19話 負の感情の向かう先
リンダが去り、いつの間にやらお食事処のお客の猫たちもまばらになっている。薫と潤にも余裕が出ていた。
ゆっくりと猫まんまを味わう猫もいれば、食べ終わってまたたび酒を嗜む猫もいる。潤は1匹の猫の前にまたたび酒が入った皿を置いてやっていた。
カウンタをぐるりと見渡してみれば、何やらカガリを相手にくだを巻いている茶猫がいる。頭をテーブルに突っ伏して、すっかりと酔っ払っている様だ。
薫は昨日と今日このお食事処に立っただけだが、ここでこんなに酔っ払う猫を見るのは初めてだった。呑んだくれたい猫は酒場に行く様だからである。実際昨日の酒場の様子はなかなか凄かった。
茶猫に何かがあったのだろうか。カガリを見るとそう困っている様には見えないが、助け舟が必要かどうかだけは聞いておくことにしようか。
「カガリ、大丈夫か?」
「薫さん。大丈夫ですニャ。ミキオさん、あ、この茶色の猫はミキオさんとおっしゃるのですが、寂しがっているのですニャ」
「寂しがる?」
薫が目を丸くしてミキオを見ると、ミキオは「うう……」と赤ら顔でうめき声を上げた。
「ミキオさんはヤシさんと仲が良かったのですニャ」
するとその言葉に反応したのか、ミキオが「そんな簡単なもんじゃねぇよぅ」とぐずる。
「おいらとヤシの兄貴はなぁ、盟友というやつだよぉ。おいらたちはよぅ、約束したんだよぅ」
どういうことだろうか。またカガリを見ると、カガリは痛ましげな表情でミキオを見つめていた。そして言い辛そうに口を開く。
「薫さんは先ほど、猫又になる猫の条件をお聞きになりましたニャ」
「おう。ほんまに驚いたわ」
薫は沈痛な面持ちになってしまう。
「ヤシさんとミキオさんは、人間さまへの警戒心を持ち続けていたのですニャ」
「え?」
薫は驚く。昨日このお食事処で触れ合ったヤシは、とてもそんな風には見えなかった。初めての薫や潤にも気安く話し掛けて来てくれた。
そして酒場では薫を気遣ってくれたでは無いか。猫神さまはそれがヤシが猫又として逝くきっかけになったのではと想像したでは無いか。
ああ、だがヤシだって人間の手に掛かって猫又になったのだから、人間を憎んで何ら不思議は無いのだ。実際猫又になった当時はそうだったのだろう。
そしてそれはミキオも。だから2匹は意気投合したのだ。人間への負の感情は2匹を強く結び付けたのだろう。
そしてミキオは今でも人間を良く思っていない。薫はここに来てから自分たちに好意的な猫又としか触れ合っていないから忘れそうになるが、それはミキオに限ったことでは無い。それは猫又になる過程を知れば当たり前のことなのだ。
ミキオはカウンタに伏せたまま「畜生……兄貴ぃ……」と鼻をすすった。
薫はそっと手を伸ばすと、ミキオの頭を優しく撫でた。ミキオはしばらくは気持ち良さそうにごろごろしていたが、やがてそれが薫の手だと気付いたからか、避ける様に頭をもぞもぞと動かした。
「なんだよぅ、人間の野郎がおいらに触るんじゃねぇよぅ」
ミキオはそう嫌そうに呻くが、薫は懲りずにまたミキオの頭を追う。すると今度は面倒になったのか、ミキオはされるがままになる。それでも「なんだよぅ、なんだよぅ……」と言葉で小さな抵抗を繰り返した。
「俺な、昨日酒場でヤシさんに気遣うてもろたんや」
「なんだよぅそれぇ……、ヤシの兄貴は人間になびいたって言いたいのかよぉ……。なんだよぅ、俺は人間の野郎なんかには媚びねぇんだぞぅ……」
言っていることは整理されているが完全に酔っ払いである。ヤシの猫又としての逝去がショックでのやけ酒なのだろう。
嫌なことやショックなことがあれば酒に逃げる。それは薫にも覚えがある。とりわけ特徴の無い人生を歩んで来た薫でもそんな時があるのだ。
それはともかく。
巧く言えるだろうか。薫は穏やかに口を開く。
「違う思うでミキオさん。ヤシさんはな、きっと優しかったんや」
「そんなことおいらが1番良く知ってるよぅ……、ヤシの兄貴は優しいんだよぅ……」
「そうやな。せやから俺ら人間のことを嫌やて思ってたとしても、自然と俺を気遣うてくれたんや。俺昨日酒場で考え事してぼーっとしてもうてな、それを心配してくれたんや。昨日ここに飯食いに来てくれた時も、新参もんの俺と潤に優しく気楽に話し掛けてくれた。それはヤシさんが優しかったからなんやと思う。まだ人間への嫌な感情が消えとらんかったんかも知れん。でもヤシさんの優しさがそれに勝ったんやな。せやからもう大丈夫やって、ヤシさんは逝ったんや。ヤシさんは人間になびいてもおらんし媚びてもおらん。ただ遺恨のある人間相手でも、ヤシさんの深くて広い懐がそれを包んでくれたんやろ思う。ほんまにヤシさんは凄いなぁ」
「そうだよぅ、ヤシの兄貴は凄いんだよぅ……」
ミキオは満足そうに、誇らしげに口元を綻ばせた。
「せやからヤシさんは皆に慕われたんやなぁ」
「そうなんだよぅ」
「せやったらな、ミキオさん、笑うてヤシさんを見送ってやろうや。ヤシさんも弟分のミキオさんがこうやって悲しんでるん辛い思うわ」
「そうなのかなぁ……」
「きっとな。そんで旨い飯食って旨い酒呑んで、笑うて行こうや。別に無理に人間好きにならんでもええし、ここで楽しくおれたらええんちゃうか? その方がヤシさんも喜ぶ思うで」
「んにゃぁ〜……」
ミキオは気持ち良さそうな声を上げると、そのまま寝入ってしまった。
「寝てしまいましたニャ」
「ほんまや。気持ち良さそうやな」
薫は微笑ましげに笑う。
「このまま寝かせといたら身体痛うなりそうや。家まで連れて行こか。今やったら潤ひとりでも行けるやろうし。おーい潤」
呼ぶと、他の猫と話をしていた潤が「はぁい」と返事をする。
「少しの間ひとりでも行けるか? この猫寝てしもたから家に連れて行きたいんやけど」
「あぁ、大丈夫だよ〜。言ってらっしゃ〜い」
「ありがとうな。カガリ、案内してくれるか?」
「はいですニャ」
薫が両手で「よいせっと」とミキオを抱え上げ、カガリと並んでお食事処を出た。
ミキオを家まで運んで寝かせた後、お食事処まで薫とカガリはのんびりと歩く。
「薫さん、ありがとうとざいましたニャ。お手数をお掛けしましたニャ」
「いやいや、構わへんで。大事な人が逝ってもうたんやから飲みたくもなるわなぁ」
「僕だとどう声をお掛けしたら良いのか判らなくて、お話を聞くだけになってしまったのですニャ」
「しゃあないわ。デリケートなことや。どう言うたらええんか難しいわな。まぁ俺も、ミキオさんが酔っ払っとるから言えたんや。多分明日には忘れとるで」
薫が笑って言うと、カガリは「そうなのですかニャ?」と不思議そうに首を傾げる。
「酒の力なんてそんなもんや。俺も婆ちゃん死んだ時は結構飲んだわ。記憶もおぼろげになったし、宿酔いにもなってもて頭痛大変やったで。普段あんまり量飲まへんから余計やな。あれ以来絶対に深酒はせんて誓うたわ」
「薫さんはあまりお酒に強くないとおっしゃっていましたニャ」
「おう。あ、婆ちゃんは強かったわ。さすがに日本酒を水みたいにとは言わんけど、好きでよう飲んどった。婆ちゃん死んだ時に飲んだくれたんはその影響もあってな。酒好きの婆ちゃんやから、酒で送ったろ言うて」
「それは万智子お婆ちゃまはきっと嬉しかったのですニャ。けど弱い人は大変だったのでは無いのですかニャ?」
「まー親戚のおっさんどもがよってたかって注ぎに来よる。さすがに女の子にはせんかったけど、男連中はもうさんざんや」
「本当に大変だったのですニャ」
カガリが心配げに目尻を下げる。薫は「はは」とおかしそうに笑う。
「まぁな。けどまぁええ通夜と葬式になった思うで。大いに飲んで笑うてな。賑やかに婆ちゃんを送れたわ」
「はいですニャ。それは良いことなのだと思うのですニャ」
「せやな」
お食事処はもうすぐそこである。中からは賑やかな話し声や笑い声が漏れ出ていた。
到着すると、カガリはそのまま中に入って行く。薫は出入り口のところで足を止めた。
猫が利用する店なので、人間にとってはそう広くは無い。メインのカウンタが左右に広がり、猫たちはそこで美味しい猫まんまに舌鼓を打つ。そしてまたたび酒をじっくり味わう。
猫たちはカウンタを挟んで店員、今は潤とカツ、そして戻ったばかりのカガリと他愛の無い会話を楽しみ、笑顔になる。心の底から笑う。
楽しそうな声が溢れる空間の、何と素晴らしく美しいことか。それは薫にはとても眩しく見えた。屈託無い笑顔が輝いていた。
ああ、ええな。素直にそう思った。羨ましいとかそういう感情では無い。ただただ、この中で繰り広げられている暖かなものが尊く思えたのだ。
昨日今日と忙しなくカウンタに立っていた時には感じなかったものだ。こうして客観的に見て初めて気付けたものだった。
「薫? どうしたのー?」
カウンタの向こうから潤の声が響く。
「薫さん!」
カガリも読んでくれる。
「おう。今行くわ」
薫は満面の笑みを浮かべて、店内へと入って行った。
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