どうすれば、いいんだろう。

 十二月に入った。駅ビルに立ち寄ると、クリスマスツリーが飾られているのが見えるけれど、足を止めたりはしない。横目にちらりと見えるそれに、心が踊ることはない。

 必要な買い物だけを済ませるとサッと立ち去って帰路につく。人が集まるような場所に長時間留まると、感染リスクは上がるからだ。

 大抵の人は私と同じように、自衛のための行動をとっている。一部には、未だにウイルスの脅威を甘く見ていたり、あるいはどうにでもなれとばかりに捨てばちな気持ちになったり、理由はそれぞれなのだろうけれど、人混みを避けないような手合いもいる。


 そもそも、毎日の通勤でこれ以上ないほどに密な空間に詰め込まれているのだから、リスクを避ける行動もくそもないんだよな――とは、私でも思う。

 それにしても、自重しない派の中でも極端なのになると、毎晩のように繁華街の飲み屋に繰り出して大騒ぎしているさまを報じられていたりして、それはそれでどうなのかともやもやした気持ちになる。


 ここまで来てしまえば、新型ウイルスに感染するかどうかは完全に運次第だし、いずれ遅かれ早かれ全国民が感染するのではないかかという見方が有力だ。

 そうだとしても、新型ウイルスに感染してしまうと肩身が狭いことには変わりがない。まして、飲んで騒いで浮かれた顔をメディアに晒した後で感染がわかったらどうなるか。きっと生きていけなくなる。いろいろな意味で。


 ことウイルスのことに関しては、今は日本中が苛立ち、怯えているから、明らかに非がある、心置きなく責めることができる相手が現れたら、それはもう苛烈かつ執拗に、寄ってたかって袋叩きにする。

 感染者がただ「感染した」というだけで責め立てる風潮は薄くなった代わりに、「自業自得で感染した」人、そしてその上で「軽率な行動で感染を広げた」対する風当たりは強くなっている――というのも、最近の流れだ。

 そうした「悪い」感染者がネットリンチに遭っている事例はいくつもあるし、そうした行動はさすがに法的にもアウトだろうに、「自業自得の感染者」の身元を特定し、顔写真を流し、誹謗中傷の言葉を浴びせることは歪んだ正義のひとつの形として受け入れられてしまっている感がある。


 そういう風潮だから、私を含めた大多数の人々は、政府がお題目のように唱える約束事――不用意な行動を慎みましょう。まわりの人を危険に晒さないためにも、一人一人が感染予防を心掛けましょう、みたいなやつだ――をできる限り破らないように暮らしているのだ。

 

 


 仕事納めをおよそ一ヶ月後に控えた、十二月二十日のことだった。

 昼休みに、スマホを取り出してTwitterのアイコンをタップしようとして、見慣れない通知に気付いた。タップして内容を確かめるとそれは、今やスマホを持つ者全てがインストールを義務付けられている、濃厚接触アプリからのものだった。

 

 このアプリから通知が来るということは――息を潜めて内容を確認する。

 『新型コロナウイルスに晒された可能性があります』


 やはりか。

 私は左手で顔を覆った。




 盗み見されるような距離に誰かがいるわけでもなかったけれど、それでもなんとなく気が引けたのでトイレの個室に籠って詳しい情報を確認したところ、十六日――先週の金曜日――の帰りの電車で、五駅ほどを同じ車両に乗り合わせた客の中に、陽性者が出たのだということがわかった。土日を挟んでいるということもあり、その日の乗客の顔ぶれにまつわる記憶はあやふやだ。いつものことだけれどその日も鼻出しマスクの人がちらほらいて、不愉快な気持ちになったことは、なんとなく覚えている。

 まさかあの鼻出しマスクの誰かがウイルスに感染していたのだろうか。その可能性はある。アプリでは、「同じ時間、同じ車両に陽性者が乗っていた」という以上の情報はわからないのだ。


 毎日電車に乗って通勤している以上、こういった事態が起こることを全く想像していなかったわけではないけれど、いざ我が身に起こってみると、冷静ではいられなかった。




 気もそぞろなまま午後の業務を終え、今や私もウイルスをばら撒く側になっているのかもしれないという恐れを抱きながら電車に揺られて帰宅した。

 どうしよう。こういう時はどうするんだっけ。ウチの会社では、濃厚接触者になったとわかった時点で自宅待機、だっただろうか。そうだったとしたら、わけを話して早退するのが正しかったかもしれない。でも、そんなことを自己申告したらその時点でばい菌扱いになるのではないかと怖くて、誰にも何も言わないまま、帰ってきてしまった。


 どうしよう。どうすれば、いいんだろう。

 呼吸が苦しくて、自分の心臓の音がやたらとうるさく耳の奥で鳴っていて、どうしようもなく心細くて――私はスマホを握りしめて、登録したものの一度も自分からは連絡したことがない、実家の固定電話を呼び出した。


 


 四コールほどで母が電話に出た気配がしたので、「あ、あのね、お母さん? 私ね……」と言いかけたけれど、最後まで言い切ることはできなかった。


 『あっ美加子、大変なのよ。

 シンちゃんが倒れちゃってね。もうびっくりしちゃって、救急車を呼んだら血糖値が高い? みたいなことを言われて。

 甘いものを食べたりしちゃ駄目だって言われたの。あと、少し痩せましょうねって。病気の時くらい好きなものを食べさせてあげたいから、そんなことはできませんって言ってやったわ。

 それでね、もしもし、聞いてるの?』


 怒涛の勢いでまくし立てる母に、すっと気持ちが醒めた。

 そうだよね、お母さんは東京に出た娘より、引きこもりの長男のシンちゃんが可愛いんだよね。ごめん、忘れてたわ。こういう時くらい頼ろうかなって、思った私がどうかしてたね。


 「あぁ、そう。大変そうだから切るね」

 意識して平坦な声で一言そう伝えると、一方的に通話を切った。

 



 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る