スタンリー

松原レオン

スタンリー

 卵型のMRIのようだった。

 それは《妄想性内部構築抽出器》、通称具現壁と呼ばれ、いつだったか、もったいぶったように説明されたものだ。

「これは端的に言えば妄想を具現化する機械です」

 研究員は片眼鏡をかけたカラスのような男であった。

「あくまで仮想空間と意識をつなぐもので、現実空間への干渉はありません」

 それだけ言って終わらせようとする意思が見えたので、例えを求めた。研究員は表情をひとつも変えず、数秒黙り込んだ。

「例えば……仮想空間で水を飲んだとする。その感覚もありますし、軟水硬水の違いもわかるでしょう。しかし、現実的にはあなたは水を飲んだわけではない。意識のなかで水を飲んだのです」

 そして資料に目を通す。

「健康状態も問題なさそうですし、数日のうちに接続できるでしょう」

 研究員はサインした紙を手渡す。筆記体のサインとは対照的に「81F-A」と印字されたそれはただの記号のようだった。問答無用に決められた「81F-A」が名前なら、その筆記体だってただの記号なのだろう。


 81F-Aは白い壁と床、プライベートのない個室を用意された。結果的にそこで五日間生活した。

栄養バランスは考えられたチルドとサプリメント二錠を一日三回。支給された白いスウェットの着用が義務された。

五日目の午前十一時。女の研究員がカギを開けて現れた。

「移動できますか。《具現壁》の用意が整いました」

 簡易ベッドでくつろいでいた81F-Aは立ち上がって女の後ろをついていった。

 カードキーの認証を三回求められた先にあったのは闘技場のような、真っ白なホールだった。全体が蛍光灯のように発光して、吹き抜けの天井はあまりにも高かった。研究員の真っ赤なピンヒールの音だけがやけに響いていた。

 ホールの中央が一段下がって、そのど真ん中に《具現壁》が置かれていた。白く艶やかな曲線美を描いたMRI。それをつなぐコードだとかそんなものはなく、ただそれだけが存在していた。

 彼女は手で示してうながす。

 81F-Aは研究員の前を通り過ぎ、寝台部分に腰かけた。「寝て」と女が言うので、億劫なしぐさで仰向けになった。女は《具現壁》の側面をタップし始めた。うぃーん、うぃーんと寝台が白い丸に引き込まれる。間近に迫った白は、禍々しく、不快だった。

 なんのにおいだろうか。

 あぁ消毒液だなと気づいたとき悟った。この消毒液は血を拭き取り、ごまかしてきたのだ。

「では、脳との接続を始めます。はい、息を吐いて——吸って」

 静電気に似た痛みが後頭部を突き抜け、その痛覚は意識を奪い、そして戻した。


 生まれ育った街だ。81F-Aは都会生まれ都会育ちの第四世代であった。

 幅広い道路のど真ん中、多すぎる人間と音、そして車。81F-Aの真横をタクシーが通り過ぎる。そしてまた一台、その奥から、隣から、目の前に車が走り去っていく。

 それらはあまりにも多いから。

 目を閉じて開く。

 二台目のタクシーがやってくる。81F-Aの目前で横転し、フロントガラスを割りながら隣の車に突っ込み炎上した。止まりきれなかった黒いワゴン車がそこに飛び込み、バウンドして止まった。

 81F-Aはふっと横を向いた。

それらは野次馬だ。81F-Aはひとりの男に近づき、カメラレンズを覗く。途端に男の目玉が飛び出し、ばーんと一発。頭がスイカのように爆発した。

 次の瞬快死体は消えていた。血も肉も、きっと最初からなかった。

 そう、だからみんな消えた。


 《具現壁》が中央に鎮座したホール、四十五メートル上から研究員が十数人。モニター機能を兼ね備えた窓ガラスが心電図、脳みそ、81F-Aの妄想を映していた。

「早速残虐行為をしましたね」と銀縁メガネの女が言った。彼女のボブにした金髪の毛先はきついカーブを描いていた。

「あぁ。しかしこの程度であれば我々は大量殺人者予備軍と認定できない。君、まだ新人かい」

 初老の白髪の男が言う。少々顔の良い彼の言葉に顔を赤らめた。

「まぁいいさ。これから経験していけばいい。あぁ君」

 背後で記録を取っていた赤縁メガネの女に声を掛ける。彼女もまた同じ髪型、同じ顔をしていた。赤メガネは顔を上げて、小首をかしげた。

「新人に基本的な大量殺人者予備軍の妄想における欲望行為を教えてあげたまえ」

 赤縁は顔をしかめた。「いやよ、先生。それくらい常識じゃないの」

 銀縁は少しムッとしつつも、初歩的な知識がないことを恥じた。男になだめられ、赤縁はいくらか気分を良くした。

「まず、大量殺人者予備軍は今後、凶悪な犯罪者になり得る人物のことです。次に彼らの妄想は同じパターンを取ります」

 第一に彼らは性的な妄想をする。それらは常に度を越して倒錯している。

 第二に彼らは残虐な妄想をする。それらは常に度を越して攻撃的である。

 第三に彼らは殺人を犯す妄想をする。それらは常に度を越した強い憎悪を抱えている。

 第四に彼らは愛情行為の妄想をする。それらは常にメディアに感化されたものである。

 第五に彼らは権力的な妄想をする。それらは常に度を越して支配的である。

 第六に彼らは贅沢な暮らしを妄想する。それらは生存には必要のないレベルである。

 言い終えると男はうなずく。赤メガネは両腕で胸を寄せた。弾けそうな膨らみを男は躊躇なく揉んだ。思わず銀縁は顔をそむけた。だが、男の行為はあくまで普通の行為であり、この場においては銀縁の反応が普通ではなかった。

「さて、新人君。81F-Aはいくつのパターンに当てはまったかな?」

 男は銀縁にたずねた。銀縁が「第二、第三です」と答えると赤縁が鼻で笑った。

「惜しいね。あれは殺人ではない、直接手にかけたわけじゃないからね」

 そして銀縁の尻に触れた。

 

 81F-Aは高層ビルを見渡した。モダンで直線的な造りである。そしてそれらすべてをロココ建築に変えた。81F-Aは軒並み世界遺産ばりの宮殿になったビル群に満足げであった。

 風が建物の間をすり抜ける。幅広の道路の中心で佇む。景観を乱すものはすべて消した。穏やかな面持ちで81F-Aは階段を上る足の動きをした。階段はそこにはなかったが、一歩一歩踏み出すごとに空気が固まっているかのようだった。

 歩きながら浮かんでいき、やがて建物より高いところにまで到達した。言うまでもないが、足元は透けている。ひょぉおお、と風が耳元で吹いていた。

81F-Aは両手を広げ真っ逆さまに落ちていった。その体は空を切って、切って、そして地面に激突した。

 しかしそれはどうでもいい。願わずとも生き返る。

 死は極めて現実的な事象だ。仮想空間で死んだとしても現実で死んだわけではない。仮想空間で死ぬためには、ともすれば現実で死ぬしかない。しかし現実で死んだわけでないのなら、仮想空間でも生きてなければ相互性が取れない。生き返りはただのバグ。

 むっくりと体を起こして、髪に付いた骨を払う。

 美しい街並み。望んでいた通りの景色。

 完璧な世界で死ぬことは至上の贅沢。

 妄想というのはそういうことだ。


 81F-Aの自殺に研究員はわずかに動揺し、とりわけあの赤縁は半べそをかいていた。男が慰めるように肩を抱き、その手は胸へ下りていった。

「あれはどのパターンに当てはまるのですか」と銀縁は冷ややかな声でたずねた。

「あれは、——多分第二だ」

「自分を殺す行為なのですから、第三ではないのですか?」

「君、君ねぇ、新人君。やけにあの被験者を殺人鬼にしたいようだけどねぇ、直接他人に手を掛けたわけじゃないのだよ、だからあれは第二の妄想パターンだ」

 男もあの光景に動揺していたようで上ずった声で繰り返した。

 あれは第二の残虐な妄想パターンであり、脳の動きを見ても殺人の衝動ではなく残虐への衝動。

 銀縁はその意見に納得いかなかったが、同じ見た目の女たちは男を常に肯定するものだから、とうとう嫌になって口をつぐんだ。

 だってあれは自分への殺人行為じゃないか。そんな反論やら疑問は喉元に小骨のように引っかかっていた。


 81F-Aは宮殿と融合したビル群に面した大通りで佇んでいた。

 少し離れたところに中年の小太りの女が対峙するように立っていた。

あぁあの女大嫌い。

その理由も詳細もかすかにしか記憶していない。だがこの憤怒はいつまでも鮮明だ。

途端地面が小刻みに揺れ始めた。それは、地面からはいずり出てきた無数のゴキブリであることが分かった。きれいに隊列をなしたゴキブリは81F-Aに絶対的な忠誠を誓っているようだった。

 少しばかり浮き始めた体を仰向けの状態にして、81F-Aはソファでくつろいでいるかのような体勢になった。一メートルばかり浮いたその下には触覚をひらり、ひらりと動かす黒い楕円の群れがいる。

81F-Aは瞬きした。

ゴキブリは女めがけて走り出した。女にはい上がり、スカートの中へ。服が徐々に赤色に染まり出した。悲鳴と共に開いた口にもゴキブリが入り込んでいき、内臓も食らう。持ち主を失った紺色のスカート、薄緑のカーディガンが地面に落ちた。

81F-Aが瞬きをした。ゴキブリたちはは震え、爆発した。吐き気のする臭いが辺りに漂ったが、やがてすぐに風に流された。

それに煽られるようにして81F-Aの体は宙を浮いたまま移動した。

支給品の白いスウェットが灰となって滑り落ちる。黒の下着姿になると、地面に着地し緩慢に立ち上がる。

 あたりの建物が方向幕のようにパラパラと閉じて、代わりに巨大な宮殿が81F-Aを軸とした中央に建設される。

 花の曲線美を意識した飾りが入った真っ白な壁、ミントブルーの屋根には金細工があしらわれ、目の前に整然と佇む庭に青いアネモネが咲き乱れる。大枚をはたいて買った森が囲う。

 さぁ誰にも歓迎されずに歩を進め。


「あれは第六の妄想パターンだ」

 落ち着きを取り戻した男はいくらか格好つけた。モニターに映る透明な脳みそが黄色く点滅している。

 赤縁メガネは「さすがだわ、先生」とペンを紙にカリカリさせた。なぜだか知らないが先ほどからずっと書き物をしていた割にはその紙は真っ白だった。

 赤縁の甘ったれた声に気をよくした男はふふんと鼻を鳴らした。「第二、第六の妄想パターンをとった。あと四パターンの行動をとったらあの被験者は大量殺人者予備軍と断定できる」

「あの、質問をひとつよろしいですか」

 男が答える前に赤縁が口を開いて抗議したが、男がそれを制止した。

「まぁまぁ。あの子も新人なんだ。君にもそういう時代があったろう」

 そして息を深く吸い込んで赤縁の髪のにおいを嗅いだ。それに顔をしかめつつ銀縁は、「あのゴキブリに人を食べさせる行為を私は第三のパターンだと考えます」

「何度も言うが直接手にかけていないなら殺人ではないんだよ。大体君も見ていただろう、確かにあれはとても残虐だった。でも殺人かと言われるとそれは怪しい話じゃないか」

「でも、直接手をかけていないにしろ間接的に殺人を犯したと言えませんか?」

 銀縁が食って掛かったのを男は心底面倒で、非常に可愛らしいと言いたげな表情で返した。

「そうか、そんなに言うのならね——」

そして赤縁の首を絞めた。彼の手の甲には青いミミズのような血管が浮かび上がっていく。赤縁は咳き込み、目の表面が潤み始めた。苦し気に、しかしそれは恍惚したきらめきを持っていた。

「先生、彼女が苦しそうです」

銀縁はいよいよマズいと焦った。男は少しだけ力を緩めた。

「どうだね。君は彼女に手をかけてはいない。だがきっかけはなんだろう。君が質問したからだよ。そして君の疑問のせいで彼女の首は絞められた。もしこのまま彼女が死んだらどうだい? 君が殺したのかい? いいや。君はきっと警察にこう言うだろう。私にはわかりません、先生が突然彼女の首を絞めたんです」

 そして手を離す。彼女の首は赤く手形が残された。

「まだ何か聞きたいかい」

 にこやかにこちらを見る男に銀縁は何も答えられなかった。

お気に入りだと言わんばかりに愛撫していた女を涼しい顔して殺しかけた、この男は異様だ。だが、と銀縁は視線を下にずらした。床にへたり込んでしまった彼女の背中には言いようのない歓喜があふれ出ている。そしてそんなことを気にも留めない女たち。この言いようのない感情を抱えているのは銀縁だけだという現実が、より重たい毒となって彼女の肺を押しつぶした。


 宮殿は内装も執拗なまでに美しく仕上げられていたものの、間取りはめちゃくちゃで時折重力が消えることもあった。

81F-Aは天井の重厚な扉を開けた。

そこは寝室でキングサイズよりも大きめのベッドがあった。その上で裸の男女三人が仰向けで横一列に整列していた。それと相対し81F-Aは落ちていた拳銃を手に取った。それをくわえ、引き金を引いた。

――そして生ぬるい裸と裸の間で目を覚ました。先ほどのベッドに並ぶ男女の間にすっぽりと体が収まっていた。目を固く閉ざしたままの彼らの触り心地も温度もどうも人らしい。

左隣で眠る女はおとぎ話から抜け出したような容貌をしていた。彼女の鼻筋を人差し指でなぞると、安心感のある硬さが伝わる。あぁこれは骨、これは肉と脂肪で、この下に神経が走っていると思うだけで心は満たされた。

手の甲で頬をなでた。この柔らかさはいずれ失われるにしろ、灰になるその日まで彼女は美しいままに違いない。

 81F-Aは天井に向き直り、体を肉の間に埋めた。

 

「被験体が自殺しましたが、これは第六の妄想パターンを適用しますか」

 81F-Aの案内係を務めた女がたずねた。男はしばらく思案し、「適用しよう」と答えた。女はタッチパネルを操作した。

 そのやり取りを聞いて赤縁はペンを止めた。「テキヨウってどう書くんだっけ」

 銀縁が「先生」と口を開いたので、赤縁が非難する。「そんなことよりテキヨウってどう書くの?」

「先生、第六の妄想パターンは、生存することが前提です」

「ねぇ、テキヨウってどう書くの? それにあなた基本的な大量殺人者予備軍の妄想における欲望行為を知らなかったじゃない、何を偉そうに」

 男はくらか優しい口調で話し出した。

「そうかい。それで第六の妄想パターンの適用を外せと。……しょうがない子だね、ペンを貸しなさい」

 視線を銀縁からそらし、紙とペンを受け取ると「適用」と書き殴った。あまりにも汚い字に銀縁は思わず笑いそうになる。

「あの被験体は自殺するために建物を用意したのです。前提が変わります、あれは生存するためにあつらえたわけではありません」

「なるほどねぇ。うーん、しかし脳波は第六の妄想パターンを記録した。ここで言うのもあれだが、記録を修正するのは非常に面倒だ。だって妄想だから。常に変化するものだ。いちいち過去の妄想パターンを修正するのは実に、面倒だ」

 すると案内係が口を開く。

「でしたら先ほどの妄想パターンを第六から第一、または第四の妄想パターンだったとすれば良いのでは。記録を変更すれば済みます」

 男に続けるよう促され、「生身の存在は複数でした。そこで第一の妄想パターンを適用させます。またあの被験体は生身の女性に触れ、同じベッドで寝ました。それを第四の妄想パターンだったとすればいいのです」

「待ってください、それって——」と銀縁の吠えた口に向かって、男が制するように手のひらを見せたが、「第一修正と変更の何が違うと言うのです」と抗議した。

 男は一点を見つめ、曇りのないまなざしで言うのだ。

「だって修正は直さなければ。直すには不十分だったと認めなければいけない。それに存在していたものを否定するのは面倒じゃないか。変更は存在を否定する必要がないもの」

男は続ける。「これであの被験体は四つの妄想パターンをとったことになる。あと二つさ、それであれを大量殺人者予備軍だと断定できる」

それはいわゆる不正とか、捏造になるのではと銀縁は眉をひそめた。

「成果がないと予算削減だとか言われてしまう。だから時折こうして大量殺人者予備軍の数をちょっとばかり増やすわけだ。でも大抵が卑猥なことを妄想するし、嫌いな奴を平然と殺すものさ」


 彼女の目は青く澄んでいた。

 81F-Aは寝返りを打って彼女に向き直った。

彼女の左隣には、若くて熱い肉を持った女がいた。81F-Aの隣にいる男はダビデ像のようだが、その肉は冷たく、屈強な体とは不釣り合いだった。

 彼女は手を伸ばして81F-Aの頬をつまんだ。そして伸ばす。戻す。伸ばして、戻す。だんだんつままれている部分が痛くなるのに合わせて彼女は笑い出した。81F-Aも彼女の頬をつまみ、同じようにやった。

 つつましい肉体間の接触は時として言葉を交わすより愛があるものだ。

 そこで彼女は初めて瞬きをした。

 81F-Aの体が扉に向かって引っ張られた。いつの間にか開かれた扉から廊下に飛び出す。彼女が上半身を起こし、茫然として見つめていた。

ふっと脇を見た。内部の造りは様変わりし、壁にあの青年が埋まっていた。

いきなり静止した体は勢いを持て余してカクンと揺れた。

彼女が立っていた。81F-Aを哀愁でひたひたになった眼差しで見つめる。

「どちらかはいつも最後よ」

 そして彼女の胸部がゆっくり膨らみ、のけぞったような姿勢になる。両腕を大きく広げて、そして、そして。肋骨が裂けて、全身の肉がちぎれて弾け飛んだ。81F-Aの顔にもかかった血を嗅ぎながら、深い悲しみを感じた。だって彼女は美しいから。

 美しい彼女を失うことほどつらいことがあろうか。

人生が満ち足りているほど、失う痛みを妄想するのだ。

 だが、81F-Aの頭上で鐘が三回鳴った。

 その瞬間、彼女を失った痛みが癒えた。


 銀縁は若さゆえの正義感を振りかざして、先生に抗議した。

「しかし、それでは無関係な人間も処刑されてしまいます。我々のやっていることは殺人ではないですか! それを率先して行おうとする先生こそが大量殺人者です」

 赤縁が口をあんぐりとさせ、わなわな震え出し芝居がかった涙声で言った。「あなた、あなたね、先生に向かって——」

「黙れ、アバズレ」と銀縁は侮蔑した口調で言い返した。さすがの赤縁もそれに茫然として立ちすくんだ。

 周りの研究員たちもこちらを一瞥した。その時銀縁は気が付いた。彼女たちはちゃんとその場に揃っていると思っていた。だがあれらは、途端にあやふやな存在になった。81F-Aの案内係だった彼女は除いても、どうやら何かおかしい。コピー&ペーストのようなもので、本意などないのだ。ただ数を合わせるために並んでいるだけだ。先生のフェチズムにはしっかりと従って。

 モニターに映る被験体は血みどろのまま立ち上がる。大股で歩き出しドアノブに指をかけた。

見慣れた道を被験体は黒の下着姿で歩いている。あの建物、電灯の並び、カフェのテラス。それが何の道順であるか気づいたとき男は声を張り上げた。その声に喜びがにじむ。

「ここまでの道のりだ、これは妄想だ! あの被験体の妄想だ、我々はあれの妄想の産物だ!」

 興奮で耳まで赤くなった先生はきょとんとした女たちに構わず続けた。

「だって見たまえ、あれはここまでの道のりだ。妄想の中のここだ、妄想の中でここはここしかない、だったら我々はどうなるんだ? 妄想の中で存在する我々は現実なのか? そんなものわからない、だから我々は妄想の産物なんだ」

 言い終わるか終わらないかのところで男は赤縁のシャツを引き裂い、レースをあしらった下着があらわになる。さすがに面食らった赤縁は、されるがままであった。

「我々はどうせ妄想の端くれだ、何をしたってもう今更さ」

 そして赤縁の零れ落ちた乳白色のたゆんだそれを鷲掴みにした。

 銀縁はここに来て正義感を振りかざすのはやめた。

 きっと先生は頭がおかしいのだ。頭がおかしい大量殺人者だから大量殺人者のことがわかるのだ。

 痴態に騒然と揺れ動く女たち。その存在はより一層不確かなものとなり、ぼんやりとした輪郭線が進んで自らを否定し始めた。

モニターをちらりと見た。被験体は確かに研究所へと向かっていた。その歩調に確固たる意志を感じた。またあの二人に目をやる。自ら脱ぎ捨てた赤縁のタイトスカートがまだ生暖かい。ストッキングを引き裂く男の上下運動に鼻で笑った。


 81F-Aは路地裏に入る。臭くて、蒸し暑い。「立ち入り禁止」の柵を通り抜け、白い

ホールケーキのような形をした巨大施設を目指す。

 施設には武装した守衛がふたり、どちらも屈強な体つきをした男だ。しかし彼らは81F-Aの存在を見逃した。セキュリティの認証を求められたがそんなものは知らない。小首をカクっと傾げると認証機器もまたカクっと大きく火花をひとつあげて小首をかしげ、扉が誤作動で開く。

らせん階段を上り、《具現壁》の置かれたホールの上部にたどり着く。ガラス張りの向こうで集団がうごめいている。金属性の扉を開ける。

 そこでは下半身が裸の男が赤縁の女に馬乗りになり、さてそろそろと陰茎を挿入しようとしているところだった。

 しかしこちらに気が付いて男が、上体を起こして叫んだ。

「被験体だ、ほら我々は妄想の産物なんだ!」

 81F-Aはニヤリとして自身の両手を奇妙な配置にした。それはサブマシンガンがすっぽり入る空間で、手は支えの配置であった。

そして弾け出る薬莢の乾いた笑い。

 飛び出した弾道は多少ズレていたが数で修正し、男は上半身いっぱいに被弾して死んだ。赤縁は絶叫して、死体を押しのけ立ち上がった。81F-Aは赤縁を射殺すると、血だまりをつま先歩きよけながら銀縁に近づいた。

 銀縁は血しぶきを浴び、ただ茫然として座り込んでいたが81F-Aを見やると突然笑い出した。

「そうだよ! 私の妄想だよ、あはは」

 81F-Aは若い肉を持った美少女であった。銀縁は恋した瞳で81F-Aを見つめ、げらげら笑った。「私の妄想だもん……私の」

 私の理想。

 81F-Aはしゃがみ込んで銀縁と視線を合わせて、にやりとするとサブマシンガンを太ももと腹の間に挟んでゆらゆら揺れ出した。

「特別に教えてあげるよ。特別って意味わかる?」

 81F-Aは銀縁に対して話しかけている割には銀縁の反応には構わずに話し出した。

「どこでパターンを知ったか知らないが、大量殺人者予備軍の基準はまぁあんな感じだね。だから君が大量殺人者予備軍に十分該当すると言える。だから私は君とお話ししているわけだ」

 銀縁は血まみれのレンズ越しにこの美少女を見つめた。

「私は研究員よ」とにっこりするが、自信は薄れ始めていた。

 81F-Aはそれを聞くと、げらげらと気味悪く笑い始めた。「違うよ」

 サブマシンガンがカチャカチャと81F-Aの白い腹にぶつかって笑っていた。

「確かにこれは君の妄想、だけど私の妄想でもある。《具現壁》が一台だけで稼働しているとでも? 《具現壁》は常に二台稼働する。大量殺人者予備軍を見つけ出すには対象者の妄想と接続する必要があるから。あの時鐘が鳴っただろう。あれだよ、あれが今回の合図」

 銀縁はその音を知らなかった。しかし、81F-Aの顔つきが急に変わった瞬間を思い出し、あの時だろうかと思案した。あのブロンドの乙女が爆発して死んだ瞬間。

「本当の君は先生だったのに。自分好みの女を自分が演じて、欲望を客観的に楽しんだ」

 先生の死体をちらりと見やる。あれが自分? 

「あんな、あんなの」と震える声で言い返した。なんだか自分の本当の顔を思い出しそうで不安だった。

「私を君好みの美少女に妄想したかもしれないけどさ、どうするよ。ただの四十過ぎのジジイだったら」

 81F-Aがわざとらしく上目遣いで銀縁を見やる。その顔にカラスのような男の面影を見出した。

「そんなこと……」

「自分の妄想と突然違うことが起こって驚いたんだろ、私がここに現れたり、先生が突然女に襲い掛かったり」

 その言葉に銀縁の視界に、赤縁のつまずいて転んだような体勢の死体がいっぱいに映った。

「だって、だってこれは私の妄想じゃないか」と叫んで81F-Aを見ると、にちっと裂けるように笑っていた。

「さぁな、知るかよ」

 銃声、落ちた薬莢が嘲笑った。


 白いフード姿の81F-Aは地下へ続くホコリひとつ落ちていないらせん階段を下りた。

 地下というにはあまりにも明るい空間に《具現壁》が七台、円形状に置かれていた。

 そのうちの三台が稼働しており、正面を一番として右に三番目の《具現壁》に81F-Aは近づいた。

 中には三十代の男がいた。接続した妄想を照合し、彼は大量殺人者予備軍と断定された。81F-Aは《具現壁》のモニターパネルを操作する。しばらくして再稼働した《具現壁》は、細い無数の針の付いたヘルメットのようなものを彼にかぶせた。彼は一瞬痙攣すると動きを止めた。代わりに床へ床へと血が流れた。

 フードの中の81F-Aの顔はつぎはぎだらけで、まだ若い彼女には不釣り合いに鋭いカラスのような目玉がはめ込まれていた。



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