18話 後悔の無い様に

「俺と潤、あ、もうひとりの人間な、カガリにここに連れて来てもろたんやけど」


「ええ、そうらしいわね」


 薫の言葉に一体何の話なのかとリンダは一瞬きょとんとする。だが口を挟まずに耳を傾けてくれた。


「カガリはもともと人間の世界で、俺の婆ちゃんに毎日ご飯もろてたんや。婆ちゃんもいつも家に来てくれるん楽しみにしとってなぁ」


「あら、それは素敵ね」


 リンダはふんわりと微笑む。薫は「おう」と口角を上げた。


「けどその婆ちゃんも去年死んでしもてな」


「あら……」


 リンダは切なげに目尻を下げる。


「それはお気の毒だったわね。ご愁傷さま」


「ありがとうな。でな、カガリ言うとった。婆ちゃんが大好きで恩も感じとったのに、勇気が出せんでこの世界に連れて来られへんかったて後悔したってな」


「こうかい」


 リンダはその言葉を噛み締める様に、ゆっくりと口にする。


「俺もな、後悔したんや。俺ら家族は婆ちゃんと別々に暮らしとったから、もっと遊びに行けば良かった、もっと電話したら良かったってな」


 リンダは軽く息を飲む。薫は言葉を続けた。


「言うても多分な、どんだけそうしとっても、やっぱり相手が亡くなってもうたら大なり小なり後悔するんやと思う。カガリは婆ちゃんをここに連れてくることができとったとしても、もっと何回も連れてくれば良かった、もっと一緒におれば良かったって思ったかも知れん。カガリには聞いてへんけど欲なんてもんは広がるもんや。でもな、やるだけやった後悔とせえへんかった後悔は違うんやろな。ありきたりな言葉やけどな。せやからこれは俺の想像や。違うかったら違う言うてな。リンダさんがその相手さんに気持ちを伝えへんままその猫が亡くなってもうたら、言っとけば良かったって思うんちゃうかなって。リンダさんの思いが叶うたら2匹の時間も増えるやろ。それがあるか無いかで、見送る時の気持ちも変わってくるんちゃうやろか」


「そう、なのかしら」


 リンダは半信半疑ながらも否定はしなかった。


「多分やけどな。先のことなんか分からへんから、そん時にできることをするしか無いんやと思う。生きてる猫の寿命は15年とかやろ。猫又にしてみたら短いもんと違うか?」


「ええ、そうね。猫又にもよるけど、私はもうそれよりも長く猫又でいるわね」


「猫又の寿命が長いから、数年を適当にしてええとかそんなんや無い。寿命が長かろうか短かろうが、それはその猫のもんや。大事にすべきなんやと思う。せやから後悔せんようにして欲しいなて思うんや」


 猫又の寿命は長いと聞いた。それは人間への負の感情がそれだけ根強いということだ。それを抱えたまま猫又たちは違う思いにも囚われながら生きている。


 人間だって様々な感情に揺れ動きながら生きている。その中には幸せや辛さや後悔など様々なものがある。きっと数え切れない。この感情はこう、と定義付けられないものだってある。常に正と負の感情が主張し、時に曖昧に渦巻いている。


 そして人間である薫と猫又たちがこうして意思疎通できるということは、きっと感情の持ち方は似通っているのだ。


 しかし猫又と人間が決定的に違うところがひとつ。それは猫又に残る自らの死の記憶だ。


 それは薫などでは想像もできない残酷なものだ。猫神さまは人間への恐怖心などを濯ぐための猫又だと言ったが、生命を落とした瞬間の思いも猫又たちの中にのしかかっているだろう。


 それを癒すための猫又生は、幸福で穏やかで健やかで充実した、ひとつでも後悔の無いものであって欲しい。


 この世界で人間たちに世話をされながら、お食事処で美味しいものを食べるのも良いだろう。昨日の酒場の猫たちの様に呑んだくれるのも良い。今日遊技場で見た猫たちの様に精一杯遊んだり、人間世界で勝手気ままに野良をしたり、人間に飼われて可愛がられたり。色恋だって素晴らしい。


 その猫又が良いと思えること、楽しいと思えること、幸せだと思えることを堪能して欲しい。


 そんなことは薫では無く猫又たち自身がいちばん解っているだろう。だが迷う時だってある。今のリンダは大切な人を失くすことへの恐怖で迷っているのだ。


「リンダさん、はっきり言うて、親しい人を亡くすんはやっぱり怖いし悲しいわ。けど避けられることとちゃう」


「そうね」


「せやから生きとるうちにできることをするんや。それは猫でも猫又でも人間でも一緒や。リンダさん、もしその相手さんから思いを告げられたらどうする?」


「ええ、それは。でも」


 リンダはまだ迷っている様だ。


「そん時もしリンダさんが断ってしもうたら、相手さん悲しむやろ。そんなん嫌や無いか?」


「まぁ、それはとても嫌だわ。ああ、それは私があの猫を悲しませてしまうということなのね」


 リンダはショックを受けた様に、半ば呆然となって言った。


「私、自分が思いを伝えることしか考えて無かった。そうよね、向こうから言ってくれる可能性だってあるのよね」


「猫の習慣ちゅうか、そういうのが俺には分からへんから、雄からとか雌からとははよう言わんけど、向こうが満更や無いんやったらそういうことかてあるんちゃうか?」


「薫さま、猫の発情期は聞いたことがあるかしら?」


「聞いたことはあるけど、詳しくは知らんなぁ」


「先に雌が発情して、鳴き声とかで雄を誘うのよ」


「へぇ」


 初耳だ。薫は小さく驚く。


「私たち猫又に発情期は無いけどね。繁殖できない様になってるの。でもそれと好きだ何だとじゃれ合うのは別だわ」


 リンダは考え込む様に俯く。薫は猫まんまを作る手を動かしながらリンダを待った。しかしその時、外から「わあぁ!」と大きな歓声が聞こえた。


 その声に驚いて薫が顔を上げ、リンダもはっと弾かれた様に目を開く。


「何ごとや」


「あら、やっと終わったのかしら」


 見ると、出入り口から姿を現したのはトムだった。身体中に引っ掻き傷を作り満身創痍だ。体力も相当消耗しているのか、ふらふらとした足取りで中に入って来る。


 薫もリンダも驚いて呆然とトムを見る。周りのお客たちもトムを見守る様に注視している。トムはリンダの前まで来ると、痛むだろう身体を押してその場に腰を下ろし、右の前足をそっと上げた。


「リンダさん、僕、キロリさんに勝ちましたよ!」


 トムは嬉しそうに満面の笑顔を浮かべる。リンダはぽつりと「そう、今回は決着が着いたのね」と呟いた。


「ええ! これで僕と番になってくれますね、リンダさん!」


 トムは確信に満ちた様な輝いた目でリンダを見つめる。リンダはどうするのだろうと薫は心配になる。


 薫の位置からリンダの顔は見えない。だがその後ろ姿は嬉しそうに見えなかった。それは薫がリンダの気持ちを聞いたからだろうか。


 ややあって、リンダはゆっくりと首を左右に振った。


「ごめんなさいトム。私はあなたの、あなたたちの気持ちには応えられない。だからその手を取れないわ」


 冷たいとも思える様な静かなリンダの言葉に、トムの顔は絶望に染まる。重い沈黙が訪れ、やっとトムの口から漏れたのは「どうして」という呻きだった。


「本当にごめんなさい」


 リンダは駄目押しの一言をはっきりと言って、深く頭を下げた。


「そんな」


 トムは力無くぽつりとこぼすと、ふらりと立ち上がってよろめく足で店内を出て行った。リンダはトムの姿が見えなくなってようやく顔を上げて。


「本当に、ごめんなさいね」


 もう見えない背中に囁いた。


「リンダさん」


 薫がそろりと声を掛けると、振り向いたリンダの顔は晴れ晴れとしていた。たった今誰かを袖にしたとは思えない様な表情だった。


「こういうのって、断られる方はもちろん辛いんでしょうけど、断る方も辛いのね」


 リンダはそう言いながら今度は苦笑を浮かべる。


「まぁ、特にトムさんは確実に一緒になれるて思ってたみたいやしな」


「そんな約束はしていないんだけどもね。いつの間にか勝った方が私と番になれるって思い込んじゃったみたいで」


「ああまぁ良くあるこっちゃな。自分の都合の良い様に話が変わっとる」


「そうね。でも私、決めたわ、薫さま」


「ん?」


「気になっている雄猫に自分の気持ちを伝えるわ。もしかしたら満更でもないって思ったのが私の勘違いってこともあるかも知れない。でもキロリとトムがこんなに一生懸命になってくれたのを見て、私も頑張らなきゃって思ったわ。あの2匹ね、いつもは相打ちなのよ。でも今回はあんなになるまで頑張ったのね。それにやっぱり後悔はしたく無いわよね。彼が先に逝くのはやっぱりまだ怖いけど、言わないままだったら、多分言っておけば良かったって思うんだわ。薫さまの言う通りなんだと思うわ。あとであの時こうしておけば良かったって、少しでも思わない様にしたいわ」


 リンダの吹っ切れた様なせりふを聞いて、薫はにっこりと微笑んだ。


「おう。俺もそうして欲しいわ。応援しとるで」


「ありがとう」


 リンダは笑顔で応えてすっと立ち上がる。


「じゃあ私、さっそく人間さまの世界に戻るわね。話を聞いてくれてありがとう。ごちそうさま。とても美味しかったわ」


「おう、おそまつさん」


 リンダは優雅にしっかりと前を向いてお食事処を出て行った。


 リンダの気持ちは猫又になった原因とは関係が無いし、人間に対する感情が左右されるものでも無い。だが魂が癒されるのであれば、それが大事なのでは無いかと薫は思う。それもとても重要なことだ。


 巧いこと行くとええな。薫は心の中でリンダに声援を送った。

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