13話 突然の別れ

 またぶらりと歩いていると、前から木製の立売り箱を下げた女性が歩いて来た。


「あれー、初めて見る顔ですねー。こんにちはー」


 女性は気安く声を掛けてくれる。


「カガリちゃんのお客さま?」


「そうですニャ。こんにちはですニャ」


 薫と潤も「こんにちは」を挨拶をした。


 立売り箱の中をひょいと見ると、中にはテニスボールやピンポン玉、蹴りぐるみなどが雑然と入れられている。


「これ、猫のおもちゃですか?」


「そうですよー」


「遊技場に持って行くんですか〜?」


「いいえー。これは猫ちゃんがお家で遊ぶ用ですよー。新しく入れたり古くなったのを入れ替えたりするんですー」


 女性は楽しそうににこにこと応えてくれる。


「ふぅん。そんなお世話もあるんや。さっきは敷布の洗濯しとる兄ちゃんと話したし」


「いろいろあるんですよー。じゃあ私は行きますねー」


 女性はひらひらと手を振って、軽やかな足取りで薫たちとすれ違って行った。すると今度は猫の敷布を回収していた青年と再会した。今の青年は手ぶらだった。


「あ、さっきの。智史さんでしたっけ」


「あ、カガリのお客さんだ」


「はい。まだまだ洗濯中ですか?」


「うん。今洗濯機回してます。これからヤシを起こしに行くんですよ」


「ヤシさん? 昨日会いましたわ。食事処と酒場で」


「そうそう。またたび酒大好きヤシさんね。敷布の洗濯したいから起きて欲しいんですけど、全然起きてくれなくて。いつもはとっくに起きてる時間なんだけどなぁ」


 智史が参った様に頭を掻くと、カガリがかすかに顔をしかめた。


「……起こしても起きない、ですニャ?」


「そうなんだよ。って、カガリ?」


 智史が言い終わる前にカガリは駆け出していた。


「カガリ!」


 薫と潤、智史も驚いて、カガリを追い掛けて走り出す。カガリが一目散に入って行った家は。


「あ、ヤシの家だ」


 薫たちが追い付くと、カガリが出入り口から顔を出した。その顔は強張っていて薫たちは息を飲む。


「智史さん、申し訳無いのですが、猫神さまを呼んで来て欲しいのですニャ」


「わ、分かった」


 智史が慌てて駆けて行く。薫と潤はどうしたのかと屈んでヤシの家を覗き込んだ。


 緑色の敷布の上で静かに横たわるヤシ。その傍らでカガリが腰を下ろして顔を伏せていた。


「カガリ、ヤシさんどうしたんや」


「逝かれたのですニャ」


 カガリがぽつりと言ったせりふに、薫も潤も「え?」と間抜けな声を上げた。まさか。


「逝かれたって、もしかして死んだってことか?」


「え? 猫又って妖怪だよね。妖怪って死なないんじゃ無いの?」


「妖怪は不老ですけども不死では無いのですニャ。ヤシさんは猫又としての寿命が終わったのですニャ」


 カガリの言葉に薫も潤も困惑した。


「そんな。昨日めっちゃ元気に酒飲んどったや無いか」


「そうだよ。凄っごく楽しそうにさぁ」


「猫又の死が訪れるのは、傍目には突然のことなのですニャ。でもこれは良いことなのですニャ。でもやっぱり寂しいですニャア……」


 カガリは切なげに言って、じわりと涙を浮かべた。


「カガリ、ヤシさん家から出してもええか?」


 薫が訊くと、カガリは鼻をすすりながら「大丈夫ですニャ」と応える。


 家の中に両手を入れて、ずっしりと重たいヤシの身体を持ち上げる。もともとでっぷりとした大きな猫だったが、完全に脱力してしまっているのでさらに重たく感じる。


 薫はぐっと力を込めてヤシを引き寄せると、あぐらをかいた膝の上に乗せた。ヤシはぴくりとも動かない。心臓の鼓動も感じられない。そして身体は冷たくなりかけていた。


「ヤシさん、ほんまに死んでしもたんやな」


 薫が呟いてヤシの頭をそっと撫でる。潤も屈んで恐る恐る背に手を伸ばして来た。


「猫又だから死なないって勝手に思ってた。昨日少し話しただけの猫なのに、悲しいものだね」


 潤の声は心の底から沈んでいた。当たり前だが知っている人、動物の死は心を波立たせる。薫の心もざわついていた。


「そうやな。俺は酒場で考え事してぼーっとしてたらヤシさんに気遣ってもろうた。優しい猫やったで」


「はいですニャ。ヤシさんは僕たちの親分の様な存在で、僕もとても良くしていただいたのですニャ」


 ヤシの家から出て来たカガリも悲しげに言う。その目からは新しい涙が流れた。


「カガリ、猫又の死はええことやて言うとったな」


 薫の言葉に、カガリははっとした様に目を見張る。そうか、失言だったのか。カガリは口を閉じてしまう。カガリもヤシの死で動揺しているのだろう。


「ああ、ええ。追求はせえへん。済まん」


「……ごめんなさいなのですニャ」


「俺こそ済まんなぁ」


 もの言わぬ、動かぬヤシを労わる様に撫でる手を、薫も潤も止めることができない。もう温もりは失われつつあるが、少しでもこの感触を感じていたかった。


「お待たせいたしましたわ」


 凛とした声が響く。薫たちが顔を上げると、人間に抱かれた猫神さまが神妙な面持ちでいた。


 その後ろには少し息を切らした智史が立っている。智史は薫の膝にいるヤシを見ると、ふらりと近付いて来た。そして屈むとヤシに手を伸ばす。


「猫又に寿命があることは知ってたけど、やっぱりこうして実際に亡くなるとショックなものだな。ヤシ、おもしろい猫だったんですよ。またたび酒飲み過ぎて宿酔いとかしょっちゅうだったし。そんな時は起こして敷布を取るのに骨が折れたもんでした」


「ええ。ヤシはきっとこの世界を最大限楽しまれましたわ。人間さまと関わり、満足されたので寿命を迎えたのです」


 猫神さまを抱いていた人間が屈むと、猫神さまがするりと降りてくる。そして薫の膝下、ヤシに近付くと。


「お疲れさまでしたわね」


 そう穏やかに言ってヤシの身体に手を添えた。すると。


 まるで「ぱぁん!」、そんな音が聞こえるかの様な勢いでヤシの身体が霧散した。


 薫と潤は大いに驚いて目を見開く。どういうことだ。もう何度薫の膝の上を見てもヤシはいない。その通り霧の様に消えてしまった。


 智史が少し諦めた様な表情で立ち上がる。


「残念だけど、これでヤシも心安らかに休めるね。じゃあ仕事に戻るか」


 最後にはさらっと言って、向こうに行ってしまった。いつの間にかできていた猫と人間の野次馬も散り散りになって行く。


 薫と潤は呆然としたまま、まだ顔を上げることもできなかった。なんでそんなあっさりしとんのや。死は大変なことなんや無いんか。そんな思いが薫の中に駆け巡る。そんな薫たちをカガリが心配そうに見上げている。


 すると、薫の耳に猫神さまの声が届いた。


「薫さま、潤さま、どうぞ妾の屋敷においでくださいな」


 猫神さまは来た時と同じ人間に抱き上げられて静かに屋敷に向かう。薫と潤は引っ張られる様にようやくのろのろと立ち上がり、そのあとをふらふらと付いて行く。カガリも後に続いた。

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