第2話 ぐちゃぐちゃの交わり
澄玲が驚いたように私を見る。けれど体はドアの前にある気配に向けられていた。迷うように首を動かして、一歩を踏む。
不揃いに置かれた靴に細い足首が入っていく。
気付けば私は、澄玲の腕を掴んでいた。
「い、行かないで」
「まつり・・・・・・」
私よりも背丈の低い澄玲に見上げられるが、その虹彩は見下ろすように柔らかい。まるで私を哀れんでいるかのようだった。
止んでいたノックが再開し、音が床を通して体に入り込んでくる。
「あ、いや・・・・・・これは・・・・・・」
何をやっているんだ、私は。こんな縋るように澄玲を求めて、いったい何をしようと言うのだ。
暗闇で、いいじゃないか。
光がなくては生きていけないなどと弱音を吐いて途方に暮れるな。一人で生きてく方法なんていくらでも知っているはずだ。くだらない世の中の出来事など全て他人事のように受け流すことができたはずだ。
これまでそうやって生きてきたんだ。それなのに。
どうして私は、こんなにも怖いんだ。
「逃げるって、どうするの?」
「あっ、えっと・・・・・・窓とか」
指を指すと、澄玲が笑う。
「スパイみたいだね」
「どっちかというと怪盗だな」
「そっか。すみれ、盗まれちゃうのか」
後ろめたさのせいで澄玲を直視できない。・・・・・・本当に後ろめたさだけか? 形にならない感情に名前を付けようとすると尚更足下がおぼつかない。
「わかった。逃げよ、まつり」
「でも・・・・・・いいの?」
「うん。まつりに付いていくよ。まつりのこと、好きだから」
「そう・・・・・・」
顔が熱くなっていくのが分かった。なんだなんなんだ。私は壊れつつある。自覚があった。倫理観や価値観、これまでの人生で築き上げたものが目の前に差し出された手によって崩れていくのが分かる。
「じゃあ、飛び降りよう」
「大丈夫?」
「ギリギリまで手でぶらさがって、そこから落ちればたいした高度じゃないよ」
なんて、安全な保証などどこにもなかった。着地を失敗すれば足だって折れるかもしれない。澄玲なんて運動を司る神経に糸こんにゃくを使っているような奴だからきっとひょろひょろと着地して隣で悲鳴をあげるに違いない。
「まつりが言うなら、大丈夫だね」
「嘘かもしれないのに?」
「うん」
澄玲はリュックを担ぎ直して靴を手に持った。
人を好きになると、常識が欠如するのだろうか。私がビルから飛び降りようといっても嬉々として付いてきそうな、そんな危うさが澄玲にはあった。
ともすれば私もきっと、おかしいのだと思う。
さも私は無害ですよと看板を掲げてきたが実際のところ演じていただけだ。
澄玲が着地に失敗して骨折するかもしれないというリスクより、傍に居て欲しい。そんな願望のほうが勝ってしまうのだから、きっと私はスパイなんかじゃなくて、自分のためにしか動けない怪盗なのだろう。
いまだ鳴り止まないノックを背に、靴を持つ。電気を切って、ガスの栓を閉める。コンセントもすべて抜いて、ベランダの窓を開けた。
「あ、まって」
すると澄玲は台所の下にある棚の奥からなにやら紙袋を取り出した。どこにそんなもの隠してたんだと怪訝に睨むと澄玲はバツの悪そうに頭をかいた。
「花粉症のお薬」
そういえばそんな季節か。
窓を開けるともうじきやってくる春の夜風が頬を撫でた。
「澄玲」
「なに?」
「ロープみたいなのあると、かっこよくね?」
「おー」
かけ布団を柵にくくりつけて引っ張ってみる。よし、大丈夫。
「いいねいいね!」
澄玲がぴょんぴょんと跳ねて目をキラキラさせる。
先に私が強度を確かめるために降りて、その後に澄玲の尻がもぞもぞ落ちてくる。
もうじき地面、というところで澄玲が手を離す。いやまだ早いだろと背中から落ちる澄玲を抱き留めた。
「期待を裏切らないな本当に」
「えへへ、でもそれはまつりも一緒だよ」
私に何を期待することがあるのだ。
私服姿の私と、何故か制服姿のままの澄玲。月の下を二人で歩くと妙な気分になる。いけないことをしているような、いやようなじゃないな。しているのだ。
アパートの向こうで階段を降りる音が聞こえてくる。さすがにおかしいと思って私たちを探しに来る気なのだろう。
「走るよ!」
「うんっ」
澄玲の手を引いて、地面を蹴った。
夜道は誰もいない。人の目もない。息が切れるほど走ってもぶつかるものがない。行く当てもない。先が見えない。けど、上を見上げると明るい。
昼間とは違う透き通った風を吸い込んで、
「あははっ」
笑う。
たいして澄玲は、ぜえぜえと肩で息をしてギブアップのご様子。どこまでもどこまでも走って行く。そんな体力は私たちにはないのだった。
一つ隣の町まで来て、並んで歩く。私が住んでいる場所よりも街灯が多く店多い。
「これからどこ行くの?」
「そうだな。とりあえず寝る場所を確保しなきゃだから・・・・・・ネカフェだな」
「ね、ネカフェ! すみれ、一回行ってみたかった!」
「たいしたところじゃないけどね」
それは、経営者に失礼か。いやどうなんだろう。たいしたところじゃないからこそ、たいしたことのない人間が心置きなく身を委ねられるのかもしれない。きっと高級ホテルでは休まらないものもあるだろう。
「まつりはネカフェ上級者? プロ?」
「期待のルーキーってとこ、だったかな。学生時代に入り浸ってたけど卒業してからは一度も行ってない」
「そうなんだ。まつりの学生時代ってなんだか想像つかないなぁ・・・・・・」
「今よりもっと、捻くれてたよ。学校の行事には興味なかったし、部活もバイトも適当だったし、家にいるのが嫌でいつもぶらぶらしてた」
今みたいにね。とおどけると澄玲がくしくしと笑った。
「じゃあ、楽しいね!」
「うん」
制服を着た澄玲の隣を歩くと、私まで学生に戻った気分になる。というのはきっと建前で、もしかしたら私は戻りたいのかもしれない。
嫌なことや面倒なもの、苦手な人間は今よりも多かったけど、逃げることが許されたあの頃に。
無事にネカフェに付くと澄玲は緊張したように固唾を飲んだ。二人で狭い個室に入って寝転ぶ。澄玲は最初はおどおどしていたが勝手が分かるとジュースを持ってきたり漫画を持ってきたりした。
けど、いいのだ。やりたい放題やっていい場所なのだ。私も澄玲の隣に並んで漫画を読んだ。その間、何度も私のスマホが震えた。震える度に、私は澄玲に話しかけた。
「もうちょっと、そっち寄ってもいい?」
「え? わ、はいっ、いいですけどもっ」
身を寄せて、熱を感じる。
「ネカフェってさ、監視カメラとかあるんだけど全部のところにあるわけじゃないしそもそも常に見てるわけじゃないんだってね。何か問題があったときだけ確認できるように録画してるだけ、ってバイトしてた子が言ってた」
耳元で囁くと澄玲がもぞもぞと足を動かす。
澄玲が恥ずかしそうに目を逸らすので、無防備になった手を握る。持っていた漫画が落ちて、ページが歪む。もうどこまで読んでいたかも分からなくなるほどに、自分がどこまで来たかも分からなくなるほどに、ぐちゃぐちゃに歪む。きっともう、元のページには戻れない。次開けばまた違う場所だろう。
「目、瞑ってよ。澄玲」
スマホのバイブレーションは、切望を増加させる。
酒に溺れるもの。ギャンブルに溺れるもの。薬物に溺れるもの。どれもこれも、原理は同じだ。
縋るしかないのだ。
求めた手の先にあったのが缶ビールか金か、白い粉か、はたまた同性の唇だったか。違いはそこにしかない。
寝そべって、横を向いたまま淡い桃色に唇を重ねた。
跳ねる腕を押さえつけて、もう一度。もう一度。もう一度。
ああ、これか。
嫉妬にかられた彼女が一心不乱に私を求めたのは、これだったのか。
何もかもを、忘れたかったのだ。次から次へと押し寄せてくる現実を、欲望でかき消したのだ。
押し倒されている澄玲は、何も言わずに私の目を見つめつづけた。いや、睨んでいるのか。後悔しているのか。怒っているのか。
だから、言ったじゃないか。
私なんかに期待するなと。信用するなと。
優しさなんて微塵も持ち合わせていない枯れ果てた女に、希望を抱くなと、言ったじゃないか。
澄玲の両手が、私の頬に触れる。
そうか、こいつも大概おかしな奴だった。
こんな私を好きになる、おかしな奴だった。
ならもういいか。気にする必要などない。
何かを言おうとした澄玲の口を塞ぐ。制服がはだけて、リボンが首に張り付いていた。直す必要はない。なにもかもが不完全な私たちにとって、それはお似合いだから。崩れたまま、散らかったまま、整然としたものから目を背け続ける。
「んんっ・・・・・・」
どちらの声だったかは分からない。
分からないまま、唇を重ねる。
なんでこんなことになったんだ。どこで間違ったんだ。そもそも正解ってなんだ過去に遡っても答えは知らず分からず小学校の頃に夢見たキャンバスは真っ黒で意気込んで入った専門学校は自主退学して興味のない仕事について無意味な日々を過ごして年だけ重ねて背が伸びて戻りたい何もかもが楽しかったあの頃に戻りたい誰かお願いどうして分からないどうすればいいか教えてもういいよ人生こんなものこれでいいでしょ誰も見ないでこないで放っておいてママ助けて。
「・・・・・・マ」
脳みそが乱雑にかき混ぜられたように思考が入り乱れる。
どれが私で本当の気持ちで願いで憧れで後悔で。
それらを全て忘れるため、私は澄玲を感じ続けた。
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