23話 さようなら、またね
「今まであんまり考えたこと無かったんやけどな」
薫は言って苦笑する。
「やっぱりやりたいこと諦めて後悔するっちゅうんが嫌やな思ったんや。俺は料理やろうって決めたんはほんまに昨日今日の話やけど、せやからこそ勢いが消えんうちに決めたい思ってな」
「じゃあ帰ったらさっそく願書とか出しちゃう?」
潤の少しからかう様な口調に「まだ早いて」とまた苦笑いした。
「でも早いうちから準備できることはして行かなな。また母ちゃんに料理も教えてもらうかな」
薫が楽しそうに笑うと、猫神さまはそんな薫を慈しむ様に微笑んだ。
「素晴らしいですわね、薫さま。もちろん潤さまも。この世界をご覧いただいたことであなた方が至ったその未来、とても素敵だと思いますわ。妾もとても嬉しいですわ」
まるで猫神さまに後光でも射しているかの様に見える。薫も潤も「はは」「へへ」と照れる。
「でな、猫神さま、カガリ、カツさん。俺が料理人になれて、ほんで一人前になったら、いや、一人前なんていつなれるか分からへんし、一生なられへんかも知れへんけど、今よりもっともっと技術が上がったら、また食事処任せてもろてええか?」
薫がおずおずと言ったそれを、猫神さまは「まぁ」と微笑み、カガリとカツは「わぁ!」と歓喜の声を上げた。
「そりゃあ嬉しいねぇ! 昨日と今日の猫まんまもとっても美味しかったのに、それ以上になるなんてねぇ。その時が楽しみだよ」
「本当ですニャ!」
2匹はわくわくする感情を隠そうともせず、尻尾を派手に揺らした。
「そう言ってもらえて良かったわ。潤が猫又になる猫を少しでも少なくしたいんやったら、俺は猫又になった猫を少しでも癒したりできたらなぁて思ってん。おこがましい話やけどな」
「とんでもありませんわ。今日いただきました猫まんまに、薫さまと潤さまの思いやりを感じました。とても優しくて美味しかったですわ」
薫と潤は思わず顔を見合わせ、苦笑してしまう。
「そりゃあねぇ、猫又になる猫のことを聞いちゃったらね」
「せやな。少しでも今の俺らができることをって思ってまうわな」
「おふたりのそのお心遣い、本当に嬉しく思います。それはきっと今日猫まんまを食べた猫たちにも伝わっているかと思いますわ」
「やったら嬉しいな」
「そうだね」
薫と潤が晴れ晴れとした笑顔を浮かべると、猫神さまは穏やかに微笑み、カガリとカツも嬉しそうににっこりと笑った。
この世界は離れがたい。だがいつまでもここにいるわけにはいかない。薫にも潤にも仕事がある。日常の生活がある。そしてやりたいこともできた。そのためには元の世界に帰らなければ。
「あ」
薫はふと思い出して声を漏らす。そう言えば。
「なぁ、ここでの出来事、起きたら忘れたりすることもあるって聞いた。そうなったらさすがに残念にも程があるわ。俺は現実やて思てるけど、それでもそうなるんやろか」
「あ、そうだよねぇ。夢って扱いだったらそうなることもあるよねぇ」
「それは大丈夫ですわ」
猫神さまが言う。薫と潤は小首を傾げた。
「薫さまと潤さまはカガリが直接この世界にお連れしたのですから、他の人間さまとは状況が違いますわ」
「ああ……」
「これは現実です」
猫神さまははっきりと言い切った。
「それがカガリの望みなのでしょう。カガリはここでの出来事を忘れて欲しくなかった。ですからこの様な方法でお越しいただいたのでしょう」
「そうなんか? カガリ」
薫が言うと、カガリは少し寂しげな笑みを浮かべた。
「最初は他の人間さまの様に、薫さんの夢と繋げようと思っていたのですニャ。ですが薫さまに忘れて欲しく無かったのですニャ。万智子お婆ちゃまを連れて来ることができなかった分も、薫さんにはこの世界や僕、僕たちのことを覚えていて欲しくて」
カガリは言って鼻を小さくすする。
「薫さんを混乱させるつもりも、潤さんを巻き込むつもりも無かったのですニャ。でも僕にはあまり時間が残されていないのですニャ」
「時間が無いって、どういうことや」
薫が顔をしかめると、カガリはまた切なげにうなだれた。カガリの猫又としての死が近いということなのだろうか。それは喜ばしいことなのだろうが、寂しい気持ちは隠せない。
「カガリは次代の猫神なのですわ」
猫神さまのそのせりふに、薫と潤は「え!?」と驚愕の声を揃えた。
「カガリが猫神さまになるんか?」
「はい。猫神は黒い猫又の中から選ばれます。次はカガリなのですわ」
それは誇らしいことでは無いのだろうか。しかしカガリはそうとは思えない様な、泣きそうな微笑を浮かべた。
「猫神さまになってしまえば、僕はこの世界から出ることができなくなるのですニャ。もう薫さんの元にも行けなくなってしまうのですニャ。僕が次代の猫神さまだとお話を賜ったのは万智子お婆ちゃまが亡くなられた後ですニャ。万智子お婆ちゃまの後悔があって、そのお話だったので、薫さんには絶対に来て欲しいと思ったのですニャ」
「そうやったんか」
「でももう、もう後悔は無いのですニャ。時間の限り僕は野良猫として、また薫さんの、万智子お婆ちゃまのお家にお邪魔したいですニャ」
「ならなおさら、俺は早う一人前になってお食事処に立たせてもらえる様にならんとな。そうしたら猫神さまになったカガリに会いに行けるもんな。もちろん猫神さまになるまでは、婆ちゃんの家で会えるよな」
「僕も僕も。できる限りお婆ちゃんのお家に行こうよ。カガリ、今度は僕もおやつ用意するね!」
「……はいですニャ!」
薫と潤のせりふに、カガリは嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。
猫神さまが手元の鈴を手にし、ちりんちりんと2回鳴らす。
「猫神さまは前足使って鈴鳴らしたりできるんやな。カツが前足でコップ持とうとしてあかんかったて聞いたんやけど」
「ええ、猫神になれば鈴ぐらいは持てますわ。この鈴は軽いものですしね」
「へぇ」
やはり猫神さまは猫又とは違う、一線を画した特別な存在なのだろう。カガリもこうした存在になるのだろうか。そう考えると不思議な気分だ。
ややあって扉がノックされる。猫神さまがまた鈴を1回鳴らすとゆっくりと扉が開かれた。
「お持ちしました」
姿を現した人間の女性が手にしている盆には、琥珀色の液体が満たされた小さなグラスが乗せられていた。
女性は静々と歩き、そのグラスを薫と潤の前に置く。そして深く頭を下げると部屋を出て行った。
「さぁ、お飲みくださいな」
「これは?」
「人間さまの世界に戻るための甘露です。この世界で消耗された体力なども戻った状態で目覚めます」
言われ、薫と潤はおずおずとグラスに手を伸ばす。しかし飲むのに躊躇した。
「これでこの世界とお別れなんか」
寂しい気持ちがよぎる。今の薫と潤はカガリの客だ。誰かが呼んでくれなければ来ることはできない。
これがお世話係であるのなら次が確実なのだから、気軽に飲めるのだろうが。
「薫さま、潤さま、大丈夫です。きっとカガリのことですから、また来て欲しがりますわ。またお越しになって、猫又たちや妾に美味しい猫まんまを作ってくださいまし」
「いや、俺一人前の料理人になったらて言うたとこやのに」
「成長を見守るのもまた楽しみですわ。ふふ、おふたりとも、これは今生の別れでは無いのですから」
戸惑う薫に猫神さまはおかしそうに小さく笑う。
「はいですニャ。僕はいつでもこうして薫さんと潤さんとお話がしたいですニャ」
カガリも笑顔で明るく言った。
「……そうか」
ようやく甘露を飲む決心が付く。そうだ。少なくとも祖母の家でカガリには会える。この世界にも永遠に来られないわけでは無い。何より薫が言ったのだ。またお食事処に立ちたいと。
「潤」
「うん」
薫と潤はぐいとグラスを傾ける。濃厚な甘い果実の様な味が口いっぱいに広がって喉を通って行った。
すると間も無く強烈な眠気が襲って来た。ここで眠ってしまうと人間の世界に戻るのだろう。
薫は睡魔をこらえて、呻く様に言う。
「カガリ、猫神さま、カツさん、またな」
「皆、またね〜……」
潤も弱々しい声を上げた。
必死で開こうとする重いまぶたの隙間から見えるカガリたちの笑顔。そして目の前が真っ暗になって。
次に目を開いた時に見えたのは、見慣れた天井だった。
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