に預けまするに」
「おう、頼りにしておるぞ」
清須衆の物見に見えるように、戸板に乗ったまま殿が運ばれていく。腹芸のできぬ儂は周囲の警戒に回る。
あわただしく古渡と那古野の間を騎馬武者が行きかう。すぐに弾正忠家の一門衆が呼び集められる。
清須城に対する最前線の深田城主信次様も郎党を率いて参られた。
外向けには、殿と若が曲者に襲われ重い傷を負ったことになっておる。どちらも明日をも知れぬありさまと噂が流された。
そしてそんな中、孫三郎信光様が、清須方についた。
弾正忠家の重鎮が裏切った。その驚くべき情報に尾張中が右往左往し、身の振り方を考えている。
当主と後継ぎが不予となり、その二人に次ぐ立場の重鎮が裏切った。弾正忠家はまさに存亡の危機である。
「よき頃合いだで向背常ならぬものを洗い出すだがや」
良い笑顔で策謀を巡らす殿は実に生き生きとしていた。
「して、叔父上は手はず通りでや。我は那古野に戻る」
「うむ、清須の連中はまずは那古野を取り抱えようとするにあらあず」
「であるか。迎え撃つは庄内川かや?」
「そこで敵を叩くが、まずは城にこもるでや」
「……後詰にてあらあず」
「うむ」
「親父はいつも言うておったではないか。必ず敵地に踏み込んで戦えと」
「しっかりと引き付けるためでや。討ち漏らしは許されぬでなん」
「……承知したでや」
居城で敵を迎え撃つということは、城下の民が犠牲になる。もちろん、こちらが敵地に攻め入れば同じように城下を焼き、狼藉を行う。
いつの世も、難儀を受けるは弱き民であった。
「だが、二度はないぞ」
「うむ、わかっておる」
儂も居館に戻り兵を率いて戻ることとした。
古渡の城を発つとき、つや殿が見送りに出てくださった。
「権六殿。ご武運をお祈りしておりますわなも」
「うむ、つや殿の祈りはいかなる神仏よりもご利益がありそうでや」
にこりと笑みを浮かべるつや殿に手を振り、孫四郎らを引き連れて城に戻る。
先ぶれに藤八を走らせておいたゆえに、城では右往左往の大騒ぎであった。門をくぐった先の広場では、荷車に兵糧武具を積み込む小者が息を切らし、近隣在郷から集った男どもが貸し具足を受け取る。
あけ放たれた倉からは、これまで蓄えた戦支度のもろもろをすべて運び出そうとしていた。
「おお、殿!」
「久六、支度はいかがでや?」
「うむ、殿の婚礼の支度に落ち度があってはならぬと家中はみな張り切っておるぞ」
「ちがう!」
「おお、義父上にも伝えおいてある」
「だから!」
「うむ? 留守居を率いてもらう手はずだで」
「う、うむ」
「あと、主家より嫁がくるとは武門の誉れと大喜びであったでや」
「……久六、儂をおちょくっておるのかや!」
「うむ、殿はちと肩に力が入りすぎておるように見えるでなん。嫁御によきところを見せようとしているに違いなし」
「気負い過ぎと申すか」
「うむ。少し力を抜くがよかろうず」
心遣いに感じ入り、すっと頭を下げる。
「権六、何をするでや!?」
「おのしが心遣いに感じ入ったるでや」
「やめてくだされい。殿に万一があっては儂らが暮らしに困る故のことだけでや」
「それでもじゃ。儂は良き家来をもったでや。ありがたきことだで」
半日のち、広場には二百余りの兵が集っていた。それこそ乾坤一擲の総動員で、此度のいくさへの意気込みが家中にしっかりと伝わっていることを感じ、みぞおちのあたりに熱いものが込み上げる。
「此度は尾張のいくさ気を決める大いくさじゃ。おのしら、殿のおん前で恥ずかしきいくさを見せるでないぞ! 我らが武辺、しかと見せるでや!」
「「おおおおおおおおおおおおおおおう!!」」
出陣支度が終わり、これより出立と言う頃合いで、使い番が駆けこんできた。
「柴田殿はどちらか?」
「ご使者殿、お役目ご苦労にて。口上をお聞きしますでや」
「清須衆が一日前に出陣、那古野の城を取り囲んでおりまする。三郎様不予に付き、城代の平手様が大将にて守りを固めておりまする。殿は後ろ巻きの人数をもよおされ、古渡の城に集まれとのご下知にございまするに!」
気がせいておるのか、長口上を一息にて言い放った。
「委細承知でや。柴田衆はこれより殿のおんもとに駆け付けまする」
「加勢感謝いたす。では、某はこれより末森に向かいまするに」
「道中お気をつけなされ」
「ものども! 出陣でや!」
急ぎ足で古渡に向かう。不穏の気配に通りがかりの村は住民が山などに隠れており難を逃れんとしていた。
「おう、権六。すばやき手回しはさすがであるな」
「はっ! 那古野がすでに取り巻かれておるご様子。出陣はいつ頃にてございまするで?」
「うむ、後ろの備えは三郎五郎に任すだわ。それでもこちらの異変が伝われば今はおとなしゅうしておる松平どもが蠢くでなん」
「兵は神速を尊ぶ、にございまするな」
「おう、孫子であるかや。おのしを猪武者と思うておる者どもが唖然とするであらあず」
殿は余裕の笑みを見せる。しかし握りしめられた拳が震えていることに気づいてしまった。
大将とはすべての将兵の命を預かる立場である。その立場の者が揺らげば、その波は末端の雑兵にまで伝わり、軍は崩壊する。
一刻も早く後ろ巻きに出たいという焦りを必死に押し殺す姿に、心が痛む。
ここで儂が一人はやりたてても、陣が混乱するだけだ。何かできることはないかと陣中を歩き回り、兵を鼓舞して回る。
弾正忠家の旗本は八百騎、平手衆の半数は那古野に詰めている。古渡近隣の兵だけであるなら、二千がせいぜいだ。
そして清須衆は五千を数えるという。
戦力差はうわさとして広がり、勝ち目が薄いと人数を出すことを渋る村も出ている。
儂が着陣してより一日が過ぎた。兵は二千よりわずかに少ないほどしか集まっておらぬ。それでも殿は出陣を決意された。
「柴田衆、出陣でや!」
儂は先手を命じられ先頭に立って進撃する。
二つ雁金の旌旗は弾正忠家の勝利の象徴といわれた。
払暁より歩き始め、正午を過ぎて那古野の城に着く。城下は焼かれ、崩れた建物からはくすぶった煙が上がっている。
あえて姿を見せるように進軍してきたこともあり、奇襲を避けることと、挟み撃ちを避けるために、清須衆は囲みを解いて退く。
援軍を叩けば城方の士気は保てない。よって野戦で決戦を挑むことは判断としては間違っていない。
「あ奴ら此方の数を見ておらぬのか?」
「清須衆にはまともに采配がとれる侍がおらんでや」
「大和守に武辺の話を聞いたものはおらぬでなん」
こちらは城兵と合わせても三千に満たぬ数で、清須方は五千を数える大軍である。それこそ、城に抑えの人数を残して、残りの兵をこちらに差し向けることもできたはずだが、全軍をもってこちらに挑みかかるどころか、庄内川を渡って下がろうとする。
「そのようなすくたれた心もちでいくさに勝てるはずもなし」
物見を多く放って集めた情報によれば、敵には伏勢の類はない。数に任せて一気にこちらを押しつぶすにしてもなにやら腰が定まらぬ。
そうこうしておるうちに、敵の殿となっている地侍たちがほとんどこちらに降ってきたという。城攻めで先頭に立たされて大きな損害を受けたことが理由であった。
地侍たちは佐久間半介が率いて先手に加わるとのことで、我らは庄内川を目指して進軍を続けることとなった。
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