第6話 制服を着る大人

 教壇の後ろにある黒板には日直の名前が書かれていて、その上には今日の日付、そして隣には小さな文字で「体育祭まであと二週間!」と書かれている。


 黒板の隣にはコルクボートがあって、時間割や委員会からの新聞などが貼られている。ああ、そういえば、そんなものもあったな。午後一番が体育だからお昼減らすとか、一限から国語だから絶対寝るとか、クラスメイトが口々に言っていたのを思い出す。


 思い出すような、昔の記憶。それが光景となって目の前に広がっている。


 そして目の前には、制服を着た高校生が一人。自分が着ているものと同じ制服を差し出して、こちらの動向を窺っている。


「え、ええー」


 差し出されたものはとりあえず受け取る。受け取るが、袖を通す気にはなれない。


「ねー、おねがい」


 制服着させてお願い! なら分かるのだけど、制服着てお願い! はさっぱり意味がわからない。私が制服を着てなんの足しになるというのだろうか。


「セーラー服って、どうなってんの」

「え?」

「ブレザーしか着たことない」

「普通に着るだけだよ。首から通して、スカーフはこれただの飾りだから結ばなくてもいいし」

「あ、そうなんだ」


 って、なんか着る流れになってるな。


「いや、でも着てるところ見つかったら怒られない?」

「なんで?」

「部外者が制服着てたらスパイかと思われる」

「なんの?」

「なんかの」

「はやく着てよー」


 のらりくらりと躱すのは得意なはずなのだけど。澄玲すみれには遠慮というものがないから定石というものが通用しない。


「分かった分かった」


一秒ごとに澄玲が足を踏み込んでくる。あと五秒も経てば澄玲の頭が私の肋骨に食い込むことは確定しているので、さっさと制服を胸に抱えて身を翻した。


 でも、着替える場所がな……。


「カーテンの裏は?」


 風で揺れるカーテンは窓から地面すれすれまで伸びている。まあ、隠れるには充分な長さか。


 カーテンにくるまって、シャツを脱ぐ。シャツの上からでもよかったが、夏を手前にした今の気温だと絶対に暑い。


「着たー?」


 ちょうどシャツを脱いだところで澄玲がカーテンを開ける。


 視界に広がる教室。勉学に勤しむための机が無数に並べられたその場所で、私は下着姿になっている。ちなみにだが、露出の趣味はない。


 よって、澄玲の鼻頭を掴んで摘まみ出す。


 ため息を一つ吐いて、制服に首を突っ込んだ。


 スカートも履かなきゃなのか。


 足を空気に触れさせるのはあまり得意ではなかった。


 小さい頃は自動販売機の下に落ちていたどんぐりを拾おうとしたり、椅子に跨がったりするたびにママから「はしたない」と怒られた。ならスカートなんか履かせるなと思っていたくらいだ。


 スカートのホックを留めて、カーテンを開ける。


「着たけど」

「わあ……!」


 感激の声を漏らす澄玲。今まで見た中で、一番といって言いほど目を輝かせていた。


 しかし、その輝きも納得できる。


 教室という空間で制服を着ると、なんとも言えない寂しさと、それから懐かしさを感じた。今にも休み時間を告げるチャイムが鳴って廊下がわっと騒がしくなるような気さえする。


 制服のサイズは実にちょうどいい。腕をあげても、脇が苦しくない。


「まつり、制服似合わないね」


 くしくし笑いながら澄玲が言う。


「着せておいて」

「似合わないから、似合ってる」


 澄玲が私の隣に並ぶ。斜め下を見ると、澄玲の耳があった。髪がひょこっと跳ねている。


「じゃあもう脱ぐ」

「え、なんでよー!」

「着たから」

「このまま学校歩こうよー」


 なんとなく、そういうお願いだろうなとは思っていたけど。


「大丈夫だって、まつり、高校生でも通用するって」

「勘弁してよ。バレたら笑いものじゃん」

「いいから行こ!」

「ぎゃ!」


 腕を引っ張られる。すごい力だ。


 教室の扉を開け放ち、廊下に放牧される。


 いきなり向こうから学生がやってきて、澄玲に挨拶をする。当然私のことも見る。


 バレたかと思ったが、その子は気にした様子もなく階段を降りていった。


「ほらバレない」

「絶対たまたまだって……」

「体育館行きたい」


 聞いちゃいない。


 ここまで来て澄玲の手を振り払うわけにもいかなかった。私は諦めて、制服を着たまま校舎を歩くことにした。


 私の手を引く足取りは、いつもより何倍も軽やかで、たどたどしくて、初々しい。


 体育館に何の用があるのかと思えば、練習しているバレー部をちょっとだけ観察して、それからすぐ移動した。


「先輩、喉渇いた」

「誰が先輩だ」


 体育館の隣にある自動販売機の前で澄玲が立ち止まる。


「奢ってください」

「生意気な後輩だ」


 もし澄玲みたいな後輩がいて、毎日のように付き纏われたら、学校生活は途端に騒がしくなるだろう。休み時間にまで会いに来られたらたまったのではない。


「後輩、何が飲みたい?」


 着替えたときにポケットに突っ込んでおいた財布から百円玉を取り出す。


「おしるこ」

「喉渇くぞ……」


 暑いのによくそんなものを飲む気になる。


 私は冷たいコーヒーにでもしようと思ったが、おしるこをガブ飲みしている澄玲を見ていたらだんだんと気が削がれてきた。


 指がぐぐぐ、と力をなくして降下していき、下の段にあった青汁サイダーに着地する。


 プルタブを引くと、プシュと炭酸特有の音がする。それなのに香りは苦味を含んでいて、目が回りそうになる。


 一口飲んで、まぁ、思った通りの味だった。


「まっず」

「すみれもそれにすればよかった」

「正気か?」

「そっちの方が面白いでしょ?」


 口の中に残るシュワシュワとした苦味を唾で流し込んで、空き缶をゴミ箱に放る。


「あっ、面白い、ですよねっ、先輩!」

「まだそれやってたんだ」

「後輩って可愛いでしょ?」

「せやな」

「なんで関西弁」


 ……なんですかっ、とギリギリ敬語に滑り込む澄玲。


 むず痒い。敬語で話されるのは。


「守りたくなる?」

「いや全然」

「じゃあ、その逆……?」


 守るの逆って、なんだ。あれか、まあ、ディフェンス、フォワード、的な。


 どうしてだろう。学校という場所がそうさせるのか、それとも私が着ている制服のせいなのか。


 心臓の位置が、いつもより高い気がする。今も喉のあたりで、バクバクと音を鳴らしている。


「手、繋ぎませんか」

「いい、わよ」

「まつりの先輩像ってそういう感じ!?」

「おほほ」


 積もった埃を払うように笑う。


 人との関わりを大切にしていなかったせいで、学生時代は後輩なんてものは存在しなかった。年下だろうと年上だろうと、他人は他人だ。


 きゅ、と遠慮がちに私の手を握る澄玲。


 手を繋ぐと澄玲がピクリとも動かなくなる。しょうがないので私が手を引くと、澄玲が肩を縮こまらせながら付いてきた。


 青汁の苦味なんて、もうとっくに消えている。おしるこの沼に、全身が使ったような、甘ったるい感覚に、身体が浮き上がりそうになる。


 生徒玄関を通り過ぎて、電気も点いていない理科室前の廊下を通って、剣道部が練習している道場の前を抜けて、窓から見えるグラウンドを眺める。その間も、ずっと心の奥がざわざわとした。


 妙な感覚だった。粘土を思い切り握りしめたくなるようなものに近い。しかしここに粘土はない。あるのは形の変わらないものだけだ。


 階段の踊り場にあがったところで、先生たちの声が聞こえた。会議か何かだったのだろうか、近くの部屋からぞろぞろと出てくるような話し声。


 私は思わず澄玲を掃除ロッカーの後ろに押し込んで、私もそこに隠れる。


 先生たちは私たちに気付かないまま、通り過ぎていく。声が小さくなっていくのを待ってから、我に返る。


 茜色の夕陽に顔半分を染められた澄玲が、両手の前で手を組んで私を見上げていた。


「バレれるかと思った」

「う、うん……」


 私の腕と澄玲の腕が、学生の制服と制服が、交わっている。


 それからしばらく、互いに見つめ合うだけの時間が生まれた。その瞳の奥にあるものを、覗き込もうとする。流れ星を期待して星空を見上げるようなものだった。


「夢を、見るの」


 すると澄玲が、そんなことを呟いた。


「たまに、なんだけど。学生時代のこと」

「学生時代って、今も学生じゃん」

「そうなんだけどね、見るの。すみれは高校生で、たぶん、一年生か二年生。それでね、三年生に好きな人がいるの」

「ほう、ラブな夢ですか」

「その人はモテモテで、いつも周りにはたくさんの人がいて、でも自分がモテてることには気付いてないの」


 寝る前にそういう漫画やドラマでも観ていたら見そうな夢だが、澄玲の口ぶりからすると、しょっちゅう見る夢らしい。私も再放送みたいな夢をよく見るので気持ちはわかる。


「すみれはある日勇気を出してその人に手紙を書くの。放課後、体育館の裏で待ってるとその人が来るんだけど、よく見たらその人、まつりなの」


 ということは、私と出会ってから見るようになった夢ということか。


「よかったじゃん、この私が出てくるってことは吉夢だよ」

「うん、すっごく大好きな夢。見ると朝からハッピーなんだ」


 朝、やたらべったりくっついてくるときがあるが、まさかあれはその夢を見た翌朝なのだろうか。冗談のつもりで吐いた言葉が、夕陽に照らされて埃と共に漂っていた。


「夢に出てくるまつりは、制服を着てるんだけど、着てないようで……ぼやけてるんだけど。その夢を見るたびに思うんだ。まつりと一緒に学校生活を送れてたらどうなってたんだろうって」


 憂いを帯びた瞳が、私を見上げる。


「もうちょっとだけ、すみれが早く生まれてたら」


 時間の流れに逆らうのも、過去を呪うのも、どれだけ無駄なことかは分かっている。だから、願望なのだろう。夢なのだろう。


「夢の中の私は、モテモテだったの?」

「うん、ちょーモテモテ」

「じゃあ、私とお近づきになるのは無理だろうね。取り合ってもらえない」

「それでも頑張って声かけるもん」

「でも、モテモテっていうことはさ、その分経験があるってことでしょ? もう獸みたいな奴で、毎日のように可愛い子を食ってるかもしれん。そんな奴嫌でしょ」


 恋愛のカーストなんて、そんなものだ。高みを目指すということは、その分、競争相手がいるということで、経験と、過去があるということだ。


「え? 嫌じゃないよ?」


 目をビー玉みたいに丸くして、澄玲が言う。


「いや、でもさ。ええっと、食う側じゃなくて、食われたことがあるかもしれない。そう、モテモテということは。誰かに、食われたことがあって」

「うん」

「嫌じゃない?」

「すみれは全然。エイリアン4の法則だよ」


 あたかも存在する法則のように言う澄玲だったが、もちろんそんなもの初耳である。


「シリーズものってだいたい2が面白くて、3が駄作になる。そうなると4ってもう期待できないどころか、制作すらされないことがあるでしょ?」

「まあ、そういう節はあるかも」


 2は1が好評だったから、その勢いで作る。だけど、3ともなるとお金のにおいがしたり、制作側の人員が変わっていたりしていることが多い。そうなると、後になってやっぱ最初のがよかったよなあなんて感想になるのはよくある話だ。


「すみれはエイリアンの中で、4が一番好きなんだ」

「は、はあ」


 まったく、法則としての成り立ちが分からず、生返事しかでない。


「だから、エイリアン4の法則なの。最初じゃなくていいんだ、二番目でも、三番目でも。ただ、最初で最後で、一番大好きなものになれたら、それで。順番なんて関係ないんだよ」


 繋いだ手に、力がこもる。私も、澄玲も。


「夢の中の私も、さぞ喜んでると思う」

「そうかな」

「たぶん、自分の過去を全部黒歴史だと思ってるはずだから。直接言ってやればコロッと落ちるかも」

「うん、またあの夢見たい」

「枕元に私の写真でも入れておけば?」

「いいね」

「そういえば夢と現実が入れ替わるみたいな映画あったよな。なんだっけあれ」

「んー」

「ああいうの怖いよな。現実に夢が混ざり始めたりするやつとか」

「ね」

「解決したと思ったら最後の最後に夢を思わせるシーンとかあったら鳥肌もの」

「まつり」

「ん? なんだ、怖くなった?」

「キスして」

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