第5話 夕暮れの教室

 母校じゃない学校でこそこそ絵を描くのにも随分慣れてきた。


 今日は吹奏楽部は休みらしく、いつもの下手くそなトランペットは聞こえてこない。


 体育祭まであと二週間。グラウンドは毎日のように整備され、校内は少しだけ浮き足立っているように思える。


「あれ、茉莉まつり一人?」


 美術室の端っこで体育祭用のパネルと睨めっこしていると、あいつが話しかけてきた。あいつというのは、あいつだ。名前を知らないのであいつこいつそいつと呼ぶしかない。


 不便だとは思うが、自分から名前を聞く気にもなれなかった。


 なんとなくだけど、目の前のこいつは名前を覚えられていないことにショックを受けそうな気がしたからだ。


「塾があるからってみんな帰った」

「それで茉莉が一人で絵を描いてると」


 パネル係は澄玲すみれを含め全部で三人。三人とも絵が得意なわけではなく、ただ誰もやりたがらない係に押しつけられただけらしい。


 私が美術室に到着すると、澄玲以外の二人は「あとはお願いしますすみません」と新幹線のように美術室を出て行った。まあ、学校の行事に対する姿勢など人それぞれだろう。


 高校三年生ともなれば、放課後は勉強したい子も多いはずだ。


「あははっ、なんか罰ゲームみたいだね」

「そうともいう」

「ふーん」


 切れそうな紐を必死に結んで、切れないよう繋げていく。そんな会話だった。


 そいつの担当する白組の子たちが「ここが上手く濡れないんですけどー」と聞きに来ると、そいつは大人びた笑顔を浮かべてアドバイスをする。決して自分では塗ろうとしなかった。


「難しいけど、頑張ってみて。そこが絵の楽しいところなの」

「そうなんですね! うん、やってみます!」


 鼻を鳴らして戻っていくパネル係の子に手を振って、そいつは私に向き直る。


「みんな、これを機会に絵を好きになってくれたらいいんだけど」


 そいつは少しだけ寂しげな表情を浮かべていた。


 こいつの言葉の節々から、慈愛のようなものが感じ取れる。それは人に対してではなく、きっと。


「絵、好きなんですね」

「なんで敬語?」


 こいつとどういう距離感で話せばいいか分からず、ついかしこまる。


「絵は、好きだよ。大好き」

 

 そいつはまるで謳うように呟くと、私の作業している場所をゆっくり見渡した。


「もっと真ん中で描けばいいのに。こんな端っこで描いて、埃っぽくない?」

「閉所歓喜症なんだ」

「また変なこと言ってる」


 というかなんで話しかけられたんだろう。


 そいつはあろうことか、私の隣に腰掛けた。


「まあ、机に囲まれてるから、しゃがんじゃえば周りからはこっちのこと見えないね。そう考えると集中できそうかも」


 そいつは笑うと、目元が頬に押されて歪な形になる。台形になった瞳が、私と、私の絵を行き来した。


「澄玲ちゃん、また走ってるね」

「あいつはパネル係追放だな。全く自分で描こうとしない」

「まあまあ、澄玲ちゃん。走るのが好きなんだよ。いつも元気に動き回ってるから、きっと身体を動かすのが好きなんだね」


 窓の外からグラウンドを眺めると、澄玲がトラックの周りを走っていた。いかにも体育の先生といった風貌の人からスポーツドリンクを受け取って、これから小休憩を取るらしい。


「リレーで絶対勝つんだってさ」

「そうなんだ。いい結果になるといいね」


 澄玲が私たちに気付いて、手を振った。私は振り返さなかったが、隣のこいつは大きく振り返した。


「手、振ってあげればいいのに」

「うーん」

「一方的に好きになられて困る気持ちも分かるけど、一応相手は高校生なんだし、ちゃんと応えてあげたら? 澄玲ちゃんの好意も、どうせのらりくらりと躱してるんでしょ?」


 まただ。まだ降りる駅までずいぶんある。席に座って車窓の外を眺めていたら、車掌さんがやってきた。


 切符を見せろと、催促されている。


「いや、私もちょー好きだけどね」

「え?」

「だから、澄玲のこと。もうぞっこん。この世で一番好き。澄玲がいないと生きていけない」


 私が慌てて切符を取り出すと、車掌さんはため息をついて肩をすくめた。


「いいって、そういうの。澄玲ちゃんが可哀想だよ」

「えぇー……」

 

 電車の切符をちょろまかす行為をなんというんだったか、忘れたけど、そんなようなことを疑われている。本当に好きなんですよー、と追い打ちをかけようものなら手錠までされそうな雰囲気だったので、しょうがなく口を噤む。


「話変わるんだけどさ。茉莉、液タブまだ使ってる?」

「なんでそんなこと聞くの」

「随分絵筆の使い方に慣れてるなって思って」


 自分の指先を凝視する。


「まあそんな気はしてたけど。茉莉、液タブ使うの嫌いだったでしょ。専門学校のときも、随分手間取ってたみたいだったし。ていうかビックリした。絵描いてるのにデジタル触ったことなかったなんて。アナログ派だったんだね」

「ん、まあ、そうかも。描いてる感触がなくて。それなら鉛筆とか、筆の方が描きやすい」


 描いたときに鳴る音。そして指の腹に伝う画用紙との摩擦。それが好きかと言われるとそうではないかもしれないけど、単純に、性に合うのだ。


「そっか。ねえ、茉莉って本当は……」


 そいつは私から視線を外して、今も軌跡を描き続ける絵筆を目で追った。


「ううん」


 そう言うと、そいつは私に肩をトン、と当ててきて、耳打ちするように言った。


「こうして二人でいると、あのときのこと思い出すね」


 私が筆を動かす手を止めると、そいつは思惑通りと言った顔をする。


「わたしたちの関係、澄玲ちゃんにバレたらどうなっちゃうんだろうね」


 筆で背筋を撫でられたかのように、全身に鳥肌が立つ。心臓が血液を送り出すのではなく、まるで吸引しているかのような感覚に陥る。


「もし茉莉が澄玲ちゃんのことで悩んでるなら、わたしから言っておこうか? そうすれば簡単に別れられるよ?」


 そいつは自分の膝を抱えて、体育座りのような体勢になって、私の描き途中のタコを見つめた。そう、結局タコだ。赤いタコ。いや、今はそうじゃなくて。


「言わなくていい」


 五時を告げるチャイムと丁度重なる。


 そいつは、少しだけ驚いたように目を丸くした。


「え、茉莉、怒ってる?」

「全然。のっとあんぐりー」

「ふーん?」


 筆を水に浸けて、一呼吸置く。パネルも良い感じに完成へと近づいてきた。これじゃあほとんど私の絵だ。ポイントは赤軍ではなく私に入れてほしい。そのポイントに使い途はなさそうだけど。そしたら赤軍に転売しよう。


「心配しなくても言わないよ。言う必要ないし、それに澄玲ちゃんが可哀想」

「いや私わい」

「あはは」


 相変わらず思う。こいつは笑うのが上手だ。


「でも、しんどいなら別れるのは早い方がいいよ。なら特に」


 こいつの言う同棲という言葉は、どうしてか色んな意味を含んでいる気がした。それはこいつが、その言葉を吐き出すたびに少しだけ苦しそうな顔をするからだ。


「同棲すると、互いの嫌なところも見えてくる。それに、同棲するってことは、その後のことも考えてるってことでしょ? そうなると、互いの家族の許可も必要になってくる。未来を共に歩くのって、学生がする恋とはまるで違う。いろんな反発と、亀裂が原因で……それで、別れるなんてことも、あるんだよ」

「大変だね」

「うん」

「私も澄玲も、両親は一応、許可してくれてるから心配はいらないかな」

「そうなんだ」


 窓の隙間から入り込む風が、そいつの後ろに結んだ髪を靡かせる。 


「いいな」


 そいつの憂いも、悩みも、抱えているものも、私は抱き止めることはできない。生憎、家に棲み着いている犬を受け止めなきゃいけないせいで、両手が塞がってしまっているのだ。


「ごめん、なんか暗い空気になっちゃったね。……そうだ、茉莉。前に行ったコンペあるでしょ? あれ、茉莉は作品を出さなくても、わたしは出すからね。絶対入賞するから、開催日は絶対観に来て。あ、体育祭と被ってるけど、入賞作品の展示は翌週までやってるから、そのときに」


 聞いてもいない決意。


 しかし、私から聞くことをしない以上、自発的でない限り話が進まないのだろう。


「アナログも、専門学校でずっと練習したんだ。茉莉がなんにも言わないで、いなくなったあとも、ずっと、ずっと練習してた。スケッチブックだって、二十冊も使い切ったんだよ」


 そいつがスマホを取り出して、写真を見せてくる。ボロボロになったスケッチブックが、確かに二十冊、並んでる。


「努力したの。だから、アナログでも、わたしは負けない」


 絵で勝敗を付けようとするあたり、私とこいつはきっと、一生相容れないのだと思う。だけど、その向上心と、競争心は、どこか澄玲に通ずる部分があり、たぶん、そこに惹かれてしまった、昔の弱い自分もいたのだろう。


 黒い歴史とはよく言ったものだ。思い出すたびに、無かったことにしたくなる。


 手が震えて、水に浸けたままの筆を握ることができなかった。


「すごいね」

「ありがとう」


 月並みの賛辞しか出てこなかったが、私としては上出来だ。こいつが欲しがっていた言葉を察知して、淀みなく納品できたのだから。人との会話とは、きっとそういうものなんだと思う。


 これまで私はずっとそういうことから避けていたから、偉大な一歩だ。うん。


「って、あれ。じゃあ当日観に行けばよくない?」

「ああ、そのことなんだけど」


 体育祭と被っていようが、別に翌日に行けばいいだけの話だ。入賞を確認したいだけならなおさら。


「茉莉。体育祭の日って仕事?」

「土曜日だっけ。土曜日は休みだ」

「そっか。じゃあさ……二人で体育祭、観に来ようよ」


 一日で二つも誘いを受けるとは。私もモテモテになったものだ。


 とはいえ、不自然な誘いではなかった。


 来客用の名札をぶらさげて毎日のように美術室へと来ているのだ。自分たちが手塩にかけて育てた子たちの頑張りを観たいと思うのは当然だ。一人で来るのは気が進まないが、ちょうど顔なじみが同じような立場にいるのだから、誘わない手はないだろう。


「ね、いいでしょ?」


 今にも手を握られそうな距離に手を置かれる。


 粘ついた空気が、私たちの周りを纏い、覆っている。


 別に、それくらいいいか。これも付き合い。大人の付き合い。人間の付き合い。


 嫌だからと断るのは子供じみている。大人なら、多少気が進まなくても頷くべきだ。


 だけど、ふいに澄玲の顔が浮かんで、伸ばしていた背筋が丸くなる。


「いいけど」

「本当!? じゃあ……!」

「その代わり、もう一人呼んでいい?」

「え?」

「職場に、館山たてやまさんって人がいるんだけど、その人の息子さんもここの学校なんだ。お互い仕事は休みだし、誘わないのは逆に不自然だからさ」


 そいつは釈然としない様子だったが、何度か咀嚼したあと「分かった」と不服そうに答えた。


「まつりー!」


 バン! とドアが開け放たれたかと思うと、入り口に澄玲が立っていた。どうやら練習は終わったようだ。転んだのか知らないが、体操着が土で汚れている。洗濯……うげげ。


 澄玲は放たれたペットボトルロケットみたいに私の方へ飛んでくる。ひょいと避けると、後ろの壁に突き刺さった。


「あれ、杉本お姉ちゃんもいる! こんにちわ! 二人でどうしたの?」

「こんにちわ澄玲ちゃん。茉莉と一緒に体育祭観に来ようかなって話してたの」

「三人な。職場の人も来る」


 突き刺さった頭を引っこ抜いて、澄玲が「観に来てくれるの? わーい」と無邪気に喜ぶ。隣のそいつも上手に笑みを作りながら「そうなの」と同調した。


 そいつは私と澄玲に手を振ると、白組が作業していた場所に戻っていく。


 なんか、どっと疲れた気がする。


 別に、あいつに限った話ではないけど。背伸びをするとふくらはぎがつるみたいに、伸ばした場所が痛むのだ。


「ねねねねね、茉莉」

「なななななに」

「ちょちょちょちょっと作業やめられる?」

「やややややややめられるけど」

「ちょっと、抜け出さない?」


 自分から始めたくせに、出口がないと見るや否や迷路から脱出する澄玲。私はパネルと画材を美術室の準備室にしまうと、廊下から手招きしている澄玲の方へと向かった。


 澄玲は廊下と渡り、体育館を過ぎ、それから階段を昇っていく。


 澄玲は自分のクラスに入っていくと、窓際にかけてあった制服を手に取った。


 私も教室に入る。教室には私たち以外誰もいなかった。


「なんで制服干してあるの」

「今日のお昼に池に落ちちゃった」


 アホなエピソードである。


「それで、午後着る制服がないから、先生から借りたの。辞めた子の制服らしいんだけど」


 澄玲は干してあった制服とは別の制服を、ロッカーから取り出した。


「放課後返さなきゃなんだ」

「そう。じゃあ早く返したら?」

「うん。でもね、その前に」


 先生から借りたというその制服は、澄玲がいつも着ているものよりサイズが大きい。


 夕暮れの教室。開け放った窓から入り込む風がカーテンを揺らす。


 どこか遠くから聞こえてくる、生徒の声。部活に励む青春の音。


 放課後の誰もいない教室は、そんな世界から隔離された、特別な場所のように思えて。


「まつりに、着て欲しい」


 もう要らないからと置いてきてしまった、甘酸っぱいドキドキとした高揚感を連れてくる。

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