安祥合戦
Side太原雪斎
「うぬ、何たる武辺か!」
思わず嘆息してしまう。岡崎衆に多大な犠牲を払わせ、刈谷城の離反を招いてまで誘い込んだ虎は我の張り巡らせた罠を食い破ろうとしている。
あと一刻、いや、半刻あらば我は弾正忠の首を手にしておった。
西三河の政略についていろいろと考え直す必要が出てくる。岡崎衆にも何らかの補償が必要であろう。
「和尚!」
副将の朝比奈備中が本陣にやってくる。
「いかがしたか?」
「そろそろ手じまいすべきと勘考いたすずら」
「左様か」
我が言い出せば我が失態となる。そこをあえて泥をかぶってくれたか。包囲を解くように指示を出そうとしたとき、右手から喚声が上がった。
飛来した矢が肩に当たり、落馬する。頭を打ってしまい意識が闇に飲み込まれていった。
Side佐久間大学
「あの旗は大将旗にてあらあず」
戦場に到着すると、今川の陣中を騎馬武者が駆け巡っている。
「権六が奮戦しておる。あ奴らに遅れなば末代までの恥だでや!」
「旦那、我らは小勢故によっぽどうまく戦わねばすりつぶされるでや」
柴田衆の権八とかいう兵はこの期に及んで冷静にものを見ておった。やみくもに打ち行っては犬死となる。命を惜しむは恥だが犬死はその上の恥じゃ。
「弓衆、あの旗めがけて一斉に放て。三度打ち込んだら太刀引き抜いて切り込むでや!」
「「おう!」」
これから不意打ちを仕掛けるに大声は不要。権六たちに目が行っているうちに坊主めを脅かしてくれるだわ。
「放てえ!」
風に乗って放たれた矢は狙い過たず大将旗の傍に落ちた。にわかに本陣がざわめく。
「本陣がざわめいておるだわ。これは天祐に違いなし。者ども、掛かれ、掛かれ!」
迎え撃ってくる敵の足軽どももなにやら及び腰になっておる。
ひと当てして下がるか、それとも奥まで切り込むか。相手次第だが難しき取り合いになったものじゃ。
Side柴田権六
「大学が真後ろから斬り込んだでや。権六、いかがいたす?」
「うむ、本陣前の足軽どもが浮足立っておるでや。ひと当てして蹴散らそうず」
「だが殿の御身も気にかかるでなん」
「殿は無事でや。虎とも言われた御大将がこの程度のことで揺るぐことはなかろうて」
「いかさま、なれば……?」
「雪斎坊主の首を狙うがよからあず」
「うむ、ここまで来たならば次の機会が来るとも限らぬだわ」
傷の重い兵数名を殿の本陣に向かわせる。
「二十八騎かや。まるで垓下から逃れた項羽のようにてあらず」
「権六よ、おのし漢籍をたしなむのでや?」
「武士なればただ槍を振るえばいいというものではなかろうでや」
盛次義兄上は一瞬唖然としたのち破顔した。
「おのしも一家の頭領としての自覚が出てきたものでや」
「うむ、一騎駆けの武者ならばともかく、儂は日ノ本一の弓取りとならねばならん」
「がははははは、大口をたたくのん! 面白いでや。この戦から戻ったら儂はおのしの家来となろうでや」
「義兄上、何を申さるるでや」
「よいよい、まずは駿河衆を蹴散らした後のことでや。いこうず」
「うむむ……よかろう。行くでや! 続けええええええええい!」
儂が馬を進めると、浮足立っていた敵の足軽はじりじりと下がる。
「下がるな! どうせ死ぬなら敵を一人でも倒すでや!」
兵の後ろから声をからすも兵たちは怯えた目線を交わし合って動こうとはしない。
「喝!」
気を吐くと腰を抜かして倒れ込む兵が出てくる始末だ。
そこに白旗を掲げた武者が現れた。
「我は朝比奈備中と申す。織田弾正忠殿にお取次ぎいただきたい!」
「降伏いたすと?」
「和議を結びたい」
儂が答えるより早く盛次義兄上が返答していた。
「殿、差し出がましきことをして申し訳ございませぬ。なれど、互いにそろそろいくさを続けるは限界かと勘考したしまするに」
一度足を止めてしまった周囲の武者たちは大きく肩で息をしている。これで斬り合いに臨むはちと酷か。
「あいわかったでや。儂は織田家臣、柴田権六でや。御身一人に限り殿の前にお連れ申す。我が槍にかけて御身に危害を加えぬと金打を打ってつかわそうほどに」
腰に佩いた太刀をわずかに抜き、音を立てて納刀する。
「されば、この取り合いを止めさせていただく」
朝比奈殿は背後に付き従っていた兵に合図を送ると、鐘がガンガンと鳴り響く。
「こちらも仕舞じゃ! 追うでない!」
互いに切り結んでいた兵たちがお互いの陣営に戻っていく。たがいに視線は切らず、いつ不意打ちをかけられても迎え撃てるように用心に用心を重ねている。
こういった状況はいつ小さなきっかけで再び競り合いが始まらないとも限らない。得物は手にしたまま血を流し、うめき声をあげる手負いを収容していく。
そして、先ほどの物言いは何事だと盛次義兄上に目線を向けると、やれやれとばかりに肩をすくめる。
先ほどの家来になるという戯言を本気でやろうとしておるのか。盛次義兄上は
「権六、無事かや!」
抜き身の槍を握り締め、騎馬武者の先頭に立って殿が現れた。
儂が敵を追い散らすうちに何とか態勢を整えたそうで、討ち死にも覚悟の有様であった。
「はっ! お殿様にはすこやかなるご様子。恐悦至極にございまするに」
下馬して膝をつき迎えるが何やら目線を感じる。
「権六、無事かや!!」
親父殿が血相を変えて駆け寄ってきた。
「うん? 儂は手傷一つも負ってはおらぬだわ」
「なんじゃと? なればお前のその有様は返り血であったるか!」
「うむ? そういえば何やら顔がかゆいでなん」
頬に手をやり指先で掻くと、乾いてこびりついた血がぱらぱらと落ちていく。
「おお、おお……」」
今にも泣きそうな風情で親父殿がへたり込んだ。
そのやり取りの裏で盛次義兄上が殿に事情を説明している。
「和議の件、相分かったでや。互いの境目についても後程話し合おうず。今は手負いの人数、一人たりとも多く迎えるが肝要にてあらあず」
「はっ、弾正忠殿のおこころざし、恐れ入ってございまするに」
「勝ち負けの取り合い、討った討たれたは武門の習いにて詫び言は互いに無といたそうでや」
「かしこまってございまするに」
殿と朝比奈殿は互いに誓詞をやり取りしていく。幸か不幸か小豆坂では。互いに睨みあいをしており儂がこちらに向かった後の取り合いはなかった。
佐久間衆の兵たちが、互いの無事を喜んで声を上げる。親類縁者を亡くした兵たちがうなだれる。
いくさの終わった後の光景を今初めてとは思えぬほど凪いだ心で見ている自分は、先ほどまで刀槍を振るい、狂ったがごとき熱狂から解き放たれていた。
「柴田権六殿と申されたか」
「はっ」
「此度のいくさ、貴殿一人にしてやられたようじゃ」
何やらとんでもないことを言われた気がする。
「確かに必死の働きをいたしおりましたが、儂一人の手で千余の軍をどうこう出来るものにはございますまい?」
「貴殿が率いる手勢は鬼の乗り移ったがごとき気合で我が方の兵を蹴散らしてのけただわ。敵ながら見事と感じ入ったるものにて」
そうやっていうだけ言うと朝比奈殿は踵を返し兵を取りまとめに戻った。
「そういえば雪斎坊主はいかがいたしたでなん?」
「うむ、何やら噂になるが、矢に当たって傷を負ったそうにござるで」
「義兄上!?」
「なんですかな、殿」
「その殿、と言うのをやめていただきたいのだわ。儂は義兄上を従えるほどの貫目はないのだで」
「さにあらずか。お主は小豆坂からこの安祥に至る合戦の内で少なくとも海道一の武辺物と言うに足る働きを見せたでや」
あまりの言われように赤面しつつ、言い返そうとしたところ背後から声が聞こえた。
「儂はよき家臣を持ったでや」
「殿!?」
「であろうがや、修理よ」
「お褒め頂き恐悦にございまするに」
親父だけを引き連れ殿が真後ろにおられた。なにやら悪そうな笑みをたたえておる。その表情にどこか見覚えがあった気がするが、どこで見たのやら思い出せぬ。
そも殿にお会いしたのですらつい先日の話だ。
「権六、儂は隠居するでや。家督はおのしに任す故そう心得よ」
「は、はあ!?」
「うむ、略式ではあるが儂が許しを出そうず。書状は追って与える」
「ありがたきしあわせにて。そうじゃ、権六よ、そなたも諱を名乗らねばならんであろうが」
「お、おう!?」
あまりに話が進み過ぎてすぐには答えが返せぬ。そうこうしておるうちにさらに話が進んでいく。
「ふむ、柴田の家の通字は「勝」か。此度の戦勝にふさわしき良き字だで」
「はっ、これよりも権六が儂以上の働きをしてくれるものと」
「うむ、なれば当家を勝たすものとして、修理亮勝家じゃ。よき名であろうが」
「は、ははっ!」
新たに付けられた名前になにやらよくわからん懐かしさを感じた。家を勝たす武者と言う意味であれば面目この上ない。
「うむ、あとは加恩もせねばな。あとは嫁か。楽しみにしておるがよからあず」
最後の二つの件で儂の脳は溢れた。家督だの家臣だけでなく、新たな所領に嫁とか、儂の考えられる限界を超える状況に、一日駆け詰めた疲れが相まって、儂の意識はどんどんと暗く染まっていくのであった。
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