第2話 それが大人
休憩室に入ると弁当を拡げようとしていた副店長とバッチリ目が合った。
一瞬動きを止めた副店長だったけど、すぐに姿勢を正して向かい合う。
「お、おはようございます。お疲れ様ですすみませんでした申し訳ございません」
「ちょっと、急にたくさん話しすぎよ。おはようだけでいいわ」
「そうですよねすみません申し訳ございませんでしたおはようございます」
ちょっと挨拶しようとしただけなのに、謝罪が尾ひれとなってくっついてくる。だけど、今日はそれを言いに来たのだから問題はない。
謝罪には成功したので、あとは副店長からの返事を待つだけだ。謝罪なんて聞きたくないわ! と言われたらそれまでだし、あなた誰? といなかったことにされるのはなかなかに辛い。
ただ、どんな返答であれ私は受け入れる覚悟はできていた。
身構えると、肩に力が入り呼吸が浅くなる。唇を中にしまい込んで歯に当たる。痛い。んむむと背筋を張っていると副店長が口元を押さえて笑った。
「久しぶりね、元気だった?」
「滅相もございません元気だなんて元気な資格なんてありませんほんと」
「もう、花芹さん。あなたは私のことをなんだと思っているの?」
「お優しい副店長様でございます」
「お世辞っていうのは積み重ねなのよ? いきなり言ったって意味ないわ」
「すみません・・・・・・」
「お世辞っていうのは否定しないのね?」
あっ、と口を開こうとすると、酸っぱいものが口の中に放り込まれた。
「実家で作ってるトマト。おいしいでしょ?」
「はい。ぷちぷちしてて、ブドウみたい」
酸味を舌の上で転がすと、凝り固まったものがほぐれていくようだった。
もう一つもらって、粘ついていた口の中をリセットする。あ、いやもう一つ。本当においしい。もにょもにょ口を動かす私を、副店長は目を細めて見つめていた。
「増えたわね、口数。誰のおかげ?」
「誰のおかげっていうか・・・・・・え、私そんな喋るようになりました?」
「ええ、とっても。誤解しないでね、それはすごくいいことだと思うわ。もしかして、一緒に棲んでいる子のおかげかしら」
そういえば副店長は澄玲と面識があるんだった。
うーんと悩んで、私はきっぱりと言い放つ。
「違います」
「そうなの?」
「はい。あいつ、だけではないです」
「それは・・・・・・ふふっ、素敵なことね」
副店長は足を崩して「座ればいいのに」と隣を手で叩く。
自分が突っ立ったままだったことにようやく気付いて、副店長の隣にお邪魔させてもらった。距離は近いけど、顔は見えない。話し込むには実に適していた。
副店長は話す雰囲気というものを重んじているきらいがある。前に館山さんと話した時もそうだった。裏に呼び出すんじゃなくて店頭でさりげなく。なるべく重苦しい雰囲気を生まないように、そういった気遣いがこの人は得意なのだ。
きっと今も私に気を遣ってくれたのだろう。しかし逆を返せば今から大事な話をするということでもあった。
「どうして突然仕事を休んだりしたの?」
予想以上の直球だった。
嘘偽りのない問答を求められている、そんな気がした。
「・・・・・・逃げちゃいました」
「仕事が嫌になったってこと?」
「それ、もあるのかもしれません。なんというか、色々、疲れちゃって、それで・・・・・・」
のらりくらりと働いていたくせに心の底では荒んだものを隠していた。そう思われるのが嫌で語尾がかすんでしまう。
副店長は真面目な表情で私の話を聞いている。この消え入るような声が、確かな言葉になるまで待っている。そんな面持ちだった。
「面倒な事から目を背けました。すみませんでした」
壁によりかかったまま、下げる場所のない頭を引力に任せる。
「子供みたいなことして、すみません・・・・・・」
畳の目が歪んで見える。心の底から謝るという行為がこんなにも苦しいことだとは思わなかった。
「実はね、花芹さんは今休職扱いになってるのよ」
「はい。さっき白雲さんに聞きました」
「なら話が早いわね。花芹さん。このまま休職を続けるか、それとも期間を短縮してまた仕事に復帰するか。あなたの気持ちを聞かせてくれる?」
今だけは、視線を外していた副店長が私を見据えて離してくれない。
つまり、仕事を続ける気があるのか、ないのかという質問なわけだが、安直に答えを出すことは許されないなんだろうなと思うし、後悔もしたくなかった。
仕事をしたいなんて人間は世界にどれだけいるのだろうか。それは自分のやりたいことを仕事にできているかという問いに直結しているのかもしれないが、ともすれば数は多くないのだろう。
私だって仕事に人生を捧げられるほど熱意があるわけじゃない。けれど、大半が仕事に埋め尽くされてしまうのが人生というものだ。私はどこかで、取捨選択をしなければならない。
捨てるのは簡単だ。慣れている。けど、手に取るべきものを選ぶのは難しい。
それでも私は、もう逃げたくなかった。
一度でいいから最後まで、やりきってみたい。
「できることなら、復帰したいです」
少し、声のボリュームを間違えたかもしれない。自分の声が壁に跳ね返って戻ってくる。若干に上ずっていた。
副店長は私の言葉を聞き届け、数秒したあと壁からずり落ちて仰向けになった。
「はぁ~~~」
「ふ、副店長・・・・・・?」
「何回やっても疲れるのよ、こういう雰囲気って」
言って、その後あははと笑った。
「分かったわ。花芹さん。休職期間は縮めさせてもらうから出られる日を教えてちょうだい。そこから復帰ってことで」
「い、いいんですか? でも、店長の許可とかは」
すると「ああいいのよ」と副店長が平手を振る。
「休職扱いにしておけって言ってきたの、店長だから」
「店長が?」
「そうよ。私もね、花芹さんが音信不通になったときどうしようか迷って相談しに行ったのよ。その時にね」
私は店長と深い友好関係を築けているわけではない。職場で顔を合わせてもよくて仕事についての話だけで、それ以外はマトモに会話をしたことすらない。面接の時が、一番盛り上がった気がする。
そんな店長が、どうして。
「店長が言ってたのよ。あの子は花屋で働くために生まれてきたんだから、必ず戻ってくるって」
「そう、ですか」
「ええ」
「面接の時にも、同じことを言われました」
「なら、ずっと信じてたのかもね。あなたが本気を出してくれるところ」
「本気・・・・・・」
本気ってなんだろう。歯を食いしばれば本気なのか。ヘトヘトになれば本気なのか、定義は曖昧だ。
「大丈夫よ。花芹さんなら」
渋い顔をしていたのだろうか。私を慰めるように副店長が肩に触れる。
正直、楽しいのは高校生までだった。制服を脱いで、スーツを着ると何もかもが窮屈になる。運動靴だって走りにくいローファーに変わるし、髪も縛らなければならない。ルール、常識、そんなようなものが入り乱れる渦中に放り出され自分で舵を取ることもままならなかった。
手を広げてもいい範囲が狭くなったかのように、肩を丸めて自分を小さくする。せめて人波にまぎれられるよう、逆らわぬよう。
でも、こうして私を許してくれる誰かがいるだけで世界は広く見える。いや、これまでずっと、いたんだ。いたのに、私が目を背けてばかりだから気付かなかったのだ。
こんなにも手を差し伸べてくれる人たちがいたということを。
「あの、副店長。見て欲しいものがあるんです」
「あら? どうしたの改まって。珍しいわね」
私が改まるというのは珍しいらしい。新たな発見。客観的視線大正義。
「これ、なんですけど」
私は持っていた紙束の中から一枚抜いて副店長に差し出す。
「来た時から気になっていたのよね。これは?」
「裏を見てください」
言うとおり、紙を裏返す。
「わ」
紙に描かれたそれを見て、服店長が小さく声をあげる。
「これ、もしかして春のPOP広告?」
「はい。作ってみました。どうでしょうか」
「すごく綺麗ね。桜の色が一つ一つ違って、幹の模様も美しいわ。散っている花びらも雪みたいで、あら? これは?」
分かっていたことだけど、やっぱり恥ずかしい。副店長の視線は桜の下に描かれた人間に注がれる。
「これも花芹さんが描いたの?」
「え、あ、はい・・・・・・」
カアアと顔が熱くなっていくのが分かる。カラスにでもなりたい気分だ。カアア。
「そうなの? けど、ふふっ・・・・・・そう」
「下手くそ、ですよね。人間だけ」
俯いて、副店長の顔を見ることができない。なら最初から描かなければいいだけの話なんだけど、それでは前に進めない。
私はママの似顔絵を描いて、それを見せて、褒めて貰えればそれでよかった。ママさえ描ければそれでよかった。私の世界には、ママだけいてくれればそれでよかった。え、もしかして私マザコンか? なんか嫌だな・・・・・・。そんなこんなでマザコンを脱するために、ママ以外の人物も描くことに決めたのだ。うん。
「そんなことないわ。一生懸命描いたんだってことが伝わってくる、いい絵だと思う。一応聞くのだけど、これは」
「副店長です」
「これは?」
「白雲さん」
「じゃあ、もしかしてこれが館山さんで、こっちが高橋さん?」
こくりと頷く。恥ずかしくて死んでしまいそうだった。
「ふふっ、しっかり特徴を捉えているからすぐに分かったわ。けど、花芹さんはどこにいるの?」
「あ、それはただ単に書き忘れただけです。みんなとお花見いったらこんな感じかなーって想像していたら、私視点での絵になっちゃったといいますか」
歯切れ悪く誤魔化していると、副店長は絵を見ながら言った。
「そうなの。なら、良かったわ」
「え、どうしてですか?」
「だって、花芹さんから見た私たちはみんな、笑っているってことでしょう?」
そういう意図があったわけではないのだけど、そういう意図もあったのかもしれない。一つ一つ感情を筆に載せているわけでもないので分からない。ただ、微かな願いのようなものが指先に宿っていたのだとしたら、きっとそうなのだろう。
「それで、これ。他にも描いてみたんですけど」
「えっ? 他にもって、この紙全部?」
驚く副店長に、私は頷く。
「あの、稚拙な絵ですけど、これをチラシにでも使ってもらえば少しは宣伝にでもなるんじゃないかと思って」
「全部手書きなの!?」
「あ、はい」
数百枚ある紙束を眺めて、副店長が目を丸くしていた。
「閉店するの、私も寂しいので。力になりたいんです。私も、んと、この職場が、好きなので。お世話になったので。だから、最後まで一緒に、頑張りたいです」
たどたどしい決意表明になってしまった。きっと高校生の体育祭で行われる宣誓ぐらい棒読みだったに違いない。
けど、嘘じゃない。嘘じゃないのだ。
「あ、あの。副店長?」
「え? ああ。うん、そうね。ごめんなさい、私・・・・・・」
「泣いてるんですか?」
副店長の目には微かな光が反射していた。
「いえ、そうね・・・・・・私、あなたがいなくなってからずっと考えてたのよ。私の方針は間違えていたんじゃないかって、ずっと花芹さんに負担をかけていたんじゃないかって。花芹さんがいなくなったのは私のせいなんじゃないかって。でも」
「そうじゃないです。むしろ副店長には助けられてばかりです。副店長ばかりじゃありません。ここで働く人たち、来てくれるお客さんたち、その全ての人たちに・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「あ、いえ。すみません盛りました。でも、誰かの力になりたいっていうのは、本当です」
「ふふっ、そうね。あなたはそうよね」
目尻を擦って、副店長は最後のトマトを口にした。
「よし、午後も頑張るかー」
「あ、あの。よかったら私今からでも」
「だめ。もう少し休んでなさい。それから、もっと私たちを信用すること」
「信用?」
「ええ。従業員が休職したくらいでなんとも思わない。あなたが抜けた穴くらい埋められる。でも、みんなあなたの帰りを待ってる。それだけは、信じて。いい?」
「はい、わかりました」
「いい返事ね。それじゃあ、また連絡をちょうだい」
私の描いた絵を慎重な手つきでロッカーに仕舞って、エプロンを付ける。私なんかより数倍もしなやかな手つきが仕事につぎ込んだ年月を思わせる。
誰よりも仕事に真剣で、けれど時には楽しんで、ちょっとふざけて、従業員のことを考えて。こんなカッコイイ大人になれたらなって、その頼もしい背中を見て思う。
私の手は、いまだに小さい。
「あ、そうそう。花芹さん」
戸に手をかけた副店長が、足を止めてこちらに振り返る。
「大人って、どういう人のことを言うと思う?」
「え?」
思考を読まれたのかと思い目を剥いてしまう。副店長は勝ち気で、悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。
「私はね、大人っていうのは『自分以外の誰かのために生きる人』のことをいうと思うの。あなたは、どう?」
「私は・・・・・・」
自分の胸に手を当てて考える。これまで見てきた大人たちと、今の自分。それから学生時代の自分を照らし合わせる。
考え込む私を見て、副店長が微笑む。答えがどこにあるのか、知っているような表情だった。
大人の定義なんて、きっと様々だ。
大人になれているかどうかは分からないけど、それでも歳を取ったのだから大人だ。大人なんて、要は心構えだ。そんなように曖昧模糊な志を持つ人が多い中で、副店長は断言した。
自分以外の誰かのために生きる人。
私はその言葉に、ひどく納得してしまっていた。
何故なら私の周りにいた人たちがそうだったから。その中心にいたのが、私だったから。
なら今は、どうだろう。
振り返って、前を向いて。
自分の胸に触れて問いかけてみる。
えへ。
ちょっとだけ、自信がついた。
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