22話 お別れのとき

 酒場を出た時、潤は素面だったが薫はややほろ酔いだった。そう言えば昨日もそうだったなと薫は思う。


 だが太一の話をあらためて聞かせてもらい、自分の中で様々なことが固まって来て気持ちが良かった。ふんわりしながらも思考はすっきりしていた。


 少し飲み過ぎてしまったかなと思ったが、宿酔いになるほどでは無いので明日からの仕事も問題ない。猫の世界、猫又なんていうのはファンタジーなお話だが、薫の中で現実感がある以上、それを無視できない。


 薫と潤、カガリとカツは並んで通りを歩く。もうすぐこの世界ともお別れだ。つい口数が少なくなってしまう。


「……楽しかったよね」


 潤がぽつりと言い、薫は無言で頷く。


 薫たちは今猫神さまのお屋敷に向かっている。酒場から近いのですぐに着いてしまった。玄関で控えている灰とら猫に声を掛ける。薫と潤がこの世界から辞することを言うと「あら、寂しくなるねぇ」と少し切なそうに目尻を下げた。


 猫神さまの部屋はもう分かっているので、案内を遠慮してお屋敷内を歩く。広い廊下を進んで最奥の部屋。薫がドアをノックするとちりんと鈴が1回鳴った。


 ドアを開けると、猫神さまは部屋の奥の座布団の上で優雅に座っていた。


「ようこそお越しくださいました。どうぞお入りくださいな」


 猫神さまに促されて薫たちは部屋に入る。すると「どうぞ、楽にお座りになって」と言われたので、薫と潤はあぐらをかいた。カガリとカツもすぐ傍で腰を下ろす。


 猫神さまは薫と潤の顔を順に見つめ、にっこりと笑って小首を傾げた。


「猫まんま、とても美味しかったですわ。あんな美味しいお食事は始めてでした。ありがとうございます」


 お食事処の営業中、猫神さまの使いだという人間が、自前の器を手に猫まんまを取りに来ていたのだ。


 薫が猫神さまご所望の鶏としめじの猫まんまを作ってお渡しした。猫神さまの器はお食事処で使っている白いシンプルなものとは違い、色とりどりに彩色された華やかなものだった。猫まんまが美味しそうに見える気がしたものだ。


 猫神さまに手放しで褒められ、薫は嬉しくなって笑みを浮かべる。


「そう言ってもらえて嬉しいわ。なんやいつもの飯と違う言うて、ありがたいことに喜んでくれた猫も多かったみたいやわ」


「ええ、ええ。この屋敷で炊事をしてくださっている人間さまは、普段お食事処で調理をされている人間さまに手ほどきを受けたのですわ。ですので作り方が同じですの。でも薫さまと潤さまの猫まんまは作り方が違うのですね」


「俺らはいつもの人がどんな味付けしとるとか分からんで作ったからな。俺らなりに少しでも旨いもんをって作ったつもりや」


「僕は手伝っただけで、味付けとかは全部薫がしたんですよ〜」


 潤が言うと、猫神さまは「あら」と目を見開く。


「そうだったのですね。でも潤さまのご助力があったからこそ、お食事処が回転したのだと妾は思いますわよ」


「えへへ、ありがとうございます」


 潤は照れた様に頭をかいた。


「そして薫さまがお持ちの技術は素晴らしいものですわ。きっと猫又たちも満足したことでしょう。本当にありがとうございます」


 猫神さまがそう言って頭を下げたので、薫は焦って「頭上げたってくれや」と言いながらも心は喜びで溢れていた。


 猫神さまは頭を上げるとすっと笑顔を引っ込め、真剣な面持ちで薫と潤を見る。そして静かに口を開いた。


「薫さま、潤さま。おふたりにとりまして、この世界はいかようなものでしたか?」


 問われ、まず発言したのは潤だった。


「猫がたくさんで嬉しかったですよ。眼福って言うのかなぁ。皆僕たちに良くしてくれました。でもねぇ、猫又になる猫がどうやって亡くなったかって聞いた時は、凄くしんどかったです。僕も、もちろん薫も猫に手を挙げたことなんて無いです。でも凄く悪いことしたなって」


「せやな。それは俺も思った」


 薫がぽつりと言うと、潤は「うん」と頷く。


「多分、多くは人間の身勝手なんだって。もともと野良だった猫もたくさんいるけど、育て切れなくなって捨てられたりした猫もたくさんいるだろうし、多頭飼い崩壊とか、ブリーダーが劣悪な環境で子猫を産ませるためだけに飼ってたとか、いろいろ聞いたことがあります」


「はい。ここにはそうした経験をした猫又もたくさんおりますわ」


「そんな猫たちが人間に悪い感情を持ってるって、そんなの当たり前だなって。猫にも人間にもいろんな性格があるから皆同じじゃ無いんだろうけど、そもそも僕たち人間がそうならないようにしなきゃならないんですよね」


「そうですわね。そうしていただけると妾も嬉しいですわ」


「だから僕、ここから帰ったら少しでもそんな猫がいなくなるように、猫又にならずに済む様にできたらなって思います」


 潤は堂々と言って、ぐっと拳を握った。


「それは、何か手立てがあるのですか?」


「はい、あるはずです。帰って詳しく調べてみないと判らないことも多いんですけども、今でもそうした活動をしている人間がたくさんいると思います。まずは調べることからです」


「いたちごっこかも知れませんわよ。妾にとって人間さまは敬うものと同時に、畏れる存在でもあります」


「承知の上です。でもひとりでも多く活動する人が増えたら、幸せな猫も少しかも知れないけど増えるでしょう?」


 猫神さまは潤の言葉に満足したのか、ふんわりと柔らかな笑みを浮かべる。


「ええ。妾も救い切れない猫が1匹でも少なくなることを願っております。潤さま、どうかよろしくお願いいたしますわね」


「はい」


 潤は力強く頷く。薫は感心した様に「はぁ〜」と大きな溜め息を吐いた。


「潤、お前そんなこと考えとったんかいな」


「うん。ちょっと照れくさいけどね」


 潤は苦笑まじりに言う。


「いや凄いやん。ほんまに凄いわ。俺には思いも付かんかった」


「へへ。僕薫が思ってる以上に猫とか動物好きだからね」


「みたいやな」


「では薫さまは? いかがでしたか?」


 猫神さまに問われ、薫はきゅっと表情を引き締めた。考えながら、慎重に口を開く。


「俺は、この世界でいろいろと教えてもろた気ぃする。猫又の成り立ちはもちろん驚いた。めっちゃショックやった。潤も言うてたけどとんでもなく悪いことしたなて思った。それはほんまに済まん」


 薫が頭を下げると、猫神さまは「いいえ」とゆるりと首を振った。


「俺な、ここで食事処やらせてもろて、皆が俺らが作った飯旨い旨いて食うてくれるんがほんまに嬉しゅうてな。最初はそれだけやってん。けど酒場で太一くんの話聞いて、夢を持つ、なりたいもんがあるっちゅうのがほんまに羨ましい思ってん」


「太一さまのお話は妾も聞いたことがあります。眸を輝かせながら夢を語ってくださいました。妾にはとても眩しく映りましたわ」


「そうやねん。きらっきらしててな。俺な、今まで平坦な人生送って来たんや。それはそれで大事なことやと思う。でも何かこう、特別に一生懸命になったことが無いなぁて思ってな。なんか見付けてみたいなて思ってん。そんでここの食事処みたいな店ええなぁて思ってな。カウンタがメインで店のもんと客の楽しい会話があってな。俺今まで料理は趣味で、休みの日に家で作る程度やけど、ちょっと本格的に勉強してみよ思ったんや。学校とか通ってな」


「学校って、調理の専門学校とか?」


 潤の言葉に薫は「そうやねん」と頷く。


「今の俺の料理の技術なんかは母ちゃんや料理番組の見よう見まねや。せやから学校で基礎からちゃんと勉強して、修行して、いつかここの食事処みたいなええ店やりたいんや。まだまだ先の話やけどな」


「それは素晴らしい夢ですわね」


 猫神さまがふんわりと微笑む。薫は「ひひ」と口角を上げた。


「幸い今までこれっちゅう金掛かる趣味があれへんかったし、実家暮らしやったんもあって学費やらはどうにでもなる。仕事の後に通える夜間の専門学校もあるやろうしな。弟も来年から大学や。もう大人や。ますます手が掛からんくなるし、ちょうどええタイミングやろ」


 薫は一旦言葉を切り、やがて「それにな」とこぼす。


「後悔したぁ無いなって思ってな」


 そのせりふにカガリがはっとした様に顔を上げる。


「カガリが俺の婆ちゃんをここに連れて来れんかったことを後悔した言うてな。じゃあ俺はどうやろかって思ったんや。このまま平凡な毎日送って、その内結婚とかして子どもが生まれて年老いて。そん時に俺は「良い人生やったな」て思えるやろうかってな。結婚も子どももそりゃあ幸せなことなんやと思う。ほんまに大事なことや。でもそれは今の俺のやりたいことや無い。太一くんの話や無いけど、後悔せんようにやりたいことやりたいなって思ってん。もちろん人に迷惑掛けんことが前提やけどな」


「薫さん……」


 カガリが驚いた、だが嬉しそうな表情を浮かべる。薫はカガリに頷いて微笑んだ。

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