第8話 あの日の想いをもう一度

 帰りは母親と澄玲に手を握られながら歩いた。


 空を見上げると、星が前よりもっと輝いて見えた。一つ一つが広大に、鮮明に、私たちの足元を照らす。


 前が見える。隣に誰かがいる。


 一度泣いてしまうと、塞いでいたものが溢れ出すように緩くなる。帰っている最中、何度も泣いた。涙の意味は自分でもよく分からない。ただ、とても熱いものが頬を伝った。


 赤く腫れた目を擦りながら入るお風呂は少し染みたけど、湯船に浸かると幾分か心も落ち着いた。


 濡れた髪をタオルで乾かして、着替えがないことに気付いた。すると母親が、私が昔使っていたパジャマを持ってきてくれた。入らないよ、と言ったが、簡単に袖は通ってしまう。


 変化し、成長し、前に進む。そう思っているのは私だけで、母親の中で私はずっとこのままなんだろうな、とボタンを付けながらそんなことを思う。


 青色の、ペンギンが描かれたパジャマ。鏡を見ると、そこには何も着飾ることのない私がいた。ちょっとだけ、笑ってみる。えへ。


「ってあれ! まつりそのパジャマ!」


 私を見つけて、先にお風呂をあがった澄玲がにまーっと口を曲げる。言わんとしていることは分かる。


 澄玲を私の部屋に招き入れて、一緒に寝ることにした。


「アパートと比べて物がいっぱいあるね」


 あっちでは生活するための道具が置いてある。だけどこの家には、生活に必要ない物ばかりだ。


「まつりのお母さん、優しい人だね」

「うん」


 布団を敷いて、確かな返事をする。肯定するのに、多大な自信があった。


「あれ、これスケッチブックだ。見てもいい?」

「いいよ」


 私のテーブルに置かれていたそれを取ると、寝そべりながらページを開く。私も隣に寄り添って眺めた。


「あ、これさっきの公園? 桜咲くんだね。やっぱり上手だなー」

「人間は下手くそだけどね」

「それでも、まつりが描いたんだってすぐに分かるからすみれは好きだな」

「ありがと」


 お礼を言うと、スケッチブックから目を離して澄玲が私を見た。それからくすぐったそうに身じろぎする。私も照れ隠しのように頬杖を突いてページをめくった。


 動物園に行ったとき、遊園地に行ったとき、授業参観のとき、ピクニックにいったとき、庭で虫捕りをしたとき、ただ家でうどんを食べたとき。至極当然の日常の風景までもが絵になり、そこには必ず私と母親がいた。


 ページをめくるたびに、紙が汚れていく。途中で切れているものまであった。体裁など無視して、どこにでも持ち込んだからだろう。


 クレヨン、鉛筆、筆。色んな物を握り歩いて、何かに出会う。自分のことであるはずなのに、ひどく眩しく見えた。


 最後のページには、絵だけではなく横にメッセージが添えられていた。


 私は慌てて隠そうとするが、澄玲がそれを許してくれない。


「えへへ、そっかぁ。まつり、そっかぁ」

「か、返せ」

「うん返すよ。まつりのだもんね。まつりの、大事な――」

「わー!」


 やかましい口に手で蓋をする。もがもがと暴れて、べろんと手のひらを舐められる。汚い。


 馬乗りになった私の下で、澄玲が笑った。


「でも、大事だよ。ちゃんと伝えなきゃ」

「・・・・・・分かってるよ」


 なんで私がこんながきんちょに説かれなくちゃいけないんだ。なんて悪態が出そうになるが、そういえば、こいつは一足先に母親を亡くしていたのだった。


「伝えられるうちに」


 私の頬に添えられた手は、やけに大人びて見えた。


「うん」


 電気を消して、倒れこむ。


 暗闇の中で、澄玲の琥珀色の瞳が月光のように映えている。


「まつり?」


 私は、もしかしたらずっとあのままだったかもしれない。


 鬱屈に、億劫に、石のように凝り固まった足をいつまで経っても地に着けたまま動かなかったかもしれない。感情が腐敗して体外に出るまで押し殺して、本当の自分の気持ちに気付けないままあの部屋で独りぼっちだったかもしれない。


 冷めてる。枯れてる。


 そうやって自分を蔑んで、それで納得していたかもしれない。


 けど、澄玲がうちに来てくれて、なにもかもが変わった。


 このちんちくりんな体と舌っ足らずな声に、私よりも強い意志に、何度も心を動かされた。私は気付かないうちに変わりつつあって、まさか自分が実家の布団でまた眠る日が来るなんて思っていなかったのに、こうしてここにいる。


 大声で笑うのは恥ずかしいって思ってた。


 頑張るのはダサイって思ってた。


 夢を語るのはバカバカしいって思ってた。


 だからそういう奴らを冷めた目で見て、見て、いつまでも見て、去っていく背中を睨んで、羨んでいた。


 なにものにも捕らわれず、全力で駆けていく人たちが憧れだった。自分もそういう人間になれたらって何度も思った。


 だけどもう遅いなといつも諦めた。


 でも、いいのかな。


「澄玲」


 今度は私が後ろ指を指されたって構わない。


 夢に向かって走る澄玲を笑う人間なんて、本当は誰もいなかったように。


「好きだよ」

「ぴっ」


 鳥みたいに鳴く澄玲の唇に顔を近づける。


 小さい体を抱きしめて、息遣いとシーツの擦れる音だけが部屋に響いた。 


 暗闇でも分かるほど赤くなった澄玲の顔がおかしくて、額と額を合わせて熱を分け合った。


「私、温かい?」

「・・・・・・うん」

「だよね。自分でも分かる。こんなに体が温かいの、いつぶりだろう」


 頭のてっぺんからつま先まで、自分の血と、想いが流れているのを感じる。生きている。心臓が動いている。心が叫んでいる。


「ま、まさかっ、このままする・・・・・・の?」


 澄玲が胸元を隠しながら口をもにょもにょと動かす。


「こっこっこっこっこ心の準備が」 


 そのままコケーと鳴き出しそうな勢いだった。


「ううん、いいや」

「いいの?」

「うん。このままで、いい。このままがいい」


 抱いて抱かれて。


 それが恋愛というものだと思っていた。


 好きだと言われたら体を差し出して、相手が満足してくれたらそれでいい。妙な感慨や面倒なわだかまりを生みたくない。


 だけど、私は澄玲を抱こうとも思わなければ抱かれたいとも思わなかった。


 ただ、傍にいてくれたらそれでいい。


 人を好きになるって、こういうことなのか。なのか? 分からない。それは十人十色というやつだ。ただ、真っ黒に染まってはいない。綺麗に輝く虹色だといいなって、そう思った。


「ありがとね、澄玲」

「ううん。こちらこそ」


 抱き合いながら、耳元で囁いた。


 逃げ出して、仕事を放棄して、実家に来て、私の部屋で、昔のパジャマを着て。なにやってるんだろうな、私たち。


 状況がよく分からなくて、現実感のないふわふわした感覚のまま、抱きしめる。すぐ正面で、澄玲が私を見つめていた。


「なんか、澄玲がいれば頑張れる気がする」

「すみれ、なんにもできてないよ」

「それでも、いいよ。私が知ってる。澄玲が私にくれたもの」

「・・・・・・そっか。なら、よかった」


 澄玲は目を細めて、くしくしと笑った。


「お母さんの言った通りだ」

「ん? 澄玲のお母さんがなんか言ってたの?」

「うん。でも内緒。すみれとお母さんだけの秘密だから」

「なら、聞くのは野暮か」


 布団の中で、澄玲の手が私の手に触れる。澄玲は恥ずかしそうに目を逸らすが、私は指を絡ませて、しっかりと手を繋いだ。離れないように、離さないように。


「これから、頑張ってみる」


 それは、もしかしたら私の夢なのかもしれない。


 口に出すとやっぱり恥ずかしくて、苦いものが舌に残る。


「頑張るぞ」

「本当に頑張れるの? 大丈夫? まつり、意外とよわよわだから」


 からかうように口元を曲げる澄玲に、私は言う。


「やってみなきゃわかんないよ」


 やらないから、自分がどこまでいけるのか、なにならできるのか、分からなかったのだ。


 やってみれば、きっと分かる。やらないより絶対にマシだ。気付いた時にはきっと、前に進めているはずだから。


 できないと分かればそれでもいい。できると分かればもっといい。


 分からないまま暗闇を歩き続けるより、ずっと。


「だから、これからもよろしく。澄玲」

「うん、こちらこそ。まつり」


 引き寄せあって、誓うように言葉を交わす。


「ね、もう一回すみれのこと好きって言って」

「え? うん、いいけど」


 一拍置いて、私は口を開く。


「大好きだよ」


 またもや鳥のうるさい鳴き声が聞こえそうだったので、その前に声をせき止める。


 もう、私は迷わない。


 あ、いや。迷うことはあると思う。そこまできっぱりした性格ではない。ふらふら迷って、後悔しながら生きていく。だけど、前に進む事だけはやめないようにしよう。


 続く道の先できっと、私の荒んだ心を許してくれる人たちが待っててくれるはずだから。


 暗い、暗い部屋の中。


 私と澄玲は、音のしない、静かな口づけを交わした。



「じゃあ、帰るね」


 翌日、私は澄玲を連れてアパートに帰ることにした。


 母親はもっとゆっくりしていけばいいのにと言っていたが、やりたいことがあると告げたら納得してくれた。


「仕事はどうするの?」

「行って、謝ってくるよ。どうなるかは分からないけど」

「クビだな」


 後ろで澄玲が呟いて、ギョロっと睨むと逃げるように走って行った。


「本当に、仲がいいのね」

「好きだからね」

「そう」


 母親はもう驚くことはせずに、温かい目で澄玲の背中を見送った。


「大事にしなさい。人を本気で好きになれることなんて人生に一度あるかないかなんだから」

「うん」

「それから、ご飯はしっかりね。時々野菜送るから、料理の仕方が分からなかったら、電話して聞きなさい」

「うん」

「あんまり無理しちゃだめよ。あんた、体力はあるけど風邪引きやすいんだから。それに、誰よりも寂しがり屋なんだし」

「うん」

「ああ、でも。澄玲ちゃんがいるから大丈夫ね、寂しい問題は」

「ううん」


 私は首を振る。


「会いに来るよ、また」


 荷物もないので、あとは私が去るだけだ。持って帰るものは、気持ちだけ。忘れ物のないように、悔いのないように。


「それじゃあ、またね」

「気を付けて帰るのよ」

「分かってるって」


 どこまでも私への心配しかでてこない母親につい笑ってしまう。


 けど、それほどまでに母親から見た私は不甲斐なく、まだまだ子供で、目が離せないのだろう。


 玄関の戸に手をかけると、この家を飛び出した時のことを思い出す。私は再び、ここから出て行こうとしている。だけど、あの時とは違う。なんの目的もなく、ただ逃げ出したあの時とは違う。


 踵を返そうとする足を止め、再び前を向く。


「茉莉? どうしたの? なにか忘れ物?」

「うん。最後に、ひとつ。伝えなくちゃいけないことがあって」


 深く、息を吸う。


 私に言えるだろうか。


 この想いを、口に出せるだろうか。


 いや、大丈夫。やってみなきゃ分からない。分かるためには、やらなくちゃいけないのだ。


 それに、あれからもう何年も経って、色々な場所で生活して、色々な人と出会って、多少口の滑りはよくなった。


 昔は絵でしか伝えることができなかったけど、今ならきっと言えるはずだ。


「あのね」


 母親と目が合うと、どうしても目を背けたくなる。


 自分が今までかけてきた迷惑による負い目が、私の目を引っ張ってどこかへ持って行こうとする。それでも私は、私を愛してくれている人を見据え続けた。


 スケッチブックに絵を描き終わると、私は時々絵の隣にメッセージを添えた。それは今考えても恥ずかしいことで、でも、今だからこそ伝えなくちゃいけないことなんだ。


 ・・・・・・頑張るぞ。


 口を開いて、目を開いて。


 私の部屋でずっと凍りついていた想いを溶かす。


 それは声となって、ようやく誰かに伝わる。


 子供の私と、大人の私。


 そのどちらも。


「いつもありがと。ママ」


 抱く想いは、ずっと変わっていない。

 

 

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